【8th Century Chronicle 721-740年】

【8th Century Chronicle 721-740年】

 

長屋王の変藤原氏勢力

*724.2.4/ 元正天皇が譲位し、首皇子聖武天皇)が即位する。

*727.11.2/ 聖武天皇光明子不比等の娘)の子 基王(生後1ヵ月)が皇太子となる。

*729.2.12/ 左大臣長屋王(54)が、謀反の疑いをかけられ、自殺する(長屋王の変)。

*729.8.10/ 光明子が、臣下として初めて皇后(光明皇后)となる。

*737.-.-/ この年天然痘が流行し、左大臣藤原武智麻呂ら藤原4兄弟が、相次いで死亡する。

*740.9.3/筑前 大宰少弐藤原広嗣が反乱を起こすが、大野東人に討たれる(藤原広嗣の乱)。

*740.10.29/ 聖武天皇(45)は、伊勢・美濃・近江に行幸し、以後5年にわたって恭仁京難波京紫香楽宮を転々とする。

 

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 「長屋王」は、高市皇子の長男で天武天皇の孫にあたる皇族である。父の「高市皇子」は大津の皇子とともに、壬申の乱で長男として大海人皇子(天武)を助けて重要な役割を果たしたが、天武の後継としては、母親の身分ゆえか草壁・大津皇子に次ぐ3位とされた。

 686年、天武天皇崩御すると、直後に大津皇子が謀反の疑いをかけられ自殺する。天武の皇后鸕野讚良が「持統天皇」として即位し、草壁皇子は帝位を継承しないまま3年後に病死する。高市皇子太政大臣として持統政権を支え、藤原京遷都を進めたのは高市皇子ではないかとも言われる。

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 696年高市皇子が薨御し、翌697年持統天皇は、草壁皇子の子で孫にあたる軽皇子文武天皇)に皇位継承し、 702年に持統は崩御する。「文武天皇」の擁立に尽力した「藤原不比等」は、娘の宮子を文武夫人としており、大宝律令編纂に中心的な役割を果たし、平城京遷都を実質的に仕切ったとされる。

 平城遷都の直前に、若くして文武天皇(25)が崩御すると、草壁皇子の正妃で文武天皇の母が「元明天皇」として即位し、藤原不比等とともに、「平城京遷都」、「風土記」編纂、「古事記」の完成、「和同開珎」の鋳造など、律令国家の根幹となる施策を進める。

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 715年、元明天皇は、孫の首皇子(のちの聖武天皇)はまだ若かったため、娘の氷高皇女(「元正天皇」)に皇位を譲り、太上天皇として元正天皇を後見する。721年、元明太上天皇崩御し、前年には藤原不比等(62)も薨去しており、娘婿の「長屋王」が後事を託され、右大臣として政務を仕切ることになる。

 724年、元正天皇は譲位し「聖武天皇」(24)が即位し、長屋王は正二位・左大臣に進む。聖武天皇は生母の藤原宮子(藤原不比等の娘)を「大夫人」と称するとしたが、長屋王はこれは違令だと意義を奏上した。この事件をきっかけに長屋王藤原四兄弟との政治的な対立が表面化した。

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 聖武天皇外戚である藤原氏四兄弟( 武智麻呂・房前・宇合・麻呂)は、聖武夫人で妹の光明子が産んだ基王が生後間もなく死んでしまい、皇位継承権のある男子をもつ長屋王は、藤原氏系の皇位継承に不安を抱かせる存在でもあった。

 729年2月、長屋王が謀反を企てているとの密告があり、藤原宇合らの率いる六衛府の軍勢が長屋王の邸宅を包囲し、糾問された結果、長屋王はじめ一族は自殺においこまれる。こうして、皇親勢力の筆頭だった長屋王は、藤原不比等以来勢力を拡張してきた藤原氏勢力に排斥されてしまった(長屋王の変)。

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 長屋王の変のあと、藤原四兄弟は妹光明子聖武天皇の皇后に押し上げて、藤原四子政権を樹立する。しかし、737年の天然痘の大流行で4人とも揃って病死してしまい、長屋王を冤罪で死に追い込んだ祟りではないかと噂されたという。 

 

(この時期の出来事)

*723.4.17/ 開墾を奨励するために「三世一身の法」を施行。

*730.1.13/筑前 大宰帥大伴旅人が、自邸で観梅の宴を催す。この時の万葉集の詞書から「令和」の語がひかれた。

*733.-.-/ この頃、「出雲風土記」「肥前風土記」「豊後風土記」などが編纂される。

*735.4.26/奈良 唐での留学から帰国した吉備真備と僧玄昉が、持ち帰った唐の文物を献上する。