【9th Century Chronicle 821-840年】

【9th Century Chronicle 821-840年】

 

最澄空海

*805.6.-/ 遣唐使藤原葛野麻呂とともに、最澄が帰国し、天台宗を伝える。

*806.8.22/ 空海が帰国し、真言宗を伝える。

*815.-.-/ 最澄が東国での布教活動を始める。

*819.3.15/近江 最澄が、比叡山戒壇設置を請願する。

*819.5.3/紀伊 空海が、高野山金剛峯寺を建立する。

*820.2.29/京都 最澄が「顕戒論」を著し、天台の自立をめざし南都勢力に反論する。

*820.-.-/ 空海が東国に布教を始める。

*821.5.27/讃岐 空海が、讃岐に満濃池の造築を監督する。

*822.6.4/ 最澄(56)没。

*827.5.2/近江 延暦寺戒壇院の設立が認められる。

*828.12.25/京都 空海綜芸種智院を創設し、広く庶民の入学も許される。

*830.-.-/ 空海が、密教の優越性を説いた「秘密曼荼羅十住心論」を著す。

*835.3.21/ 空海(62)没。

 

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 最澄は、767年ごろ近江国に生れ、804年空海とともに留学僧として遣唐使に同行、中国で天台宗を学び、805年帰朝し上洛すると、宮中で病床の桓武天皇の病気平癒を祈る。806年1月には、天台宗の開宗が公式に認められる。

 その後、天台には密教の教えが欠けていたため、空海から真言を学ぶなどしたが、のちに考え方の相違から袂を分かつ。また、南都の学僧と論争、なかでも法相宗の学僧会津徳一との間で激しい論争を展開した。

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 比叡山延暦寺を開山し、戒壇の設立を幾度か請願していたが、弘仁13(822)年6月4日、比叡山の中道院で没、享年56(満54歳没)。没後7日目に、大乗戒壇設立の勅許が下された。これにより、南都六宗から完全独立した天台宗が確立された。

 貞観8(866)年清和天皇より伝教大師諡号が贈られ、以後「伝教大師最澄」と称された。最澄の開いた延暦寺は修行の本山として、平安から鎌倉時代にかけて、良源・源信法然栄西慈円道元親鸞日蓮など、多くの名僧を輩出することになる。 

 

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 空海は、774年讃岐国に生れ、804年最澄らと遣唐使に同行したが、空海の乗った船は嵐に遭い大きく航路を逸れて福州に漂着、空海が州の長官へ嘆願書を代筆し、やっと正規の遣唐使として認められた。

 同年12月に長安入り、翌年2月西明寺に入り、さらに醴泉寺の東土大唐三藏法師や長安青龍寺の恵果和尚に師事し、伝法阿闍梨位の灌頂を受ける。大同元(806)年10月、空海は無事帰朝し、真言仏教を伝える。

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 大同4(809)年、平城天皇が譲位し嵯峨天皇が即位した年、空海は入京し高雄山寺(神護寺)に入る。大同5(810)年、薬子の変が起こると、嵯峨天皇側につき鎮護国家のための大祈祷を行う。弘仁7(816)年6月、修禅の道場として高野山の下賜を請い、弘仁10(819)年春には四方に結界を結び、伽藍建立に着手した(金剛峯寺)。

 弘仁12(821)年、讃岐で満濃池の改修を指揮して、唐で学んだ当時の最新工法を駆使し工事を成功に導く。弘仁14(823)年正月、太政官符により東寺(教王護国寺)を賜り、真言密教の道場となした。後には天台宗密教台密、対して東寺の密教東密と呼ばれるになる。

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 天長元(824)年2月、干ばつがあり、神泉苑で雨乞いの祈祷を行った。この話は、ライバル関係にあった東寺の空海と西寺の守敏の、雨乞い祈祷合戦などとして伝えられ、空海が勝ったため、守敏の西寺は寂れたとされる。

 天長5(828)年には、私立の教育施設「綜芸種智院」を開設し、貴族や学僧だけでなく、広く庶民にも教育の門戸を開いた。さらに、仏教だけでなく儒教道教などあらゆる思想・学芸を網羅する画期的な総合的教育機関でもあったため、日本の大学の嚆矢ともされる。

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 やがて病を得た空海は、真言密教の基盤の強化に精力をこめて尽力したのち、承和2(835)年3月21日、高野山で弟子達に遺告を与え入定。享年62。のちに、醍醐天皇より「弘法大師」の諡号が贈られる。

 

 最澄天台宗空海真言宗は、台密東密と並び称され平安密教の双璧とされる。ただし、天台宗法華経を基盤とした戒律や禅・念仏・そして密教の融合による総合仏教の様式を備えているのに対し、真言宗は仏教各派の教学の中でも真言を最上位に置くことによって、あらゆる思想体系を真言密教に包摂一元化させ、顕教と比べて密教真言密教)の優位性を説く。

 いずれにしても、桓武天皇から嵯峨天皇に至る平安京の草創期には、南都六宗など平城旧仏教に対抗するように、最澄天台宗空海真言宗の平安密教が称揚された。いわば、これら新宗教が平安新都に魂を入れる役割を担ったとも言える。

 

(この時期の出来事)

*825.閏7.2/ 葛原親王の子高棟王に平姓が与えられる(桓武平氏)。

*826.7.24/ 藤原冬嗣(52)没。

*834.1.19/ 藤原常嗣を遣唐大使に、小野篁を副使に任命する。

*834.1.27/ 京都の治安維持にあたる検非違使別当をおく。

*840.-.-/ 広隆寺講堂の阿弥陀如来像・観心寺如意輪観音像が完成する。