【7th Century Chronicle 601-620年】

【7th Century Chronicle 601-620年】

 

聖徳太子厩戸皇子厩戸王

*592.12.8/ 推古天皇が即位する。

*593.4.10/ 聖徳太子厩戸皇子)が国政に参画する。

*601.2.-/ 聖徳太子斑鳩宮を建てる。

*603.12.5/ 聖徳太子が、「冠位十二階」を定める。

*604.4.3/ 聖徳太子が「憲法十七条」の草案を示す。

*605.4.1/ 推古天皇が、鞍作鳥に命じて丈六の金銅仏(飛鳥仏)を作らせる。

*607.7.3/ 遣隋使として小野妹子を隋に派遣する(第2次遣隋使)。

*607.-.-/ 聖徳太子法隆寺を建立する。

*615.4.15/ 聖徳太子が、法華経の注釈書「法華経義疏」を著し、先の「勝鬘経義疏」「維摩経義疏」と合わせて「三経義疏」と総称される。

*620.-.-/ この年、聖徳太子蘇我馬子らが「天皇記」「国記」を編纂する。

*622.2.22/ 聖徳太子(49)没。

 

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 聖徳太子厩戸皇子/厩戸王)は、敏達天皇3(574)年、橘豊日皇子(用明天皇)と穴穂部間人皇女との間に生まれた。両親ともに蘇我稲目の娘の子であり、厩戸皇子蘇我氏と強い血縁関係に生まれた。

 用明天皇元(585)年、父 橘豊日皇子が即位した(用明天皇)。この頃、仏教の受容を巡って崇仏派の蘇我馬子と排仏派の物部守屋とが激しく対立するようになっていた。用明天皇2(587)年、用明天皇崩御すると、皇位を巡って争いになり、馬子は守屋が推す穴穂部皇子を誅殺し、守屋討伐の大軍を起こした。討伐軍は三度撃退されるも、最後には守屋を射殺すことに成功し物部氏を討ち敗った。

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 戦後、馬子は泊瀬部皇子(崇峻天皇)を皇位につけたが、実権を握る馬子は崇峻天皇と対立すると、崇峻天皇5(592)年天皇を暗殺する。馬子は豊御食炊屋姫(女帝推古天皇)を擁立し、厩戸皇子は皇太子となり、馬子と共に天皇を補佐する。

 推古天皇11(603)年、「冠位十二階の制」を定め、氏姓制に代わって広く人材を登用するとともに、天皇の中央集権を強めようとした。さらに推古天皇12(604)年、いわゆる「十七条憲法」を制定し、豪族たちに臣下としての心構えを示し、天皇に従い、仏法を敬うよう定めた。

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 推古天皇15(607)年、小野妹子を隋に派遣(第2次「遣隋使」)、隋の煬帝に対して「東の天皇 西の皇帝に 敬まひて白す」と返書をしたため、当時国内ではもっぱら「大王(おおきみ)」と呼称されていたのを、あえて「天皇」と記した。

 厩戸皇子は仏教を厚く信仰し、推古天皇23(615)年までに仏典の注釈書「三経義疏」を著した。また、推古天皇28(620)年、厩戸皇子は馬子と議して「国記」「天皇記」という国史を編纂した。推古天皇30(622)年、厩戸皇子没。享年49。

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 「日本書紀」などでは、上記のように聖徳太子厩戸皇子/厩戸王)の事績が語られているが、「聖徳太子」は後世の諡号であり、これらの偉業が「厩戸皇子」一人のものとする確証は無く、複数の人物の事績を「聖徳太子」の名のもとにまとめて記したのではないかと思われる。

 日本書紀などの史書は、天武・持統朝以降に順次編纂され、それらの時代の意図で書かれている。大王(おおきみ)と諸豪族の連合政権に過ぎなかったものが、次第に「天皇」の名のもとに集権化されてゆく流れに沿って、意図的に編纂されている。それらの意向に沿って、「聖徳太子」という仮構の上に業績が一元化されたのではないだろうか。

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 このような歴史解釈で、「聖徳太子非実在説」が喧伝されるようになった。近年の歴史教科書では「厩戸皇子厩戸王聖徳太子)」などと記述され、聖徳太子の名は後退しつつある。