【11th Century Chronicle 1021-40年】

【11th Century Chronicle 1021-40年】

 

藤原道長・頼通の栄華

*1021頃 藤原道長の「御堂関白記」(自筆日記)の記述が終わる。

*1022.7.14/ 藤原道長が法性寺金堂・五大堂の落慶供養を行う。法性寺の諸仏制作の功で、定朝が法橋の位を授かる。

*1023.5.-/ 藤原道長が、娘の太皇太后彰子の住まう上東門第(土御門第)で、田植えを祝って田植女に田楽を行わせる。

*1027.12.4/ 藤原道長(62)没。

*1029.3.23/ 関白藤原頼通が、自邸高陽院に文人を招き、詩会を催す。

*1031.10.20/ 藤原頼通が、興福寺五重塔と東金堂の落慶供養をとり行う。

*1035.5.16/ 藤原頼通が高陽院水閣歌合を催す。

*1037頃/「栄花物語」正編ができる。

 

藤原道長

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 藤原道長は、康保3(966)年、藤原北家九条流兼家の五男に生れる。兼家が死去すると長男の道隆が後を継ぎ、娘定子を一条天皇の皇后とするなど、藤原氏本流を継承するかに思われたが急死、その次弟道兼も続いて亡くなると、五男の道長が登用されることになった。

  一方、道隆の嫡男伊周は道長を凌いで内大臣に任じられるなど、早くから父の後継者に擬されており、一条天皇の皇后定子への寵愛が深く、兄の伊周への信任も厚かった。道長と伊周の叔父甥の対立は深まったが、長徳2(996)年、伊周が花山法皇に矢を射かけたとして、左遷され失脚した(長徳の変)。

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 道長は右大臣かつ藤原氏長者に補されるが、関白に就任せず、左大臣となっても「内覧」という関白の実務をつかさどる地位に留まり続けた。長保元(999)年、一条天皇のもとへ長女彰子を入内させると、翌年には、皇后定子を皇后宮と格上げして、彰子を皇后(号は中宮)とし一帝二后を強行するなど、道長はその権勢を示した。

  道長は彰子以外にも、妍子・威子・嬉子と娘を次々と入内させ外戚関係を強化してゆくことになるが、一条天皇が亡くなり三条天皇が即位したときには、親政を望む三条天皇道長との間に確執が生れた。しかし長和5(1016)年、ついに道長の譲位圧力に屈して、彰子が生んだ子敦成親王が即位し後一条天皇となる。

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 寛仁2(1018)年10月16日、妍子(26)が皇太后となり、威子(20)が後一条天皇中宮となった日、土御門第では華やかな饗宴が催された。太皇太后彰子(31)と合わせ一家から3后を出したことになり、藤原道長(53)は天皇外戚として頂点をきわめる。

 この宴で感極まった道長は、「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の かけたることも なしと思えば」と詠じたと言われる。

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 この前年寛仁元(1017)年3月、道長は摂政と藤原氏長者を嫡男の頼通に譲って、後継体制を固めている。頼通に摂政を譲った後も、道長は後見的立場で影響力を持ちつづけた。寛仁3(1019)年、病をうけて剃髪して出家する。

 晩年は壮大な法成寺の建立に精力を傾け、「栄花物語」では、この法成寺の壮麗さを道長の栄耀栄華の極みとして伝えている。万寿4(1028)年に病没、享年62。

 

 〇藤原頼通

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 藤原頼通は正暦3(992)年、摂政太政大臣藤原道長の長男として生まれ、寛仁元(1017)年、若くして(26)父道長から後一条天皇の摂政を譲られる。2年後には関白となるが、道長が万寿4(1028)年に亡くなるまでは、その後見を受ける。

 父の死後は、後朱雀天皇後冷泉天皇の治世で、関白を50年の長きに亘って務め、父道長と共に藤原氏摂関家の全盛時代を築いた。しかしながら、父道長と異なり子女に恵まれぬ頼通は、やむなく養女とした嫄子を入内させ後朱雀天皇中宮としたが、嫄子が男子を産むことはなかった。

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 後朱雀天皇を継いだ後冷泉天皇は、道長の娘で頼通の妹嬉子の産んだ子だが、嬉子が産後すぐに死去したこともあり、頼通とは比較的疎遠であった。そのため、藤原氏と縁の薄い尊仁親王後三条天皇)が、後冷泉天皇東宮に立てられた。

 頼通は60歳近くになった永承5(1050)年、唯一の娘の寛子を入内させ皇后となし皇子誕生に望みを繋いだが、ついに皇子に恵まれることは無かった。疎遠な後三条天皇が即位すると、藤原氏をはずして親政を行い、一方、頼通が強く望んだ実子師実へ摂関を譲ることも、道長の遺言をたてに上東門院(彰子)に拒絶され、失意の晩年を送ったと言われる。

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 道長・頼通の70年にわたる治世は藤原氏の栄華の頂点とされるも、刀伊の入寇平忠常の乱・前九年の役など、地方では内外からその安寧をゆさぶる事態が生じていた。

 また、藤原氏繁栄の基盤でもあった荘園の増加は、国家財政を危機的状態に陥らせる状況となっており、頼通は数度にわたって荘園整理令を出すも、効果的な対策は打ち出せないままであった。

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  「往生要集」を著し、道長が深く帰依した「源信(恵心僧都)」が寛仁元(1017)年76歳にて入寂、一方で、「末法」の世に入るとされる永承7(1052)年)が近づくなかで、阿弥陀如来にすがり極楽浄土への往生を求める風潮が高まり、貴族たちは寺院の建立を競った。

 権勢の頂点にあった頼通は、永承7(1052)年3月、道長の別荘であった宇治殿を寺院に改修し、翌天喜元(1053)年には、西方極楽浄土をこの世に出現させたかのような壮麗な阿弥陀堂が建立された。本殿には仏師定朝の手になる阿弥陀如来坐像が安置され、やがて「平等院鳳凰堂」と呼ばれるようになる。

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 治暦4(1068)年、後冷泉天皇崩御すると頼通は宇治に閉居し、延久4(1072)年に出家する。同年、三条天皇白河天皇に譲位し、まもなく崩御した時には、後三条天皇とは東宮時代から対立した頼通だが、その早世を嘆息したという。自身も、延久6(1074)年83歳の長寿をもって薨去する。

 摂関政治の全盛期をともに担ってきた姉の上東門院彰子、弟教通も同年から翌年にかけて相次いで薨去外戚による「摂関政治」は、やがて白河天皇が譲位した後に始めることになる「院政」の時代へと移ってゆく。

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(この時期の出来事)

*1026.1.19/ 太皇太后彰子が出家し上東門院と称する。

*1028.6.21/東国 前上総介平忠常が反乱を起こしたため、平直方・中原成道を追討使いに任命する。

*1031.4.28/東国 新たに追討使に任じられていた甲斐守源頼信が、平忠常降服を報告する。

*1036.4.17/ 後一条天皇(29)没。

*1039.2.18/ 延暦寺山門派の僧徒多数が関白藤原頼通廷に押しかけ、寺門派明尊の天台座主就任に異議を唱え強訴する。

*1040.40.29/ 京に横行する盗賊・悪僧などの処置について、朝廷で審議する。

*1040.6.3/ 諸国に荘園停止を命じる。(長久の荘園整理令)