【7th Century Chronicle 661-680年】

【7th Century Chronicle 661-680年】

 

朝鮮半島緊迫と天智天皇

*660.7.18/朝鮮 百済が唐・新羅に滅ぼされる。

*661.1.6/ 斉明天皇中大兄皇子が、百済救済のために海路西に向かう。

*661.7.24/ 斉明天皇(68)没。皇太子 中大兄皇子が政治を執る。

*663.3.-/朝鮮 上毛野稚子が数万の兵を率いて新羅に向かう。

*663.8.28/朝鮮 日本・百済軍が、唐・新羅軍と白村江で戦い大敗を喫する。

*664.-.-/筑前 この年、唐・新羅の侵攻に備え、水城・大野城などを構築する。

*667.3.19/近江 都を大津京(近江京)に移す。

*668.1.3/近江 中大兄皇子が即位する。

*668.5.5/近江 天智天皇が蒲生野で猟を行い、酒宴で大海人皇子が乱行。

*668.9.13/朝鮮 唐・新羅軍が高句麗を滅ぼし、新羅朝鮮半島を統一する。

*669.10.15/ 死期を迎えた功臣 中臣鎌足が、大織冠と大臣の位と藤原の姓を授けられ、翌16日、死去(56)する。

*671.1.5/ 天智の継嗣大友皇子太政大臣となる。

*671.6.24/ 天智の弟大海人皇子が、東宮を辞して出家、吉野に向けて発つ。

*671.12.3/ 天智天皇(46)崩御

 

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 中大兄皇子天智天皇)は、舒明天皇の第二皇子で、母は皇極天皇重祚して斉明天皇)。皇極天皇4(645)年、中大兄皇子中臣鎌足らと謀り、皇極天皇の御前で蘇我入鹿を暗殺するクーデターを起こす(乙巳の変)と、皇極天皇の同母弟を即位させ(孝徳天皇)、自分は皇太子となり様々な改革(大化の改新)を行なった。

 朝鮮半島では緊張が高まり、660年に百済が、唐・新羅連合軍にに滅ぼされる。百済の将軍から支援の要請があり、人質として朝廷に滞在していた百済王子を送り返し、半島に軍事介入する。

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 その間に斉明天皇崩御(68)し、中大兄皇子が皇太子のまま称制し政権を指揮する。天智天皇2(663)年7月、大和政権は朝鮮に大軍を送り、日本・百済連合軍が唐・新羅軍と白村江で戦うも、決定的な大敗を喫した(白村江の戦い)。

 白村江で敗れた大和政権は、唐・新羅連合の侵攻に備え、筑紫に水城や大野城を構築する一方で、遣唐使を派遣し唐との関係修復を試みた。天智天皇6(667)年3月、中大兄皇子は、難波・飛鳥より内陸の近江大津宮(現大津市)へ遷都し、天智天皇7(668)年1月3日、新京でようやく即位(天智天皇)すると、同母弟の大海人皇子(のちの天武天皇)を皇太弟とした。

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 乙巳の変で新政権を樹立したあと発布した「改新の詔」4か条では、「公地公民制」「令制国」「公地公民制」「租庸調の税制」をうたい、明確に律令制を目指したように見えるが、これは後年に潤色されたことが判明している。

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 大津に首都を定め、庚午年籍という戸籍を作り、近江令の編纂を命じたりしているが、その内容は不明であり、天智政権がどの程度明瞭に律令制を意図していたかは疑問とされるが、確固たる王権の樹立を目指していたのは確かである。

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 しかし、対外状況の緊迫や内政の政情不安が続き、皇太子として実質を仕切りながらも20年以上即位しなかったことなど、不安定な状況が続いた。天智天皇8(669)年には、天智の政権を支えてきた中臣鎌足が亡くなり、天智天皇10(671)年9月、天智天皇は病に倒れ重態となる。

 天智は弟の大海人皇子に後事を託そうとするが、大海人は拝辞し、剃髪して吉野へ退く。天智天皇は、第1皇子大友皇子を皇太子と定めたのち、天智天皇10(671)年12月3日、近江大津宮崩御する。

 

壬申の乱

*672.6.24/ 大海人皇子が吉野を脱出し東国に向かう(壬申の乱の始まり)

*672.7.22/近江 近江朝廷軍が、大海人皇子軍に近江の瀬田で大敗する。

*672.7.23/ 追い詰められた大友皇子(25)が自殺する。

*672.9.12/ 大海人皇子が飛鳥の嶋宮に入る。その冬には、新たに造営された飛鳥浄御原宮に移る。

*673.2.27/ 大海人皇子が即位(天武天皇)し、鸕野皇女(のちの持統天皇)を皇后とする。

 

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 「壬申の乱」は、天武天皇元(672)年6月24日に起こった古代日本最大の内乱で、天智天皇の皇太子「大友皇子」(弘文天皇の称号を追号)に対し、皇太弟「大海人皇子」(後の天武天皇)が兵を挙げ、大海人皇子が勝利し、天武天皇となった事件である。

 660年代後半、都を近江宮へ移していた天智天皇は、同母弟の大海人皇子を皇太弟(皇太子)に立てていたが、天智天皇10(671)年10月、自身の皇子である大友皇子太政大臣につけて、後継とする意思を見せはじめた。

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 天智天皇はまもなく病に臥せり、大海人皇子に後事を託そうとしたが、大海人は天智の意をくんで、大友皇子を皇太子に推挙し、自らは出家剃髪して吉野宮に退いた。天智天皇大友皇子に跡を継がせると決め、天智天皇10(671)年12月、近江宮の近隣山科において崩御(46)する。

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 当時は父子相続より兄弟間の移譲が主流であり、天智の下で実績を積んだ大海人は、舒明・皇極という両天皇の子で、天智の同母弟として血流的にも後継資格があった。一方、跡を継いだ大友皇子まだ24歳、天智の子とはいえ母は身分が低かった。

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  天武天皇元(672)年6月24日、大海人皇子は挙兵を決意し吉野を出立した。大海人皇子は美濃・伊勢・伊賀・熊野などの豪族を従えて、長男の「高市皇子」の軍とも合流する。近江朝廷の大友皇子側も兵力動員をかけるが、大海人皇子側の妨害で思うにまかせなかった。

 大海人皇子軍は、近江と大和の二方面に分かれて進み、大和では苦戦するが、近江方面の軍は、北近江から琵琶湖東岸を南下し、7月22日に瀬田橋の戦いで近江朝廷軍を打ち破り、翌7月23日には大友皇子が自殺し、乱は収束した(壬申の乱)。

 

 翌天武天皇2(673)年2月、大海人皇子飛鳥浄御原宮を造って即位した。天武天皇は、論功行賞と秩序回復のため、服制の改定・八色の姓の制定・冠位制度の改定などを行い、中央集権制を進めていった。

 天武天皇は、鸕野讃良皇女(持統天皇)を皇后に立て、大臣は置かず親政をおこなった。天武の死後は皇后が持統天皇として引き継ぎ、天武・持統の治世には本格的に律令制が進められた。

 

 壬申の乱の原因として、いくつかの説が挙げられている。まずは「皇位継承紛争」で、当時は同母兄弟間での皇位継承が慣例だったが、天智天皇が嫡子相続制に切り替えを図ったことなどが挙げられる。

 また「白村江の敗戦」や、それに伴った近江宮遷都などが、民衆に大きな負担を課すことになり、天智の急進的な政治改革路線に抵抗する旧守派が、大海人を担ごうとしたことが理由ともされる。

 

 残るひとつは「額田王をめぐる不和」とされ、天智天皇大海人皇子額田王(女性)をめぐる三角関係に原因を求める説があるが、これは江戸時代に言われ出した説で、歴史的な根拠は薄い。

 この説は、「万葉集」に収録されている額田王(ぬかたのおおきみ)と大海人皇子の一対の相聞歌に、その因を発する。このやり取りは、天智天皇7(668)年、天智天皇が蒲生野で猟を行った時のことと言われ、その後の酒宴で、激した大海人皇子が長槍を振り回すという乱行をはたらいたとされるが、その理由は不明である。

 

・あかねさす紫野行き標野行き 野守は見ずや君が袖振る(額田王

・紫のにほへる妹を憎くあらば 人妻ゆゑに我れ恋ひめやも(大海人皇子

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 額田王は、大海人皇子天武天皇)に嫁し十市皇女を生んだとされ、その後、中大兄皇子天智天皇)にも寵愛されたという話もあるが定かではない。ただそのような境遇で、上の相聞が交わされたとあれば、ただ事ではない気配も感じられる。

 これ以上は歴史とは言えないが、古代のロマンを感じさせる物語でもあるので、詳しくは下記に掲載しておく。

naniuji.hatenablog.com

 

(この時期の出来事)

*668.-.-/ 中臣鎌足近江令の編纂を命じられ、ほぼ完成する。

*670.2.-/ 初の全国戸籍「庚午年籍」の作成が始まる。

*680.11.12/大和 天武天皇が、皇后の病気回復を祈願して、薬師寺建立の願をたてる。

 

【7th Century Chronicle 641-660年】

【7th Century Chronicle 641-660年】

 

乙巳の変大化の改新

*645.6.12/ 中大兄皇子中臣鎌足らと、板葺宮で蘇我入鹿を暗殺する(乙巳[いつし]の変/大化の改新の始まり)。

*645.6.13/ 蘇我蝦夷が、館に火を放ち自殺する。

*645.6.14/ 孝徳天皇が即位し、中大兄皇子が皇太子となり、中臣鎌足は内臣とする。

*645.6.19/ 初めて元号を定め「大化」とする。

*646.1.1/ 「改新の詔」4か条を発布する。

*652.1.-/ 最初の班田収授が行われる。

*652.9.-/ 難波長柄豊碕宮が完成する。

*655.1.3/ 孝徳天皇と不仲になった中大兄皇子が、皇極上皇を再び即位させ斉明天皇とする。

*656.-.-/ この年、後飛鳥岡本宮斉明天皇が移る。

 

乙巳の変」(いっしのへん)は、「中大兄皇子」・「中臣鎌足」らが宮中で蘇我入鹿を暗殺して蘇我氏蘇我本宗家)を滅ぼした飛鳥時代の政変のことを指し、それに続いて、中大兄皇子を中心に体制を刷新する一連の改革が行われ、それを「大化の改新」と呼ぶ。

 推古天皇30(622)年2月、厩戸皇子聖徳太子)が死去した。聖徳太子蘇我氏の血も引いており、「蘇我馬子」と連携して推古天皇の摂政的役割をになっていたが、その死により蘇我氏を抑える者がいなくなり、蘇我氏の専横が際立つようになった。

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 推古天皇36(628)年3月、推古天皇が後嗣を指名することなく崩御すると、馬子の後を継いだ「蘇我蝦夷」は、後継に田村皇子を推し、「山背大兄王」(聖徳太子の子)を推す叔父の境部摩理勢を滅ぼしてしまい、強引に田村皇子(舒明天皇)を即位させた。

 皇極天皇2(643)年10月、蘇我蝦夷は朝廷の許しも得ず、紫冠を自分の継嗣「蘇我入鹿」に授け大臣となし、自分の後継とした。皇極天皇2(643)年11月、蘇我入鹿は、蘇我氏の血をひく古人大兄皇子を次期天皇に擁立しようと望み、有力な皇位継承権者である山背大兄王を襲撃させ、聖徳太子の血を引く上宮王家を滅亡させてしまう。

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  舒明天皇の子「中大兄皇子」や神祇職の一族の「中臣鎌足」は、蘇我氏の専横を憎み蘇我氏打倒の計画を密に進めた。鎌足らはさらに、蘇我一族の長老 蘇我倉山田石川麻呂を同志に引き入れ、機会をうかがった。

 皇極天皇4(645)年、三韓新羅百済高句麗)からの使者が進貢をする朝廷の儀式が行われることになり、大臣の入鹿も必ず出席するとして、中大兄皇子たちはこれを暗殺の絶好の機会とした。

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 皇極天皇4(645)年6月12日、板葺宮の大極殿皇極天皇が出御し、蘇我入鹿も入朝し、石川麻呂が上表文を読み上げる。その時、潜んでいた中大兄皇子中臣鎌足らは、一気に入鹿に斬りかかり、逃げようとする入鹿を討ち取った。

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 中大兄皇子は迅速に周辺を固め、諸皇族・諸豪族を従わせることに成功した。翌6月13日、観念した蝦夷は自ら舘に火を放ち自殺し、強盛を誇った蘇我本宗家は滅亡した。翌6月14日、皇極天皇軽皇子孝徳天皇)へ譲位し、中大兄皇子は皇太子となった。

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 中大兄皇子阿倍内麻呂左大臣蘇我倉山田石川麻呂を右大臣、中臣鎌足を内臣に任じ、後に「大化の改新」と呼ばれる一連の改革を断行する。初となる元号を「大化」と定め、翌大化2(646)年正月には、新政権の方針を大きく4か条にまとめた「改新の詔」を発布した。改新の詔は、それまでの「氏姓制度」を廃止し、天皇を中心とする中央集権の「律令国家」を目指すものであった。

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 これらは、大化の改新が明確に律令体制を目指した改革と示すものであったが、日本書紀などの記述は、天武・持統以降の律令が整えられた時代に沿うように粉飾されたものだと判明している。以降、中大兄皇子が「天智天皇」として即位してからも、近江京に遷都するなど、政権も政策も不安定な状況が続くことになる。

 

(この時期の出来事)

*642.1.15/ 皇極天皇が即位。蘇我蝦夷の子入鹿が執政となる。

*643.4.28/ 皇極天皇離宮から、完成した板葺宮に移る。

*643.10.6/ 蘇我蝦夷が、天皇の授けるべき紫冠を、独断で子の入鹿に授け、大臣に擬する。

*643.11.1/ 蘇我入鹿が、聖徳太子の継嗣山背大兄王を襲撃し、一族を滅亡させる。

*649.3.25/ 蘇我倉山田石川麻呂が、謀反の疑いをかけられ自殺する。

*650.2.9/ 宍戸(長門)の国から白い雉が献上され、瑞祥として「白雉」と改元する。

*658.4.-/ 阿倍比羅夫が、水軍を率いて日本海を北上、秋田・能代蝦夷を平らげる。

*658.11.11/ 孝徳天皇の皇子 有間皇子19)が、謀反のかどで処刑される。

*660.7.16/朝鮮 百済が唐・新羅に滅ぼされる。百済の将軍鬼室副信は、日本に救援を求める。

 

【7th Century Chronicle 621-640年】

【7th Century Chronicle 621-640年】

 

蘇我氏の興隆

*623.-.-/ この年、蘇我馬子新羅征討軍を派遣し、新羅は服して調を貢進する。

*624.10.1/ 蘇我馬子が葛城県を求めるも、推古天皇は拒む。

*626.5.20/ 蘇我馬子(76?)没。馬子の子 蝦夷が葬儀を仕切るも、馬子の弟 境部臣摩理勢と軋轢が生じる。

*626.-.-/ 蘇我馬子の子 蝦夷が大臣(おおおみ)になる。

*628.9.-/ 推古天皇崩御したあと、皇位継承をめぐり紛糾する。蘇我蝦夷は田村皇子(舒明天皇)を擁立し、山背大兄王聖徳太子の長子)を推す叔父の境部臣摩理勢を殺害する。

*643.11.1/ 蝦夷の子 蘇我入鹿が、山背大兄王を襲撃して一族を滅ぼす。

 

 蘇我氏は、河内の石川および飛鳥の葛城県蘇我里を本拠としていた土着豪族であったとされる。具体的な活動が記述されるのは、6世紀中頃の「蘇我稲目」からで、それ以前に関してはよく分かっていない。渡来系の氏族と深い関係にあったと見られ、渡来人の持つ当時の先進技術が、蘇我氏の台頭の一助になったと考えられる。

 また蘇我氏、仏教が伝来した際にいち早く取り入れ、朝廷の祭祀を任されていた物部氏、中臣氏に対抗した。稲目の代の頃には、過去に勢いのあった葛城氏や平群氏が衰退し、大臣の蘇我氏は、大連の大伴氏や物部氏にならぶ三大勢力の一つとなる。やがて大伴金村が失脚すると、大連の物部尾輿と大臣の蘇我稲目が二大勢力となった。

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 蘇我稲目・馬子父子は、娘を次々と天皇に嫁がせ、大王(天皇)の外戚となって勢力を強めていった。二大勢力の構図は次代の「蘇我馬子」と「物部守屋」に引き継がれ、用明天皇崩御後に後継者をめぐる争いが起こった。

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 蘇我馬子は、物部氏に擁立されていた穴穂部皇子を暗殺し、続く戦いで物部守屋を討ち滅ぼし、泊瀬部皇子を即位させ「崇峻天皇」とした。やがて崇峻天皇と対立すると、蘇我馬子は、天皇を暗殺させる。馬子は、初の女帝「推古天皇」を就任させるも、その推古天皇にも葛城県の割譲を要求するなど、思うままに振る舞うようになった。

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 推古天皇34(626)年、馬子が死去すると、馬子の子「蘇我蝦夷」が跡を継ぐが、馬子の弟で叔父の「境部摩理勢」との対立が生まれ、推古天皇36(628)年、推古天皇崩御すると、皇位継承者の選定で意見が対立、山背大兄王を推薦した叔父 境部摩理勢を殺害し、蝦夷は田村皇子を「舒明天皇」として即位させた。

 蘇我蝦夷は、山背大兄王の私民を使役して自らの墓所を作らせたり、子である「蘇我入鹿」に勝手に紫冠を授けて大臣とするなど、自らを大王に擬する行為があったという。さらに入鹿は、皇極天皇2(643)年、聖徳太子の継嗣「山背大兄王」を襲って一族を滅亡させるなど、蘇我氏一族の横暴が際立った。

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 皇極天皇4(645)年7月10日、三韓新羅百済高句麗)使者による進貢の儀式が大極殿で行われ、儀式に出た蘇我入鹿は、潜んでいた「中大兄皇子」(天智天皇)と「中臣鎌足」らに討ち取られ、入鹿の死を知った蝦夷も、館に火をかけ自害した(乙巳の変)。

 皇極天皇軽皇子孝徳天皇)へ譲位し、中大兄皇子は皇太子に立てられ、内臣となった中臣鎌足らとともに、後に「大化の改新」と呼ばれる改革を断行する。以後蘇我氏は、かつての勢いは戻らないまま歴史の表舞台から姿を消す事になる。

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 これらの歴史は、日本書紀など天智・天武の治世以降に編纂された史書の記述に基づいており、皇統に滅ぼされた蘇我氏は、意図的に悪者にされている点に留意しなければならない。

 事績だけから見れば、蘇我氏は半島事情に詳しく、当時の先端技術や大陸の仏教をいち早く取り入れた革新派であり、開明的な政策を展開したとも考えられる。

 

(この時期の出来事)

*622.2.22/ 聖徳太子(49)没。

*623.3.-/ 聖徳太子追善供養のため、太子妃が鞍作鳥に法隆寺金堂の金銅釈迦三尊像をつくらせる。

*630.8.5/ 犬上御田鍬・恵日らを唐に派遣する(第1次遣唐使)。

 

【戦後ショービジネスと風俗小説 / 肉体の門】

【戦後ショービジネスと風俗小説 / 肉体の門

 

1947年8月 新宿・帝都座で初演された空気座による「肉体の門」の大ヒットは、その後の軽演劇に大きな影響を与えた。

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戦後のパンパン(米兵などを相手にした娼婦はこう呼ばれた)風俗を描いた田村泰次郎作の小説「肉体の門」は、大きな話題を呼び、帝都座で新宿空気座によって初演されると、やがて1000回を超えるロングランとなった。「肉体の解放こそ人間の解放である」というテーマが受け入れられたのかどうか、その後何度も映画化やドラマ化された。

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肉体の門」 (1964年/映画/鈴木清順監督)では、野川由美子(ボルネオ・マヤ)・松尾嘉代ジープのお美乃)・宍戸錠(伊吹新太郎)といキャスティングで、パンパンたちが盗んできた生きた牛一頭を捌くシーンなど、迫力があった。

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この当時、当方は中高生で、講談社名作全集の「田村泰次郎集」というボロボロの本を、偶然に納屋で見つけて隠れ読みした。昭和25年発行・大日本雄弁会講談社刊となっている。旧漢字旧仮名遣い、戦後すぐの粗雑な酸性紙で変色しており、すり減った活字で印刷されている。それでも頑張って読んだ(笑)

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納屋には、ほかにも江戸川乱歩の猟奇シリーズとかがいっぱいあって、宝の山だった。どうやら好事家のコレクションを、まとめてもらい受けたものと思われる。当時の我が家には、この手のものを読むインテリジェンスはいなかったはずで、どんな経緯で我が家の納屋にあったのか不明である。

 

 

【7th Century Chronicle 601-620年】

【7th Century Chronicle 601-620年】

 

聖徳太子厩戸皇子厩戸王

*592.12.8/ 推古天皇が即位する。

*593.4.10/ 聖徳太子厩戸皇子)が国政に参画する。

*601.2.-/ 聖徳太子斑鳩宮を建てる。

*603.12.5/ 聖徳太子が、「冠位十二階」を定める。

*604.4.3/ 聖徳太子が「憲法十七条」の草案を示す。

*605.4.1/ 推古天皇が、鞍作鳥に命じて丈六の金銅仏(飛鳥仏)を作らせる。

*607.7.3/ 遣隋使として小野妹子を隋に派遣する(第2次遣隋使)。

*607.-.-/ 聖徳太子法隆寺を建立する。

*615.4.15/ 聖徳太子が、法華経の注釈書「法華経義疏」を著し、先の「勝鬘経義疏」「維摩経義疏」と合わせて「三経義疏」と総称される。

*620.-.-/ この年、聖徳太子蘇我馬子らが「天皇記」「国記」を編纂する。

*622.2.22/ 聖徳太子(49)没。

 

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 聖徳太子厩戸皇子/厩戸王)は、敏達天皇3(574)年、橘豊日皇子(用明天皇)と穴穂部間人皇女との間に生まれた。両親ともに蘇我稲目の娘の子であり、厩戸皇子蘇我氏と強い血縁関係に生まれた。

 用明天皇元(585)年、父 橘豊日皇子が即位した(用明天皇)。この頃、仏教の受容を巡って崇仏派の蘇我馬子と排仏派の物部守屋とが激しく対立するようになっていた。用明天皇2(587)年、用明天皇崩御すると、皇位を巡って争いになり、馬子は守屋が推す穴穂部皇子を誅殺し、守屋討伐の大軍を起こした。討伐軍は三度撃退されるも、最後には守屋を射殺すことに成功し物部氏を討ち敗った。

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 戦後、馬子は泊瀬部皇子(崇峻天皇)を皇位につけたが、実権を握る馬子は崇峻天皇と対立すると、崇峻天皇5(592)年天皇を暗殺する。馬子は豊御食炊屋姫(女帝推古天皇)を擁立し、厩戸皇子は皇太子となり、馬子と共に天皇を補佐する。

 推古天皇11(603)年、「冠位十二階の制」を定め、氏姓制に代わって広く人材を登用するとともに、天皇の中央集権を強めようとした。さらに推古天皇12(604)年、いわゆる「十七条憲法」を制定し、豪族たちに臣下としての心構えを示し、天皇に従い、仏法を敬うよう定めた。

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 推古天皇15(607)年、小野妹子を隋に派遣(第2次「遣隋使」)、隋の煬帝に対して「東の天皇 西の皇帝に 敬まひて白す」と返書をしたため、当時国内ではもっぱら「大王(おおきみ)」と呼称されていたのを、あえて「天皇」と記した。

 厩戸皇子は仏教を厚く信仰し、推古天皇23(615)年までに仏典の注釈書「三経義疏」を著した。また、推古天皇28(620)年、厩戸皇子は馬子と議して「国記」「天皇記」という国史を編纂した。推古天皇30(622)年、厩戸皇子没。享年49。

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 「日本書紀」などでは、上記のように聖徳太子厩戸皇子/厩戸王)の事績が語られているが、「聖徳太子」は後世の諡号であり、これらの偉業が「厩戸皇子」一人のものとする確証は無く、複数の人物の事績を「聖徳太子」の名のもとにまとめて記したのではないかと思われる。

 日本書紀などの史書は、天武・持統朝以降に順次編纂され、それらの時代の意図で書かれている。大王(おおきみ)と諸豪族の連合政権に過ぎなかったものが、次第に「天皇」の名のもとに集権化されてゆく流れに沿って、意図的に編纂されている。それらの意向に沿って、「聖徳太子」という仮構の上に業績が一元化されたのではないだろうか。

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 このような歴史解釈で、「聖徳太子非実在説」が喧伝されるようになった。近年の歴史教科書では「厩戸皇子厩戸王聖徳太子)」などと記述され、聖徳太子の名は後退しつつある。

 

【8th Century Chronicle 781-800年】

【8th Century Chronicle 781-800年】

 

長岡京から平安京遷都へ

*781.4.3/ 山部親王が即位する(桓武天皇)。

*784.610/ 藤原種継を造長岡宮使に任命し、長岡京造営に着工する。

*784.11.11/ 桓武天皇長岡京に移る(長岡遷都)。

*785.9.23/ 造営使 藤原種継が射られて死亡する。

*785.9.28/ 種継暗殺に連座したとされる、皇太弟早良親王を廃し追放する。

*793.3.1/ 桓武天皇が新京予定の地 葛野に行幸する。

*794.10.22/ 桓武天皇が「平安京」に遷都し、山背を山城と改名する。

*796.-.-/ この年、東寺・西寺・鞍馬寺が建立される。

*800.7.23/ 桓武天皇が、故早良親王の怨霊を恐れ崇道天皇と追称する。

 

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 781年4月に即位した「桓武天皇」は、天武系勢力の残る平城京を避けて、784年平城京から山背国乙訓郡の「長岡京」に都を移す。桓武の政務を担っていた式家「藤原種継」は、山背国乙訓郡長岡の地への遷都を提言し、造長岡宮使に任命された。

 しかし785年9月、造宮使の種継が何者かに矢で射られ暗殺される。首謀者の中には、遷都の反対勢力として、東大寺など平城京の仏教勢力などが関わっており、また桓武天皇の皇太弟「早良親王」もこの叛逆に連座して、廃嫡のうえ配流となりその途上で憤死する。
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 早良親王の死後、飢饉・疫病に加えて、桓武天皇近親者の相つぐ死去など凶事が続いた。その上に、新都で二度にわたる大洪水が起こり、それら凶事は早良親王の怨霊によるもの考えられた。治水担当者であった和気清麻呂の建議もあって、793年再遷都のための公式調査が葛野郡宇太村で行われた。

  そして長岡京への遷都からわずか10年後の794年、桓武天皇は「平安京」へ再遷都を宣言することになった。平安京は、長岡京の北東で山背国北部の葛野郡および愛宕郡の地で、桓武天皇京都市東山区にある将軍塚から見渡し、この地に決めたといわれる。

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 平安京は、都の中央に南北を貫く朱雀大路が設えられ、その一番北に、皇居と官庁街を含む大内裏が設けられ、中央には大極殿が造営された。その後方の東側には天皇の住まいである内裏が設けられた。「朱雀大路」によって京域は「左京(東側)」と「右京(西側)」に分かれ、その南端には「羅城門」が設けられており、その両側に官寺である「東寺」と「西寺」が配置された。

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 平安京は唐の長安を模して「条坊制」を取り入れ、現在残る京都の碁盤目状の街並みはその頃に造られたものが土台になっている。南北に9本の大路「坊」と東西に9本の大路「条」で区画され、大路に囲まれた180丈(約540m)四方の地域も「坊」といい、その坊がさらに小路により「町」に分けられた。

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 平安京の東西には「鴨川」や「桂川」が流れ、これらの川で水運で都に物資を運び、運ばれた物資は都の中にある大きな2つの市(東市・西市)に送られた。平城京を苦しめた生活排水や藤原京の廃都原因になった洪水などへの対策も講じられた。

  広大な京域が設けられたため、条坊が人家で埋まるには年月がかかり、特に右京の南部は桂川流域の湿地帯にあたるため、10世紀ごろには荒廃した。そのため、後年豊臣秀吉御土居で囲った市域は、左京側が中心となった。

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 唐の東西の都 長安と洛陽に模して、平安京の右京を長安・左京を洛陽と呼び習わしたところから、洛陽部分にあたる残された京都の街中を「洛中」と呼び、その外を「洛外」と呼ばれるようになった。

 こうして平安京より東に偏った地域に京都の街が形成されてゆき、平安京の内裏は何度も焼失し、天皇は里内裏と呼ばれる仮住まいを繰り返したが、その一つで平安京の東北にあった土御門東洞院殿が、現在の「京都御所」となった。また、平安京の東の端を示した「東京極大路」の場所は、現在 寺町通り・新京極通りとして、中心街となっている。

 

(この時期の出来事)

*788.-.-/ この年、最澄比叡山寺(延暦寺)を創建する。

*792.6.7/ 軍団兵士制を廃止し、健児制を敷き戦闘力を強化する。

*797.2.13/ 菅野真道らが「続日本記」全40巻を進上する。

*797.9.4/ 国司などを監視する勘解由使を新設する。

*79711.5/ 坂上田村麻呂征夷大将軍に任命される。

 

【8th Century Chronicle 761-780年】

【8th Century Chronicle 761-780年】

 

孝謙天皇弓削道鏡

*762.6.3/ 孝謙天皇が、藤原仲麻呂恵美押勝)の擁する淳仁天皇を非難し、国政掌握を宣言する。

*764.9.11/ 藤原仲麻呂恵美押勝)が反乱を起こすも、近江で敗死する(藤原仲麻呂の乱)。

*764.9.20/ 弓削道鏡が大臣禅師となる。

*764.10.9/ 淳仁天皇を廃し淡路に配流、孝謙上皇称徳天皇として重祚する。

*765.閏10.2/ 道鏡が、太政大臣禅師となる。

*766.10.20/ 道鏡が法王となる。

*768.2.18/ 道鏡の弟弓削浄人が大納言となる。

*769.9.25/ 和気清麻呂が、宇佐八幡の神託を虚偽であるとして、道鏡の即位を阻止するも、道鏡らの怒りで大隅に流される(宇佐八幡宮神託事件)。

*770.8.4/ 称徳天皇(53)没。後ろ盾を失った道鏡は下野に配流され、和気清麻呂が召喚される。

 

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 「孝謙天皇」(阿倍内親王/称徳天皇)は、父は聖武天皇、母は藤原藤原不比等の娘 光明皇后光明子)の間に生まれた。光明皇后は後に基王を生むが早世したため、阿倍内親王が749年、父聖武天皇の譲位により孝謙天皇として即位した。

 孝謙女帝の治世前期は光明皇太后が後見し、皇太后の甥「藤原仲麻呂」の勢力が拡大した。聖武天皇の治世から政務を仕切っていた橘諸兄は、756年、讒言により辞職に追い込まれ、翌757年、孝謙天皇聖武が生前に後継に指定した道祖王を廃し、仲麻呂が推す大炊王淳仁天皇)を立太子させた。

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 翌757年、仲麻呂の専横に不満を持った橘諸兄の子「橘奈良麻呂」は、新帝を擁立するクーデターを計画するも、仲麻呂により事前に察知され、拘束されると過酷な拷問などにより粛清された(「橘奈良麻呂の乱」)。以降、仲麻呂の権勢はさらに強まり、758年、孝謙天皇大炊王淳仁天皇)に譲位し、太上天皇となる。

 淳仁天皇擁立を果たした藤原仲麻呂は、藤原恵美朝臣の姓と押勝の名が与えられ「恵美押勝」と称すると、唐好みを発揮して唐風政策を推進し、官位を唐風に改称させ、自身は右大臣(太保)に就任する。

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 しかし、760年に光明皇太后崩御すると、孝謙上皇仲麻呂淳仁天皇の関係は微妙なものとなる。761年に病に伏せった孝謙上皇は、看病に当たった「弓削道鏡」を寵愛するようになった。

 762年には孝謙上皇淳仁天皇仲麻呂の不和が表面化し、上皇は国家の政務を自分が執ると宣言する。不和の原因は、道鏡を除くよう淳仁天皇仲麻呂が働きかけた事とされる。そして、763年から764年にかけて、孝謙上皇道鏡淳仁天皇仲麻呂の勢力争いが続く。


 764年9月11日、仲麻呂が軍事準備を始めると、これを察知した孝謙上皇の手勢との間で戦闘が起き、仲麻呂は朝敵となった。仲麻呂近江国に逃走するが、あっけなく殺害される(「藤原仲麻呂の乱」)。

 仲麻呂敗死の知らせを聞いて、孝謙上皇は、仲麻呂によって変えられた官庁名を旧に復し、淳仁天皇を廃して流刑とした。上皇重祚し「称徳天皇」として皇位に復し、道鏡太政大臣禅師に任じ、翌年には法王とする。こうして称徳天皇道鏡の二頭体制が確立された。

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 769年、大宰府の主神(かんづかさ)中臣習宜阿曾麻呂が宇佐八幡神の神託として、「道鏡皇位に就くべし」との託宣を報じたとされた。これを確かめるべく、「和気清麻呂」を勅使として宇佐八幡宮に送ると、清麻呂は託宣は虚偽であると復命し、道鏡皇位に就くことを阻止した。清麻呂称徳天皇道鏡の怒りに触れ、別部穢麻呂(きたなまろ)と改名させられた上で大隅国へ流された(宇佐八幡宮神託事件)。

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 770年、称徳天皇は由義宮に行幸するも発病し、崩御する(53)。後ろ盾を失った道鏡の権力はすべて奪われ、失脚して下野国薬師寺別当に左遷される。称徳天皇崩御にあたり、群臣の協議により白壁王が後継として指名され、「光仁天皇」として即位する。これにより、天武の皇統から天智系に復帰し、次の桓武天皇によって藤原京平安京に遷都されることになる。

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 孝謙天皇に寵愛されたことから、道鏡には様々な噂が語られる。江戸時代には「道鏡は すわるとひざが 三つでき」という川柳が詠まれるなど、いわゆる巨根伝説が広がるが、歴史的事実としては確認しようがない。

 

(この時期の出来事)

*779.2.8/ 淡海三船が、鑑真和上の伝記「唐大和上東征伝」を著す。

*779.-.-/ このころ「万葉集」ができる。