【8th Century Chronicle 741-760年】

【8th Century Chronicle 741-760年】

 

聖武天皇彷徨

*740.10.29/ 聖武天皇が突然、伊勢・美濃・近江に行幸する。

*740.12.15/山城 聖武天皇が恭仁宮に行幸し、新都の造営を開始。以後、5年間滞在する。

*741.11.21./山城 造営を始めた新都を、大養徳恭仁大宮京都府木津川市加茂町)と命名する。

*742.8.11/近江 紫香楽宮滋賀県信楽町)に離宮を造営する。

*743.10.16/ 聖武天皇が廬舎那仏金銅像(大仏)の造立を決める。

*744.閏1.11/摂津 聖武天皇難波宮行幸する。

*744..2.24/近江 聖武天皇紫香楽宮行幸する。

*744.2.26/摂津 聖武天皇難波宮を都と定める。

*745.5.11/ 聖武天皇が、5年間の彷徨の末、平城京に戻る。

*749.7.2/ 聖武天皇が退位し、娘の阿倍内親王孝謙天皇)に譲位する。

*752.4.9/ 東大寺廬舎那仏(大仏)の開眼供養が行われる。

*756.5.2/ 聖武太上天皇(56)崩御

 

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 「聖武天皇」(首皇子)は、文武天皇の第一皇子として生まれたが、7歳で父と死別、母の宮子(不比等の娘)も心的障害に陥るなど、両親との接点は薄かった。文武天皇の母である「元明天皇」(天智天皇皇女)が中継ぎの天皇として即位し、その治世下で平城京遷都が行われる。

 藤原不比等は、首皇子の外祖父として即位を期待したが720年に死去、聖武天皇が即位したのは、叔母の元正天皇から譲位された724年、24歳の時だった。病弱であったことや、皇親勢力と外戚である藤原氏との対立関係が、即位が遅れた理由だとされる。

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 聖武天皇の治世の初期、不比等はいまや亡く、「藤原四兄弟」(武智麻呂・房前・宇合・麻呂)はまだ若かったため、皇親勢力を代表する「長屋王」が政権を主導する状況だった。藤原氏側は自家出身の光明子立后を策したが、皇族以外からの皇后は慣例に合わないと、長屋王は反対した。

 この頃から長屋王藤原氏の対立が表面化し、天武の孫として皇位継承権さえ持つとされる長屋王に対して、藤原氏側は、光明子が産んだ皇太子候補の皇子が1歳になる前に死去し、藤原氏系からの皇位継承に不安が生じ、長屋王の存在が障害となった。

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 そんな状況の中で、729年、讒言により長屋王に謀反ありとされる事件が起きる。この「長屋王の変」で、長屋王一族は自殺に追い込まれ消滅する。この事件は、藤原氏側が仕組んだものと考えられている。

 ところが737年、都に天然痘の大流行が起こり、藤原四兄弟が全員病死してしまい、藤原氏勢力は一気に減衰する。臣籍降下した「橘諸兄」が右大臣として政務を担い、遣唐使留学から帰朝した僧玄昉や吉備真備を登用して窮地をしのぐが、人材払底は避けようもなく朝政は不安定化した。

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 その状況下で、740年、大宰少弐に左遷されていた式家宇合の子「藤原広嗣」が、玄昉・真備を奸臣呼ばわりして反乱を起こす。広嗣は敗死するが、その乱の最中に、聖武天皇は、突然、東国(伊勢・美濃・近江)への行幸を始める。

 聖武天皇は、さらにそのまま、恭仁京難波京・紫香楽京と遷都を繰り返し、745年、やっと平城京に戻った。この5年にわたる聖武の彷徨は異常であり、その動機や目的がまったく不明で、いまだ解明されていない。

 

 天平年間は災害や疫病が多発、聖武天皇は仏教に深く帰依し、741年に「国分寺建立の詔」を、743年には東大寺盧舎那仏像の造立」の詔を出している。これは5年にわたる彷徨の最中に発せられた詔勅で、仏教によって国家を治め、律令国家の根幹を支えようとしたものと考えられる。

 749年、仏道に専念するとして出家、娘の阿倍内親王孝謙称徳天皇)に譲位し太上天皇となる。752年、念願の東大寺「大仏の開眼供養」を行ったあと、756年崩御する(56)。

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 聖武天皇は、大仏建立など仏教思想により律令国家統治を行い、「光明皇后」による正倉院御物などからうかがえるような天平文化の最盛期を開いた、奈良時代を代表する天皇として記憶されることが多い。

 しかし実情は、精神的に不安定で、無意味な遷都を繰り返し、国家の政務は橘諸兄などに任せきりで、社会不安政情不安をまねき、挙句の果ては、娘の「孝謙(称徳)天皇」に譲位し、のちの「橘奈良麻呂の乱」、「藤原仲麻呂恵美押勝)乱」や、さらには「弓削道鏡」の増長など、平城京の終末に至る状況を招いた天皇でしかなかったとも見られる。

 

天平文化

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 「天平文化」(てんぴょうぶんか)は、8世紀初めから中頃までをいい、奈良の都平城京を中心にして華開いた貴族・仏教文化である。この文化を、聖武天皇のときの元号天平を取って天平文化と呼ぶ。

  当時の皇族や貴族は、遣唐使によってもたらされた唐の文化を積極的に取り入れた。これによって花開いたのが、天平文化である。因みに、唐からの文化移入には特に大宰府の果たした役割が大きかった

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 一方、国衙(こくが)・国分寺などに赴任した国司・官人や僧侶などによって、地方にも新しい文物がもたらされた。このようにして、中国風(漢風)・仏教風の文化の影響が列島の地域社会へ浸透していった。これらには、シルクロードによって西アジアから唐へもたらされたものが、遣唐使を通じて日本にやってきたものが多い。

 

〇建築物・寺院

 平城京は、碁盤の目のような条坊制がしかれた。そこには多くの官衙(役所)が立てられ、貴族や庶民の家が瓦で葺き、柱には丹(に)を塗ることが奨励された。また、飛鳥に建てられた大寺院が次々と移転された。このようにして「咲く花のにおうが如く今盛りなり」と歌われた平城京が出来上がった。

 聖武天皇の命で諸国に国分寺国分尼寺が建てられ、その総本山と位置づけられたのが東大寺法華寺であり、東大寺大仏は、鎮護国家の象徴として建立された。この大事業を推進するには幅広い民衆の支持が必要であったため、行基を大僧正として迎え、協力を得た。

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唐招提寺金堂
薬師寺東塔

東大寺法華堂(三月堂)
正倉院宝庫(校倉造)
法隆寺東院夢殿


〇詩歌
万葉集」 大伴旅人大伴家持山上憶良山部赤人
懐風藻」 淡海三船石上宅嗣

〇仏像彫刻

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興福寺 阿修羅像・多聞天

唐招提 鑑真和上坐像

東大寺法華堂 不空羂索観音立像・四天王立像・金剛力士

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東大寺法華堂 日光菩薩月光菩薩立像

 

(この時期の出来事)

*741.2.14/ 諸国に国分寺国分尼寺建立の詔勅を出す。

*743.5.27/ 三世一身の法に代わり、墾田永代私財法が発布される。

*747.3.-/奈良 光明皇后聖武天皇の病気平癒を祈願して、新薬師寺を建立する。

*751.11.-/ 漢詩集「懐風藻」ができる。

*754.1.16/ 遣唐副使大伴古麻呂が、唐僧鑑真和上を伴い帰国する。

*754.4.-/ 鑑真和上が東大寺戒壇を築き、授戒制度を確立する。

*756.6.21/ 聖武天皇の遺品を東大寺廬舎那仏に献納する(正倉院の始まり)。

*757.5.20/ 養老律令を施行する。

*757.7.4/ 橘奈良麻呂らの、藤原仲麻呂打倒の謀議が発覚する(橘奈良麻呂の乱)。

*758.8.25/ 藤原仲麻呂が右大臣(大保)に任じられ恵美押勝の名を与えられる。また、官名が唐風に改められる。

*759.1.1/因幡 大伴家持が「万葉集」最後の歌を詠み、このころに万葉集が完成される。

*759.8.3/奈良 鑑真が唐招提寺を建立する。

*760.1.4/ 恵美押勝太政大臣(太師)となる。

 

【8th Century Chronicle 721-740年】

【8th Century Chronicle 721-740年】

 

長屋王の変藤原氏勢力

*724.2.4/ 元正天皇が譲位し、首皇子聖武天皇)が即位する。

*727.11.2/ 聖武天皇光明子不比等の娘)の子 基王(生後1ヵ月)が皇太子となる。

*729.2.12/ 左大臣長屋王(54)が、謀反の疑いをかけられ、自殺する(長屋王の変)。

*729.8.10/ 光明子が、臣下として初めて皇后(光明皇后)となる。

*737.-.-/ この年天然痘が流行し、左大臣藤原武智麻呂ら藤原4兄弟が、相次いで死亡する。

*740.9.3/筑前 大宰少弐藤原広嗣が反乱を起こすが、大野東人に討たれる(藤原広嗣の乱)。

*740.10.29/ 聖武天皇(45)は、伊勢・美濃・近江に行幸し、以後5年にわたって恭仁京難波京紫香楽宮を転々とする。

 

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 「長屋王」は、高市皇子の長男で天武天皇の孫にあたる皇族である。父の「高市皇子」は大津の皇子とともに、壬申の乱で長男として大海人皇子(天武)を助けて重要な役割を果たしたが、天武の後継としては、母親の身分ゆえか草壁・大津皇子に次ぐ3位とされた。

 686年、天武天皇崩御すると、直後に大津皇子が謀反の疑いをかけられ自殺する。天武の皇后鸕野讚良が「持統天皇」として即位し、草壁皇子は帝位を継承しないまま3年後に病死する。高市皇子太政大臣として持統政権を支え、藤原京遷都を進めたのは高市皇子ではないかとも言われる。

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 696年高市皇子が薨御し、翌697年持統天皇は、草壁皇子の子で孫にあたる軽皇子文武天皇)に皇位継承し、 702年に持統は崩御する。「文武天皇」の擁立に尽力した「藤原不比等」は、娘の宮子を文武夫人としており、大宝律令編纂に中心的な役割を果たし、平城京遷都を実質的に仕切ったとされる。

 平城遷都の直前に、若くして文武天皇(25)が崩御すると、草壁皇子の正妃で文武天皇の母が「元明天皇」として即位し、藤原不比等とともに、「平城京遷都」、「風土記」編纂、「古事記」の完成、「和同開珎」の鋳造など、律令国家の根幹となる施策を進める。

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 715年、元明天皇は、孫の首皇子(のちの聖武天皇)はまだ若かったため、娘の氷高皇女(「元正天皇」)に皇位を譲り、太上天皇として元正天皇を後見する。721年、元明太上天皇崩御し、前年には藤原不比等(62)も薨去しており、娘婿の「長屋王」が後事を託され、右大臣として政務を仕切ることになる。

 724年、元正天皇は譲位し「聖武天皇」(24)が即位し、長屋王は正二位・左大臣に進む。聖武天皇は生母の藤原宮子(藤原不比等の娘)を「大夫人」と称するとしたが、長屋王はこれは違令だと意義を奏上した。この事件をきっかけに長屋王藤原四兄弟との政治的な対立が表面化した。

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 聖武天皇外戚である藤原氏四兄弟( 武智麻呂・房前・宇合・麻呂)は、聖武夫人で妹の光明子が産んだ基王が生後間もなく死んでしまい、皇位継承権のある男子をもつ長屋王は、藤原氏系の皇位継承に不安を抱かせる存在でもあった。

 729年2月、長屋王が謀反を企てているとの密告があり、藤原宇合らの率いる六衛府の軍勢が長屋王の邸宅を包囲し、糾問された結果、長屋王はじめ一族は自殺においこまれる。こうして、皇親勢力の筆頭だった長屋王は、藤原不比等以来勢力を拡張してきた藤原氏勢力に排斥されてしまった(長屋王の変)。

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 長屋王の変のあと、藤原四兄弟は妹光明子聖武天皇の皇后に押し上げて、藤原四子政権を樹立する。しかし、737年の天然痘の大流行で4人とも揃って病死してしまい、長屋王を冤罪で死に追い込んだ祟りではないかと噂されたという。 

 

(この時期の出来事)

*723.4.17/ 開墾を奨励するために「三世一身の法」を施行。

*730.1.13/筑前 大宰帥大伴旅人が、自邸で観梅の宴を催す。この時の万葉集の詞書から「令和」の語がひかれた。

*733.-.-/ この頃、「出雲風土記」「肥前風土記」「豊後風土記」などが編纂される。

*735.4.26/奈良 唐での留学から帰国した吉備真備と僧玄昉が、持ち帰った唐の文物を献上する。

 

【8th Century Chronicle 701-720年】

【8th Century Chronicle 701-720年】

 

律令制の成立

*701.8.3/ 「大宝律令」が完成する。

*717.-.-/ 藤原不比等らが「養老律令」10巻を編纂する。

*720.8.3/ 藤原不比等(63)が死去し、養老律令の編纂は一旦中断する(757年に施行)。

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 大化の改新における4つの施策方針で、律令制への指針が示されたが、律令制導入の動きが本格化したのは、660年代に入ってからである。天智天皇は豪族を再編成し、大王(天皇)へ権力が集中する体制作りを進め、日本史上最初の戸籍とされる「庚午年籍」が作成され、班田収授制を確立しつつあった。

 その実在は不確かであるが、この時期に先駆的な近江令が制定されたという説がある。そして壬申の乱で成立した天武朝の681年、天武天皇により律令制定を命ずる詔が発令され、天武没後の689年(持統3年6月)に飛鳥浄御原令が制定された。

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 ただし、浄御原令は律を伴っておらず、やがて701年(大宝元年8月)、「大宝律令」が完成された。持統上皇文武天皇の治下、律令選定には刑部親王藤原不比等らが携わった。翌702年(大宝2年10月)には、文武天皇の命で大宝律令は諸国に頒布された。

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 718年(養老2年)、元正天皇藤原不比等大宝律令の再検を命じたが、720年の藤原不比等の死によりいったん中断され、その成果は757年に「養老律令」としてまとめられ、大宝律令に代わって施行された。

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 大宝律令の原文は現存していないが、おおむね大宝律令を継承しているとされる養老律令を元にして、その復元が行われている。刑法にあたる「律」はほぼ唐律をそのまま踏襲し、行政法および民法などにあたる「令」は日本社会の実情に配慮して制定されている。

 この律令の制定によって、天皇を中心とし、二官八省の官僚機構を骨格に据えた本格的な中央集権統治体制が成立した。また地方官制については、国・郡・里などの単位が定められ(国郡里制)、中央政府から派遣される国司には多大な権限が与えられ、地方豪族を郡司などに任命し、地方の支配体制を再編成していった。そして、名実ともに律令体制の完成を示すためにも、かつてなかった広大な平城の地に新都の建設が進められた。

 

平城京遷都

*708.12.5/ 平城宮地鎮祭が行われる。

*710.3.10/ 都を「平城京」に移す(平城京遷都)。

*710.3.-/ 藤原不比等が、氏寺を平城京に移して興福寺と改称する。

 *711.1.2/ 平城京遷都にともない、中央と地方を結ぶ道路整備が進められ、山城・河内・摂津・伊賀の4国に7駅を設置する。

 

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 飛鳥京の西北部に、わが国で初めて都城制を敷いた「藤原京」は、694年(持統8年)から710年(和銅3年)までの16年間、持統・文武・元明の三代にわたって都がおかれた。この時代は、日本における古代国家の基本法として、飛鳥浄御原令、さらに大宝律令が公布され、古代律令国家の形成過程であった。

 しかし、708年(和銅元年)に元明天皇より遷都の勅が下り、710年(和銅3年)に「平城京」に遷都されることになる。その翌年に、藤原宮が焼けたとされているが、藤原京から平城京へ遷都の理由は不明である。

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 710年(和銅3年)3月の遷都時には、内裏と大極殿、その他の官舎が整備されたが、寺院や邸宅および庶民の住居などは、その後段階的に造営されていったもようである。平城遷都を主導した藤原不比等は、率先して藤原氏の氏寺を興福寺と改称移転し、新都の隆盛をはかった。また、中央と地方を結ぶ街道も整備され、畿内など4国に7駅が置かれ、交通網が整えられた。

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 すでに完成された大宝律令のもとで律令制が施行され、その強大な中央集権体制を象徴する平城宮には、大極殿・朝堂院・内裏が配置され、その周囲には二官八省の官庁が立ち並んだ。そして、「古事記」や「日本書紀」という国史が編纂され、また地方には「風土記」の編集が指示された。

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 平城京遷都は、実質上、藤原不比等が仕切ったと考えられる。不比等は、持統天皇から譲位された文武天皇の即位に関わったとされ、娘の宮子を文武天皇に嫁がせた。そして生まれた首皇子(のちの聖武天皇)を天皇にすることを企んだ。さらに首皇子にも、娘 光明子を嫁がせて、外戚となることを目指していた。

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 しかし707年に文武は若くして亡くなり、首皇子はまだ幼いため、文武の母元明天皇が即位し、平城京遷都の詔勅を出すことになった。不比等は平城遷都に精力を注ぎ、それが成ったあとも、大宝律令の改定に取り組み、養老律令の編纂に労をさいた。しかし720年、不比等は病をえて死去する。聖武天皇が即位するのは、その4年後となる。

 

(この時期の出来事)

*708.8.10/ 銅銭「和同開珎」を発行する。

*711.10.23/ 「蓄銭叙位の法」が制定され、私鋳銭を禁止する。

*712.1.28/ 太安万侶が歴史書古事記」を完成する。

*713.5.2/ 諸国に「風土記」の編纂を命じる。

*719.7.13/ 国司などの行政を監察する「按察吏」をおく。

*720.5.21/ 舎人親王らが「日本書紀」を完成する。

 

【和田誠氏追悼】

和田誠氏追悼】

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 和田誠氏の、しゃれた軽いタッチで人物の内面まで映し出すようなイラストが好きだった。私の好みの本と氏のイラストの相性が良いのか、若い時に購入した本の装丁は和田誠氏のものがたくさんある。

 その一冊に「お楽しみはこれからだ」という、洋画の名セリフを取り上げたエッセー集があり、もちろん本文も和田氏が書いたものだ。

 下のスキャン頁は、イーストウッドの「続・夕日のガンマン」、いわゆるマカロニウェスタンだ。名悪役イーライ・ウォラックを膝まずかせてイーストウッドが言う。

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「この世には二種類の人間がいる。銃を構える奴と穴を掘るやつだ」
 

 
イラストレータ和田誠さん死去 https://www3.nhk.or.jp/news/html/20191011/k10012123151000.html

 

【10th Century Chronicle 981-1000年】

【10th Century Chronicle 981-1000年】

 

藤原氏内紛と藤原道長藤原伊周の争い

*986.6.23/ 花山天皇が、藤原兼家らに欺かれて出家、一条天皇に譲位し兼家がその摂政となる。

*987.7.21/ 摂政藤原兼家が、氏長者の公邸 東三条殿を再建する。

*990.1.25/ 藤原兼家の長子道隆の娘定子が、入内する。

*990.5.8/ 藤原兼家が出家し、長子道隆が関白となる。

*990.9.16/ 円融皇太后詮子が出家し東三条院となる(女院の初め)。

*995.4.10/ 関白藤原道隆(43)没。道隆の弟道兼が関白になるが、急死する。

*995.7.24/ 右大臣藤原道長と甥の内大臣藤原伊周が、内裏で激しく口論する。

*996.1.15/ 内大臣藤原伊周・権中納言隆家兄弟が、従者に命じて花山法王に矢を射かける。4.24 伊周は太宰権帥に、隆家は出雲権守に左遷される(長徳の変)。

*999.11.1/ 藤原道長の娘彰子が入内する。

*1000.2.25/ 中宮定子を皇后に、彰子を中宮とする。道長のごり押しで事実上の二皇后制となった。

*1000.12.16/ 皇后定子(25)が、出産に際して死亡する。

 

 藤原基経の子 「藤原忠平」は、宇多・醍醐天皇と親政が続いたあと、延長8(930)年、幼帝朱雀天皇が即位したため摂政となる。30数年にわたって中枢を占めたため、忠平の子孫が嫡流となり、長子実頼が摂関を継ぐが、兄より優れると評された次男「藤原師輔」が実質を握り、 さらに伊尹・兼通・兼家という3兄弟が官位を高め、娘安子を村上天皇中宮に送り込むなど、子孫に恵まれた。

 師輔は、天徳4(960)年52歳で薨去するが、のちに安子の産んだ子が冷泉・円融天皇として即位するなど、外戚としての関係を強化できたために師輔の家系が主流となり、九条流と呼ばれた。師輔の跡は長男 伊尹が継ぐが早く亡くなり、その後継を「藤原兼通」・「藤原兼家」兄弟が激しく争う。

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  兄の伊尹が摂政として政治を仕切る間、兼家はそれを支えたため、兄の兼通より官位が上回ってしまい、兼通に強く妬まれた。伊尹が49歳で死ぬと、円融天皇との関係が良好だった兼通が氏長者を継ぎ、関白となる。この間、兼家は不遇の時を過ごすが、貞元2(977)年、兼通の死とともに復権する。

 天元元(979)年に右大臣に進んだ兼家は、父の遺志を継いで延暦寺横川に恵心院を建立し、かねて望んでいた詮子の入内もかない、懐仁親王(後の一条天皇)に恵まれた。ぎくしゃくしていた円融天皇との関係も修復され、永観2(984)年円融天皇花山天皇に譲位し、詮子の産んだ懐仁親王一条天皇)が東宮に立てられた。

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 花山天皇は色にふけり、寵愛した女御藤原忯子が急死すると出家すると言い出した。兼家の三男 道兼から出家に追随すると言われて、天皇もその気になって剃髪出家してしまう。藤原兼家・道兼父子の策略は成功し、兼家の娘 詮子の産んだ懐仁親王一条天皇)が即位し、兼家は外戚として摂政となる。

 氏長者となった兼家は、右大臣を辞して兼官しない摂政として、官位の上下に拘束されない身となった。兼家は、息子の道隆や道長などの子弟を公卿に抜擢し、氏長者邸として東三条殿の一部を内裏に模して建て替えるなどして、地位を他の公家とは隔絶したものに高めた。

 

 藤原兼家は永祚元(989)年、嫡男道隆を内大臣に任命、自らは太政大臣に就任し、翌永祚2(990)年、一条天皇元服に際して関白に任じられるも、僅か3日で道隆に関白を譲って世襲を確定させて出家、栄華を極めた2ヶ月後に病没した。享年62。

 この後、兼家の家系は大いに栄えるが、ここでも確執が発生する。嫡男道隆は長女定子を一条天皇の女御として入内させ、兼家が薨去すると氏長者となり、定子を中宮として帝の外舅となり、次女原子を皇太子妃とするなど、後宮政策を進めるが、長徳元(995)年4月10日薨去。享年43。 

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  道隆が死去すると弟の道兼が関白となるが、就任僅か数日で病で死去しする。一条天皇は道隆の嫡子「藤原伊周」を後継にと考えたが、母后東三条院(詮子)が弟の「藤原道長」を強く推したため、天皇道長を登用する。

 道長と伊周の叔父・甥は激しく対立し、長徳元(995)年7月24日には内裏の陣座で諸公卿を前に激しく口論し、その3日後には2人の従者が都で集団乱闘騒ぎを起こしている。一条天皇道長に内覧を許し、さらに右大臣に任じ、道長藤原氏長者となった。

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 翌長徳2(996)年正月、伊周とその弟隆家は女性関係が原因で花山法皇に矢を射かける事件を引き起こした。ことは露見し4月に罪を責められた伊周は大宰権帥、隆家は出雲権守に左遷されて失脚した(長徳の変)。その年7月に道長左大臣に昇進し、名実ともに廟堂の第一人者となる。

 長保元(999)年11月道長は、一条天皇に長女彰子を女御として入内させ、翌長保2(1000)年2月には、定子を皇后の宮にまつり上げして彰子を中宮とし、事実上の一帝二后を強行した。心労に苛まれた定子は、その年の暮れに第二皇女を出産した直後に崩御し、赦されて帰洛していた兄の伊周は、妹の亡骸を前に慟哭したという。

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(この時期の出来事)

*981.7.7/ 円融天皇が、関白藤原頼忠の四条坊門大宮第に移り、譲位後の御所と定める(四条後院)。

*982.10.-/ 学者慶滋保胤が随筆「池亭記」を著す。

*982.-.-/ この頃、源高明が、朝廷儀式の手引き書「西宮記」を著す。

*985.4.-/ 源信が「往生要集」を著す。

*986.-.-/ この頃、「宇津保物語」ができる。

*994.6.27/ 京に天然痘など疫病が大流行。疫病神横行風評のため、北野船岡山で御霊会を行う。

*996.-.-/ この頃、清少納言が「枕草子」の一部を著す。

*998.-.-/ この頃、勅撰和歌集拾遺和歌集」ができる。

 

【10th Century Chronicle 961-980年】

【10th Century Chronicle 961-980年】

 

安和の変と藤原摂関家の権力争い

*967.6.22/ 藤原実頼が関白となる。

*969.3.25/ 藤原師尹らの陰謀により、左大臣源高明大宰権帥に左遷される(安和の変)。

*969.9.23/ 藤原実頼・師尹が推す守平親王が、11歳で円融天皇として即位し、藤原実頼が摂政となる。

*970.5.20/ 藤原実頼(71)が没し、弟の藤原師輔の子 伊尹が摂政となる。

*973.11.27/ 藤原兼通が関白となる。

*977.10.11/ 藤原兼通が、弟兼家をさけて、関白を藤原頼忠に譲る。

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 「安和の変」は、安和2(969)年に起きた藤原氏による他氏排斥事件とされ、この年3月25日、左馬助源満仲らが中務少輔橘繁延らの謀反を密告したことに始まったが、右大臣藤原師尹の企みで、左大臣源高明」にも謀反の嫌疑がかけられ、大宰権帥に左遷されることになった。

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 それより前、康保4(967)年に村上天皇崩御し、冷泉天皇が即位すると、関白太政大臣藤原実頼左大臣源高明、右大臣には藤原師尹が就任した。冷泉天皇が病弱だったため、早期に東宮を定めることになり、冷泉天皇の同母弟にあたる為平親王と守平親王が候補にあげられた。しかし、年長の為平親王源高明と縁戚があるので、これを排除したい藤原氏が策動し、年下の守平親王を皇太子とした。

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 源高明醍醐天皇の第10皇子で、臣籍降下し源の姓を賜与された。光源氏のモデルにも擬せられるほどの尊貴な身分で、学問に優れ朝儀に通じており、また実力者藤原師輔、その娘の中宮安子の後援も得て朝廷で重んじられた。

 康保4(968)年、冷泉天皇の即位に伴い左大臣に昇るが、この時点では藤原師輔中宮安子もすでに亡く、高明は宮中で孤立していた。そのため、自らの娘を輿入れさせていた為平親王を差し置いて、太政大臣藤原実頼や右大臣藤原師尹の力で、守平親王円融天皇)を皇太子に推されてしまう。

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 安和の変源高明を失脚させた藤原実頼藤原師尹の兄弟は、その後一年の間に続いて死去する。一方、より早く亡くなった次男の藤原師輔だが、子孫には恵まれ、村上天皇中宮安子を始め、広く外戚を結ぶことに成功した。

 そのため、師輔の系統は九条流と呼ばれ、以後、兼家・道長・頼通と続き、冷泉天皇から後冷泉天皇まで8代にわたる天皇外戚となり、摂政関白の地位を独占して、藤原北家の全盛期を展開することになる。

 

(この時期の出来事)

*961.-.-/京都 この頃、現存の伊勢物語が成立する。

*967.7.9/ 延喜式を施行する。

*970.6.14/京都 祇園御霊会が初めて行われる。

*974.-.-/京都 藤原道綱の母の「蜻蛉日記」の記述が終わる。

*976.7.26/ 内裏消失により、円融天皇が関白藤原兼通の堀河第に移る(里内裏の初め)。

 

【10th Century Chronicle 941-960年】

【10th Century Chronicle 941-960年】

 

◎歌物語の成立

*957.-.-/ 歌物語「大和物語」ができる。

*961.-.-/ この頃「伊勢物語」が成立する。

 

 「歌物語」とは、和歌にまつわる説話を集成した物語文学の総称で、和歌にまつわる恋物語や、死別や不遇を嘆く物語など、やはり情感を動かす物語が多くみられる。「古今和歌集」などで、和歌の簡略な解説として添えられる「詞書」が、より詳しく発展したものと考えられる。

 

伊勢物語

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 「伊勢物語」は、900年ごろからその原型となるものが存在したようだが、その後にも順次書き替えや追加が行われ、このころ現存の形のものが成立したと考えられる。そのため作者は特定されず、何人かが付け加えたりして関わったとされている。

 各章段の冒頭が「むかし、男ありけり」などと始められ、ある男のある男の元服から死にいたるまでを、それぞれ歌を添えて物語られる。六歌仙の一人「在原業平」の歌が多く採録されていることから、業平をモデルにしたとされるが、詠み人知らずなど他の歌も多く、一貫しているわけではない。

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 話の内容は男女の恋愛を中心に、主従愛、友情など多岐にわたる社交生活が描かれ、「昔男」の元服から死にいたるまでをカバーする。なかでも、前半で数段にわたって綴られる「二条の后(藤原高子)」との悲恋は、恋物語としての伊勢物語を際立たせる説話を構成している。

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 二条の后との仲を裂かれた男が、悲嘆にくれて東国に下る話が続き、この「東下り」の章段は「貴種流離譚」のひな型を提示しているし、伊勢の斎宮との交渉の一節は、伊勢物語という署名の由来の一つともされる。

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 伊勢物語は「いろごのみ(風流の恋)」の模範型として、「源氏物語」など後代の物語文学や、和歌に大きな影響を与えた。やや遅れて成立した歌物語「大和物語」にも、共通した話題がみられる他、「後撰和歌集」や「拾遺和歌集」にも『伊勢物語』から採録されたと考えられる和歌が見られる。

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 中世以降でも、能の「井筒」や「雲林院」などの典拠となり、近世以降では、「仁勢物語」などのパロディ作品の元となり、井原西鶴の「好色一代男」も、源氏物語を経てではあれ、伊勢物語のパロディともみなせる。さらに人形浄瑠璃や歌舞伎の世界でも、伊勢物語から題材をひいたものが多くみられる。

 《絵巻物で読む 伊勢物語》 https://ise-monogatari.hix05.com/

 

(大和物語)

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  「大和物語」は、伊勢物語と同時代の歌物語だが、伊勢物語の説話が大和物語にもみられるなど、伊勢物語の影響下に成立したと考えられる。伊勢物語とは異なり統一的な主人公はおらず、各段ごとに和歌にまつわる説話などのオムニバスの構成となっている。

 登場する人物たちは、実名・官名・女房名などで示され、固有の人物を指していることが多い。亭子院として登場する宇多天皇をはじめ、その周辺の貴族など歴史の表舞台の登場人物も多く登場する。

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 前半は物語成立に近い時期に詠まれた歌を核に、皇族貴族たちがその由来を語る歌語りであり、後半からは、悲恋・離別・再会など人の出会いと別れの歌を通して、古い民間伝説などの説話が綴られる。

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 大和物語の書名については、伊勢物語の「伊勢」に対する「大和(奈良)」だという説があるが、他にも諸説あり不明である。さらに作者についても、古くは花山院や業平の子 在原滋春が擬せられたが、ほかに様々な人物が挙げられ未詳とされている。

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141段「ふたり来し路」(末尾のみ抜粋)

 大和掾という男は、妻のほかに筑紫出身の女を妾にして同居させていたが、男は心変りして妾とは別れることになり、妾は故郷の筑紫へ帰ることになった。男と本妻とともに山崎の渡しまで出て筑紫の女を見送る。

 

 これもかれも、いと悲しと思ふほどに、船に乗りたまひぬる人の文をなむ持て来たる。かくのみなむありける。

  ふたり来し 道とも見えぬ 波のうへを
  思ひかけでも かへすめるかな

 [二人で来た道も見えない波の上を 寄せた波が返すみたいに

  もう思われなくなってしまった わたしは帰って行くのです]

と言へりければ、男も、もとの妻も、いといたうあはれがり泣きけり。

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《『大和物語』―古文と解説、朗読》 https://mukei-r.net/kobun-yamato.htm

 

(この時期の出来事)

*941.5.20/筑前 南海追捕使小野好古が、博多津で藤原純友の軍を破る。

*941.6.20/伊予 逃亡していた藤原純友が、伊予の日振島で殺される(藤原純友の乱終焉)。

*947.6.9/京都 菅原道真の祠を京都北野に建てる(北野天神社の起源)。

*960.9.23/京都 平安京造営後、初めて内裏が消失する。