【15th Century Chronicle 1421-1440年】

【15th Century Chronicle 1421-1440年】

 

◎正長の土一揆

*1428.9.18/畿内 近江・山城の土民が、徳政を求めて蜂起する。(正長の土一揆

*1428.11.22/畿内 幕府は、徳政を求める一揆の禁止令を出す。

*1429.1.29/播磨 播磨国土民が、守護赤松満祐の荘園代官の排除を要求して蜂起するが、赤松満祐に鎮圧される。(播磨の国一揆

*1433.閏7.17/近江 近江草津周辺の馬借一揆が、上洛途上の信濃守護小笠原政康が襲われる。

*1434.11.11/大和 幕府が遣明船のために税を課したため、興福寺大乗院領の農民が蜂起する。

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  1428(正長1)年9月18日、近江坂本や大津の馬借が起こした一揆は、農民を巻き込み畿内一帯に波及し、京都市中でも酒屋、土倉、寺院(祠堂銭)を襲われた。これだけ大規模な一揆は初めてで、一揆土民は幕府に「徳政」を求めたため「正長の徳政一揆」とも呼ばれる。

  この時期には、天候不順による凶作、三日病と呼ばれた風邪かはしかと思われる流行病、足利義持から足利義教への将軍の代替わりなどの社会不安が高まっていた。幕府は管領畠山満家に命じて制圧に乗り出し、侍所所司赤松満祐らが出兵したが、一揆の勢いは衰えず、京都市中に乱入し奈良にも波及した。

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 現代の法感覚では、一旦権利を失った土地などを元に戻せというのは条理に合わないが、当時は元来の所有者に戻すのが正しいという考えがあり、そのような徳のある政治を「徳政」と呼んだ。

 従って、徳政を要求する一揆は、土地を奪われた農民や落剝した武士などにとっては当然の要求であるという観念があったとされる。そしてそれは、政権のトップが交代する時などに行われるという期待があった。

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 そこへ飢饉が重なり、困窮した土民(農民など)がなだれ込み、一気に一揆勢力は膨れ上がった。一揆は酒屋、土倉と呼ばれる金融業者などを襲い、勝手に借金の証文を破棄するなど「私徳政」と呼ばれる実力行使となった。

 大手の寺社も大規模な荘園をもち、高利貸しで所有地を拡大しており、一揆の対象となった。中でも強大な勢力を誇った大和の興福寺は、同地域の守護職も兼ねており、一気に押されて徳政令を認めたために、地域内に公式な徳政を認めたという記録が残されている。(柳生の徳政碑文)

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 1429(正長2)年2月、正長の土一揆の影響を受けて「播磨の国一揆」が起こる。正長の土一揆の鎮圧にあたっていた播磨国守護赤松満祐は、あわてて自らの領地に向かい、一揆を鎮圧する。

 以後、さまざまな形で一揆が頻発するようになり、国人・守護なども関わって将軍の権威は失われ、やがて応仁の乱の戦乱の世の中に突入してゆく。

 

 

◎京都室町将軍と鎌倉公方の対立

*1423.3.18/ 将軍義持が将軍職を子の義量(5代将軍)にゆずり、等持院で出家する。

*1423.8.2/常陸 鎌倉公方足利持氏(26)が、幕府派の関東の有力豪族を次々と討滅し、京都と鎌倉の緊張が増す。

*1424.2.5/ 鎌倉公方持氏が、将軍義持に謝罪し和睦する。

*1425.2.27/ 5代将軍足利義量(19)が、酒色に溺れ病死する。

*1428.1.18/ 4代将軍義持(43)没。義持が後継を定めなかったため、くじ引きで青蓮院僧義円に決まり、還俗して6代将軍義宣(のち義教)となる。

*1428.5.25/相模 鎌倉公方持氏が反幕府の挙兵を企てるが、関東管領上杉憲実に制止される。

*1429.3.15/ 足利義宣が正式に6代将軍に就任し、義教と改名する。

*1439.2.10/相模 関東管領上杉憲実が、主君である鎌倉公方足利持氏を攻め、自殺させる。(永享の乱

*1440.3.15/下総 関東の豪族結城氏朝が、持氏の遺児を擁して結城城に籠城するが、4月16日、幕府軍の攻撃の下に落城する。これにより、鎌倉公方勢の東国勢力はほぼ消滅する。(結城合戦

 

 1336(建武3)年11月、足利尊氏によって京都に室町幕府が設置されると、弟の直義は、尊氏の嫡子義詮を鎌倉殿とし、「上杉憲顕」を関東管領とした体制を発足させた。鎌倉幕府を倒すのに功績のある武士の勢力の強い鎌倉は、当初幕府を京都か鎌倉かどちらに置くか議論のあったほど重要な拠点だった。

  将軍足利尊氏と弟足利直義は、交互に京都と鎌倉に往還して両拠点を押さえていたが、「観応の擾乱」で尊氏・直義兄弟の対立が起こると、1349(貞和5)年9月、京都守ることになった「足利義詮」に代わって、その弟の「足利基氏」が初代「鎌倉公方」として、「関東管領」を補佐役として関東10か国を支配することになった。

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 以後、義詮の直系が京都の将軍職、基氏の血筋が鎌倉公方世襲することになった。しかし血筋上も将軍家と遜色ない上に、その支配地域には独立性の強い関東武将が多く、鎌倉公方も代を重ねるに従って京都の幕府と対立するようになった。

 1379年、若年の将軍義満を補佐していた幕府管領細川頼之が失脚した「康暦の政変」の時には、第2代鎌倉公方足利氏満」が幕府内紛をみて挙兵を企てたが、関東管領上杉憲春」の諫死によりかろうじて断念した。また、1399年の応永の乱には、大内義弘と第3代鎌倉公方足利満兼」が連合を組み、京都を攻めようとしたが、その前に大内義弘が戦死したため頓挫した。


 第4代鎌倉公方足利持氏」は、1409(応永16)年、父 満兼の死去によって4代鎌倉公方となる。公方となった持氏は若年で、関東管領となった上杉氏憲(禅秀)の補佐を受けていたが、禅秀は満隆・持仲と結んでいたため、対立するようになり、1415(応永22)年禅秀は関東管領を辞し、持氏は上杉憲基(憲定の子)を後任として就任させた。

  室町将軍は、関東の守護大名の力を弱め支配権を確立しようとし、鎌倉公方は関東武士の力を背景にして関東を治めているため、両者の対立は初代鎌倉公方基氏以来であった。1423(応永30)年、成人した基氏は、室町幕府の碌をはむ京都扶持衆が幕府の命令を受けて反乱を企てたとして、これらを次々と攻め滅ぼし、関東から親幕府勢力の一掃を図った。

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 室町幕府4代将軍足利義持は持氏討伐に立ち上がったところ、持氏の謝罪によって討伐は一旦中止されることになるが、幕府とそれに対抗する持氏の対立は深刻化した。1428(正長1)年、幕府を仕切っていた前将軍義持が次期将軍を指名せず病死すると、持氏は6代将軍の座を望んだ。

 しかし、幕府重鎮たちは協議の上、義持の弟4人のうちから籤引きで選ぶことに決め、天台座主義円が還俗して「足利義教」として6代将軍と決まった。義持の猶子となっていた持氏は不満を持ち、新将軍の義教を軽んじて、幕府と対立する姿勢を露骨に見せ始めた。

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 持氏を補佐する立場にある関東管領の「上杉憲実」は、持氏と義教の融和を懸命に努めたが、持氏はこれに応じずに逆に憲実を遠ざけ、やがて憲実が持氏に討たれるという噂が流れるまでになり、間もなく関東管領を辞職する。

 1438(永享10)年6月、持氏が嫡子の元服を先例を無視して行ったため、上杉憲実はこの元服式に出席せず、憲実と持氏の対立は決定的となった。8月、憲実の反逆と見た持氏は討伐軍を差し向け、自らも出陣する。

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 将軍義教は憲実の救援のため幕府軍を派遣、同時に持氏追討の綸旨の発給を求め朝敵とした。持氏は敗れて鎌倉に引き、出家したうえ永安寺に幽閉された。憲実は持氏の助命を懇願したが義教は許さず、憲実に持氏の追討を命じた。1439(永享11)年2月、憲実の兵が永安寺を攻撃、持氏は自害して果てた(永享の乱)。

 持氏の自害により鎌倉公方は一旦滅亡することになるが、翌1440(永享12)年3月に下総の結城氏朝・持朝父子などが、持氏の遺児を擁立し反乱を起こすも、鎮圧される(結城合戦)。その後も、持氏の遺児成氏が上杉氏と対立する(享徳の乱)など、関東の混乱は続くことになる。

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(この時期の出来事)

*1432.8.17/摂津 将軍義教が兵庫で遣明船を見送り、勘合貿易が再開される。