【7th Century Chronicle 661-680年】

【7th Century Chronicle 661-680年】

 

朝鮮半島緊迫と天智天皇

*660.7.18/朝鮮 百済が唐・新羅に滅ぼされる。

*661.1.6/ 斉明天皇中大兄皇子が、百済救済のために海路西に向かう。

*661.7.24/ 斉明天皇(68)没。皇太子 中大兄皇子が政治を執る。

*663.3.-/朝鮮 上毛野稚子が数万の兵を率いて新羅に向かう。

*663.8.28/朝鮮 日本・百済軍が、唐・新羅軍と白村江で戦い大敗を喫する。

*664.-.-/筑前 この年、唐・新羅の侵攻に備え、水城・大野城などを構築する。

*667.3.19/近江 都を大津京(近江京)に移す。

*668.1.3/近江 中大兄皇子が即位する。

*668.5.5/近江 天智天皇が蒲生野で猟を行い、酒宴で大海人皇子が乱行。

*668.9.13/朝鮮 唐・新羅軍が高句麗を滅ぼし、新羅朝鮮半島を統一する。

*669.10.15/ 死期を迎えた功臣 中臣鎌足が、大織冠と大臣の位と藤原の姓を授けられ、翌16日、死去(56)する。

*671.1.5/ 天智の継嗣大友皇子太政大臣となる。

*671.6.24/ 天智の弟大海人皇子が、東宮を辞して出家、吉野に向けて発つ。

*671.12.3/ 天智天皇(46)崩御

 

f:id:naniuji:20191101005919j:plain

 中大兄皇子天智天皇)は、舒明天皇の第二皇子で、母は皇極天皇重祚して斉明天皇)。皇極天皇4(645)年、中大兄皇子中臣鎌足らと謀り、皇極天皇の御前で蘇我入鹿を暗殺するクーデターを起こす(乙巳の変)と、皇極天皇の同母弟を即位させ(孝徳天皇)、自分は皇太子となり様々な改革(大化の改新)を行なった。

 朝鮮半島では緊張が高まり、660年に百済が、唐・新羅連合軍にに滅ぼされる。百済の将軍から支援の要請があり、人質として朝廷に滞在していた百済王子を送り返し、半島に軍事介入する。

f:id:naniuji:20191101175834j:plain

 その間に斉明天皇崩御(68)し、中大兄皇子が皇太子のまま称制し政権を指揮する。天智天皇2(663)年7月、大和政権は朝鮮に大軍を送り、日本・百済連合軍が唐・新羅軍と白村江で戦うも、決定的な大敗を喫した(白村江の戦い)。

 白村江で敗れた大和政権は、唐・新羅連合の侵攻に備え、筑紫に水城や大野城を構築する一方で、遣唐使を派遣し唐との関係修復を試みた。天智天皇6(667)年3月、中大兄皇子は、難波・飛鳥より内陸の近江大津宮(現大津市)へ遷都し、天智天皇7(668)年1月3日、新京でようやく即位(天智天皇)すると、同母弟の大海人皇子(のちの天武天皇)を皇太弟とした。

f:id:naniuji:20191101181049j:plain

 乙巳の変で新政権を樹立したあと発布した「改新の詔」4か条では、「公地公民制」「令制国」「公地公民制」「租庸調の税制」をうたい、明確に律令制を目指したように見えるが、これは後年に潤色されたことが判明している。

f:id:naniuji:20191101180146j:plain

 大津に首都を定め、庚午年籍という戸籍を作り、近江令の編纂を命じたりしているが、その内容は不明であり、天智政権がどの程度明瞭に律令制を意図していたかは疑問とされるが、確固たる王権の樹立を目指していたのは確かである。

f:id:naniuji:20191101181138j:plain

 しかし、対外状況の緊迫や内政の政情不安が続き、皇太子として実質を仕切りながらも20年以上即位しなかったことなど、不安定な状況が続いた。天智天皇8(669)年には、天智の政権を支えてきた中臣鎌足が亡くなり、天智天皇10(671)年9月、天智天皇は病に倒れ重態となる。

 天智は弟の大海人皇子に後事を託そうとするが、大海人は拝辞し、剃髪して吉野へ退く。天智天皇は、第1皇子大友皇子を皇太子と定めたのち、天智天皇10(671)年12月3日、近江大津宮崩御する。

 

壬申の乱

*672.6.24/ 大海人皇子が吉野を脱出し東国に向かう(壬申の乱の始まり)

*672.7.22/近江 近江朝廷軍が、大海人皇子軍に近江の瀬田で大敗する。

*672.7.23/ 追い詰められた大友皇子(25)が自殺する。

*672.9.12/ 大海人皇子が飛鳥の嶋宮に入る。その冬には、新たに造営された飛鳥浄御原宮に移る。

*673.2.27/ 大海人皇子が即位(天武天皇)し、鸕野皇女(のちの持統天皇)を皇后とする。

 

f:id:naniuji:20191102144603j:plain

 「壬申の乱」は、天武天皇元(672)年6月24日に起こった古代日本最大の内乱で、天智天皇の皇太子「大友皇子」(弘文天皇の称号を追号)に対し、皇太弟「大海人皇子」(後の天武天皇)が兵を挙げ、大海人皇子が勝利し、天武天皇となった事件である。

 660年代後半、都を近江宮へ移していた天智天皇は、同母弟の大海人皇子を皇太弟(皇太子)に立てていたが、天智天皇10(671)年10月、自身の皇子である大友皇子太政大臣につけて、後継とする意思を見せはじめた。

f:id:naniuji:20191102144755j:plain

 天智天皇はまもなく病に臥せり、大海人皇子に後事を託そうとしたが、大海人は天智の意をくんで、大友皇子を皇太子に推挙し、自らは出家剃髪して吉野宮に退いた。天智天皇大友皇子に跡を継がせると決め、天智天皇10(671)年12月、近江宮の近隣山科において崩御(46)する。

f:id:naniuji:20191102144708j:plain

 当時は父子相続より兄弟間の移譲が主流であり、天智の下で実績を積んだ大海人は、舒明・皇極という両天皇の子で、天智の同母弟として血流的にも後継資格があった。一方、跡を継いだ大友皇子まだ24歳、天智の子とはいえ母は身分が低かった。

f:id:naniuji:20191102144900j:plain

  天武天皇元(672)年6月24日、大海人皇子は挙兵を決意し吉野を出立した。大海人皇子は美濃・伊勢・伊賀・熊野などの豪族を従えて、長男の「高市皇子」の軍とも合流する。近江朝廷の大友皇子側も兵力動員をかけるが、大海人皇子側の妨害で思うにまかせなかった。

 大海人皇子軍は、近江と大和の二方面に分かれて進み、大和では苦戦するが、近江方面の軍は、北近江から琵琶湖東岸を南下し、7月22日に瀬田橋の戦いで近江朝廷軍を打ち破り、翌7月23日には大友皇子が自殺し、乱は収束した(壬申の乱)。

 

 翌天武天皇2(673)年2月、大海人皇子飛鳥浄御原宮を造って即位した。天武天皇は、論功行賞と秩序回復のため、服制の改定・八色の姓の制定・冠位制度の改定などを行い、中央集権制を進めていった。

 天武天皇は、鸕野讃良皇女(持統天皇)を皇后に立て、大臣は置かず親政をおこなった。天武の死後は皇后が持統天皇として引き継ぎ、天武・持統の治世には本格的に律令制が進められた。

 

 壬申の乱の原因として、いくつかの説が挙げられている。まずは「皇位継承紛争」で、当時は同母兄弟間での皇位継承が慣例だったが、天智天皇が嫡子相続制に切り替えを図ったことなどが挙げられる。

 また「白村江の敗戦」や、それに伴った近江宮遷都などが、民衆に大きな負担を課すことになり、天智の急進的な政治改革路線に抵抗する旧守派が、大海人を担ごうとしたことが理由ともされる。

 

 残るひとつは「額田王をめぐる不和」とされ、天智天皇大海人皇子額田王(女性)をめぐる三角関係に原因を求める説があるが、これは江戸時代に言われ出した説で、歴史的な根拠は薄い。

 この説は、「万葉集」に収録されている額田王(ぬかたのおおきみ)と大海人皇子の一対の相聞歌に、その因を発する。このやり取りは、天智天皇7(668)年、天智天皇が蒲生野で猟を行った時のことと言われ、その後の酒宴で、激した大海人皇子が長槍を振り回すという乱行をはたらいたとされるが、その理由は不明である。

 

・あかねさす紫野行き標野行き 野守は見ずや君が袖振る(額田王

・紫のにほへる妹を憎くあらば 人妻ゆゑに我れ恋ひめやも(大海人皇子

 f:id:naniuji:20191102165635j:plain

 額田王は、大海人皇子天武天皇)に嫁し十市皇女を生んだとされ、その後、中大兄皇子天智天皇)にも寵愛されたという話もあるが定かではない。ただそのような境遇で、上の相聞が交わされたとあれば、ただ事ではない気配も感じられる。

 これ以上は歴史とは言えないが、古代のロマンを感じさせる物語でもあるので、詳しくは下記に掲載しておく。

naniuji.hatenablog.com

 

(この時期の出来事)

*668.-.-/ 中臣鎌足近江令の編纂を命じられ、ほぼ完成する。

*670.2.-/ 初の全国戸籍「庚午年籍」の作成が始まる。

*680.11.12/大和 天武天皇が、皇后の病気回復を祈願して、薬師寺建立の願をたてる。