【7th Century Chronicle 641-660年】
【7th Century Chronicle 641-660年】
*645.6.12/ 中大兄皇子が中臣鎌足らと、板葺宮で蘇我入鹿を暗殺する(乙巳[いつし]の変/大化の改新の始まり)。
*645.6.13/ 蘇我蝦夷が、館に火を放ち自殺する。
*645.6.14/ 孝徳天皇が即位し、中大兄皇子が皇太子となり、中臣鎌足は内臣とする。
*645.6.19/ 初めて元号を定め「大化」とする。
*646.1.1/ 「改新の詔」4か条を発布する。
*652.1.-/ 最初の班田収授が行われる。
*652.9.-/ 難波長柄豊碕宮が完成する。
*655.1.3/ 孝徳天皇と不仲になった中大兄皇子が、皇極上皇を再び即位させ斉明天皇とする。
「乙巳の変」(いっしのへん)は、「中大兄皇子」・「中臣鎌足」らが宮中で蘇我入鹿を暗殺して蘇我氏(蘇我本宗家)を滅ぼした飛鳥時代の政変のことを指し、それに続いて、中大兄皇子を中心に体制を刷新する一連の改革が行われ、それを「大化の改新」と呼ぶ。
推古天皇30(622)年2月、厩戸皇子(聖徳太子)が死去した。聖徳太子は蘇我氏の血も引いており、「蘇我馬子」と連携して推古天皇の摂政的役割をになっていたが、その死により蘇我氏を抑える者がいなくなり、蘇我氏の専横が際立つようになった。
推古天皇36(628)年3月、推古天皇が後嗣を指名することなく崩御すると、馬子の後を継いだ「蘇我蝦夷」は、後継に田村皇子を推し、「山背大兄王」(聖徳太子の子)を推す叔父の境部摩理勢を滅ぼしてしまい、強引に田村皇子(舒明天皇)を即位させた。
皇極天皇2(643)年10月、蘇我蝦夷は朝廷の許しも得ず、紫冠を自分の継嗣「蘇我入鹿」に授け大臣となし、自分の後継とした。皇極天皇2(643)年11月、蘇我入鹿は、蘇我氏の血をひく古人大兄皇子を次期天皇に擁立しようと望み、有力な皇位継承権者である山背大兄王を襲撃させ、聖徳太子の血を引く上宮王家を滅亡させてしまう。
舒明天皇の子「中大兄皇子」や神祇職の一族の「中臣鎌足」は、蘇我氏の専横を憎み蘇我氏打倒の計画を密に進めた。鎌足らはさらに、蘇我一族の長老 蘇我倉山田石川麻呂を同志に引き入れ、機会をうかがった。
皇極天皇4(645)年、三韓(新羅・百済・高句麗)からの使者が進貢をする朝廷の儀式が行われることになり、大臣の入鹿も必ず出席するとして、中大兄皇子たちはこれを暗殺の絶好の機会とした。
皇極天皇4(645)年6月12日、板葺宮の大極殿に皇極天皇が出御し、蘇我入鹿も入朝し、石川麻呂が上表文を読み上げる。その時、潜んでいた中大兄皇子と中臣鎌足らは、一気に入鹿に斬りかかり、逃げようとする入鹿を討ち取った。
中大兄皇子は迅速に周辺を固め、諸皇族・諸豪族を従わせることに成功した。翌6月13日、観念した蝦夷は自ら舘に火を放ち自殺し、強盛を誇った蘇我本宗家は滅亡した。翌6月14日、皇極天皇は軽皇子(孝徳天皇)へ譲位し、中大兄皇子は皇太子となった。
中大兄皇子は阿倍内麻呂を左大臣、蘇我倉山田石川麻呂を右大臣、中臣鎌足を内臣に任じ、後に「大化の改新」と呼ばれる一連の改革を断行する。初となる元号を「大化」と定め、翌大化2(646)年正月には、新政権の方針を大きく4か条にまとめた「改新の詔」を発布した。改新の詔は、それまでの「氏姓制度」を廃止し、天皇を中心とする中央集権の「律令国家」を目指すものであった。
これらは、大化の改新が明確に律令体制を目指した改革と示すものであったが、日本書紀などの記述は、天武・持統以降の律令が整えられた時代に沿うように粉飾されたものだと判明している。以降、中大兄皇子が「天智天皇」として即位してからも、近江京に遷都するなど、政権も政策も不安定な状況が続くことになる。
(この時期の出来事)
*642.1.15/ 皇極天皇が即位。蘇我蝦夷の子入鹿が執政となる。
*643.4.28/ 皇極天皇が離宮から、完成した板葺宮に移る。
*643.10.6/ 蘇我蝦夷が、天皇の授けるべき紫冠を、独断で子の入鹿に授け、大臣に擬する。
*643.11.1/ 蘇我入鹿が、聖徳太子の継嗣山背大兄王を襲撃し、一族を滅亡させる。
*649.3.25/ 蘇我倉山田石川麻呂が、謀反の疑いをかけられ自殺する。
*650.2.9/ 宍戸(長門)の国から白い雉が献上され、瑞祥として「白雉」と改元する。
*658.4.-/ 阿倍比羅夫が、水軍を率いて日本海を北上、秋田・能代の蝦夷を平らげる。
*658.11.11/ 孝徳天皇の皇子 有間皇子19)が、謀反のかどで処刑される。
*660.7.16/朝鮮 百済が唐・新羅に滅ぼされる。百済の将軍鬼室副信は、日本に救援を求める。