【8th Century Chronicle 761-780年】

【8th Century Chronicle 761-780年】

 

孝謙天皇弓削道鏡

*762.6.3/ 孝謙天皇が、藤原仲麻呂恵美押勝)の擁する淳仁天皇を非難し、国政掌握を宣言する。

*764.9.11/ 藤原仲麻呂恵美押勝)が反乱を起こすも、近江で敗死する(藤原仲麻呂の乱)。

*764.9.20/ 弓削道鏡が大臣禅師となる。

*764.10.9/ 淳仁天皇を廃し淡路に配流、孝謙上皇称徳天皇として重祚する。

*765.閏10.2/ 道鏡が、太政大臣禅師となる。

*766.10.20/ 道鏡が法王となる。

*768.2.18/ 道鏡の弟弓削浄人が大納言となる。

*769.9.25/ 和気清麻呂が、宇佐八幡の神託を虚偽であるとして、道鏡の即位を阻止するも、道鏡らの怒りで大隅に流される(宇佐八幡宮神託事件)。

*770.8.4/ 称徳天皇(53)没。後ろ盾を失った道鏡は下野に配流され、和気清麻呂が召喚される。

 

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 「孝謙天皇」(阿倍内親王/称徳天皇)は、父は聖武天皇、母は藤原藤原不比等の娘 光明皇后光明子)の間に生まれた。光明皇后は後に基王を生むが早世したため、阿倍内親王が749年、父聖武天皇の譲位により孝謙天皇として即位した。

 孝謙女帝の治世前期は光明皇太后が後見し、皇太后の甥「藤原仲麻呂」の勢力が拡大した。聖武天皇の治世から政務を仕切っていた橘諸兄は、756年、讒言により辞職に追い込まれ、翌757年、孝謙天皇聖武が生前に後継に指定した道祖王を廃し、仲麻呂が推す大炊王淳仁天皇)を立太子させた。

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 翌757年、仲麻呂の専横に不満を持った橘諸兄の子「橘奈良麻呂」は、新帝を擁立するクーデターを計画するも、仲麻呂により事前に察知され、拘束されると過酷な拷問などにより粛清された(「橘奈良麻呂の乱」)。以降、仲麻呂の権勢はさらに強まり、758年、孝謙天皇大炊王淳仁天皇)に譲位し、太上天皇となる。

 淳仁天皇擁立を果たした藤原仲麻呂は、藤原恵美朝臣の姓と押勝の名が与えられ「恵美押勝」と称すると、唐好みを発揮して唐風政策を推進し、官位を唐風に改称させ、自身は右大臣(太保)に就任する。

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 しかし、760年に光明皇太后崩御すると、孝謙上皇仲麻呂淳仁天皇の関係は微妙なものとなる。761年に病に伏せった孝謙上皇は、看病に当たった「弓削道鏡」を寵愛するようになった。

 762年には孝謙上皇淳仁天皇仲麻呂の不和が表面化し、上皇は国家の政務を自分が執ると宣言する。不和の原因は、道鏡を除くよう淳仁天皇仲麻呂が働きかけた事とされる。そして、763年から764年にかけて、孝謙上皇道鏡淳仁天皇仲麻呂の勢力争いが続く。


 764年9月11日、仲麻呂が軍事準備を始めると、これを察知した孝謙上皇の手勢との間で戦闘が起き、仲麻呂は朝敵となった。仲麻呂近江国に逃走するが、あっけなく殺害される(「藤原仲麻呂の乱」)。

 仲麻呂敗死の知らせを聞いて、孝謙上皇は、仲麻呂によって変えられた官庁名を旧に復し、淳仁天皇を廃して流刑とした。上皇重祚し「称徳天皇」として皇位に復し、道鏡太政大臣禅師に任じ、翌年には法王とする。こうして称徳天皇道鏡の二頭体制が確立された。

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 769年、大宰府の主神(かんづかさ)中臣習宜阿曾麻呂が宇佐八幡神の神託として、「道鏡皇位に就くべし」との託宣を報じたとされた。これを確かめるべく、「和気清麻呂」を勅使として宇佐八幡宮に送ると、清麻呂は託宣は虚偽であると復命し、道鏡皇位に就くことを阻止した。清麻呂称徳天皇道鏡の怒りに触れ、別部穢麻呂(きたなまろ)と改名させられた上で大隅国へ流された(宇佐八幡宮神託事件)。

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 770年、称徳天皇は由義宮に行幸するも発病し、崩御する(53)。後ろ盾を失った道鏡の権力はすべて奪われ、失脚して下野国薬師寺別当に左遷される。称徳天皇崩御にあたり、群臣の協議により白壁王が後継として指名され、「光仁天皇」として即位する。これにより、天武の皇統から天智系に復帰し、次の桓武天皇によって藤原京平安京に遷都されることになる。

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 孝謙天皇に寵愛されたことから、道鏡には様々な噂が語られる。江戸時代には「道鏡は すわるとひざが 三つでき」という川柳が詠まれるなど、いわゆる巨根伝説が広がるが、歴史的事実としては確認しようがない。

 

(この時期の出来事)

*779.2.8/ 淡海三船が、鑑真和上の伝記「唐大和上東征伝」を著す。

*779.-.-/ このころ「万葉集」ができる。