【アメリカの歴史】17.冷戦終結後の世界とビル・クリントン民主党政権(1990-2001)

アメリカの歴史】17.冷戦終結後の世界とビル・クリントン民主党政権(1990-2001)

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 冷戦が終わると1990年8月、サダム・フセインイラククウェートに侵攻した。これに対し国連安全保障理事会は、イラクが即時撤退しない場合は武力行使を容認する決議を可決した。翌1991年1月、アメリカのジョージ・H・W・ブッシュ大統領は「多国籍軍」の結成を呼びかけ、1991年1月から2月にわたって戦闘を行い、クウェートイラクから解放した。

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 この「湾岸戦争」は、第二次世界大戦後初の国連決議にもとづく多国籍軍の結成であり、安保理での拒否権行使のない決議は東西冷戦の終結を象徴する出来事だった。アメリカ主体の多国籍軍は、最新の電子兵器を駆使し、その様子は刻々と世界中のテレビジョンに映し出された。あたかもPCゲームかと見まがうほどの画像を、世界中が居間にいながら観ることができた本格的な「電子戦争」でもあった。

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 1992年1月、ジョージ・H・W・ブッシュ大統領は、冷戦終結後のアジア・太平洋地域を巡る外遊を行った。日本も訪れて天皇明仁(現上皇)と会見し、宮澤喜一首相による歓迎会に出席したが、その会食で失神してしまいその様子はテレビで放映された。これでブッシュ健康不安がささやかれ、次期選挙に影を落とした。

 

 ブッシュは、湾岸戦争の勝利や北米自由貿易協定調印など外交での実績をほこり、1992年アメリカ合衆国大統領選挙に挑んだ。しかし湾岸戦争からは時間が経ち、その後の景気後退や増税はしないという公約を反故にしたことなどから、人気は凋落していた。

 

 1992年アメリカ合衆国大統領選挙では、若い民主党ビル・クリントンが勝利した。クリントンアメリカ合衆国史の中でも若く就任した大統領として、ベビーブーム世代としては初の大統領となった。

 

 ソビエト連邦が崩壊し、自由主義陣営の中心であるアメリカの勝利となったが、レーガン、ブッシュの共和党政権のもとで、アメリカ経済は「双子の赤字」(財政赤字貿易赤字)に苦しんでいた。民主党ビル・クリントン政権は、こうした経済的不況を解消することに注力した。

 

 1990年代には、ちょうどICT技術の開花期に当たり、副大統領アルバート・ゴアが提唱した「情報スーパーハイウェイ構想」など、ITC産業を積極的に後押しする事業が展開され、民間でもマイクロソフトやアップル・コンピュータなどICT企業が頭角をあらわし、1995年の「Windows95」の発売は、まさにインターネット時代の幕開けを象徴した。

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 アメリカ経済の中心を重化学工業からICTなどのハイテクに重点を移行させ、インターネット・バブルとも呼ばれた好景気をもたらす一方で、上下両院を抑えた共和党が「小さな政府」を主張するなか、共和党のお株を奪うような「財政赤字削減」に転換し、2000年には財政黒字を達成した。

 

 ビル・クリントンは、アーカンソー州知事としての地方政治経験しかなく、外交に関しては未知数だった。その外交姿勢は、場当たり的だという批判にさらされたが、幸いにも冷戦後で米ソの大国が背後にいるような大きな対立は無く、民族間の紛争が散発する程度でおさまった。

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 長年の懸案だったイスラエルアラブ諸国との対立も、1993年、和平の機運が高まる中でイスラエルのラビン首相とパレスチナ解放機構(PLO)のアラファト議長の間で、歴史的な「オスロ合意」がなされ、クリントンはその立会人となった。しかし現実には、和平反対勢力のテロの応酬や両者の衝突事件が相次ぎ、95年11月にはラビン首相が暗殺され合意は破綻、クリントンはキャンプデービットに両国代表を招いて和平交渉を仲介したが、結局は実現できなかった。

 

 アジアでは、チャイナゲートと呼ばれる中国共産党政府から選挙資金を得た疑惑もあり、親中の傾向が強く、鄧小平の開放路線を受け継いだ江沢民国家主席と強力な貿易関係をもち、一方で貿易摩擦が激化する日本には厳しい態度を取った。北朝鮮の核開発問題では、監視体制などを厳密に構築せず、結果的に北朝鮮核武装の防止に失敗した。

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 クリントンは多くの女性とスキャンダルが噂されていたが、1998年に「モニカ・ルインスキー事件」が発覚し、ホワイトハウス内で淫行が暴露されると、大統領職としての権威を大きく失墜させたと、窮地に陥ったが、妻であり政治的野心があったヒラリー・クリントンの「寛大な援護」によって、これを乗り切った。