【11th Century Chronicle 1041-60年】

【11th Century Chronicle 1041-60年】

 

◎荘園整理令

*1045.10.21/ 前任の国司在任中以降の荘園を停止する。(寛徳の荘園整理令)

*1055.3.13/ 寛徳の整理令以降の荘園を停止させる。(天喜の荘園整理令)

(*延久1(1069)年.閏10.11/後三条天皇、荘園記録所を設置)

 

 奈良時代には、律令に基づいた公地公民制であったが、国家収入を増やすため大規模な開墾計画が策定された。開墾を奨励するために「三世一身法(723)」や「墾田永年私財法(743)」が発布され、土地の私有が認められるようになった。やがて、中央貴族・大寺社・地方の豪族などが活発に開墾を行い、大規模な私有土地が出現した。

 平安時代になると、田租の免除と国司の立入りを拒否する「不輸不入権」を求めて、皇室・摂関家・大寺社など権力者へ寄進する「寄進地系荘園」が主流を占めるようになった。

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 開発領主は中央の有力者へ田地を寄進し、寄進を受けた荘園領主は領家となり、さらに領家からより有力な貴族へ寄進されると、最上位の荘園領主は本家と呼ばれた。このように寄進により重層的な所有関係が成立し、開発領主たちは、国司の寄人として在庁官人となり、また下司・公文などといった荘官に任じられ、所領に関する権利を確保した。

 網野善彦たちの研究によると、寄進により荘園は極めて増大したが、田地の半分は公領として残存したとされ、11世紀以降の土地・民衆支配は、荘園と公領の2本柱によって運営されたという「荘園公領制」というべき体制であったいう。

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 このような荘園の増大は有力貴族などに莫大な収入をもたらし、彼らの権力基盤となるとともに、国家にとっては、国司による地方の支配や財政収入に深刻な打撃をもたらした。そのため、荘園の新規設置を取り締まり、違法性のある荘園を停止させることで、公領を回復させるために、幾度も「荘園整理令」が出されることになる。

  最初の整理令は醍醐天皇の延喜2(902)年の「延喜の荘園整理令」であり、さらに花山天皇の永観2(985)年(985年)には、この延喜の荘園整理令を踏襲した「永観の荘園整理令」が出された。

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  しかし、実際の政務を司るのが最大の荘園領主でも摂関家であり、国司も一種の猟官運動として、有力貴族による荘園実施を認めることが横行した。そこで、「長久(1040)・寛徳(1045)の荘園整理令」では、前任ないし現任の国司の任期中の荘園を禁止した。それでも違法の寄進地系荘園や国免荘の増加は止められなかった。

  そこで、摂関家と縁の薄い後三条天皇が就任すると、それまで地方の国司達に任せていた荘園関係の管理業務を全て中央で行うようにし、延久元(1069)年には、その審査機関として「記録荘園券契所(荘園記録所)」が設置された。

 

 この後三条天皇が発布した「延久の荘園整理令(1069)」は、摂関家や大寺社の経済力削減や皇室経済の復興などの成果を上げ、後の荘園整理令に大きな影響を与えた。

 摂関家の権力の源泉は、国司・受領などの地方官任命権と、大荘園主としての在地荘官任命権に基づき、それらの現地役人からもたらされる膨大な財源に基づいていた。そのような権限を母系の外戚関係で保持していた摂関家は、やがて天皇の父系による院政によって、その基盤を奪われてゆくことになる。

 

前九年の役

*1051.この年/陸奥 安倍頼時の反乱を鎮圧するため、新たに源頼義陸奥守に任命する。(前九年の役の始まり)

*1054.この年/陸奥 安倍頼時の子貞任が、陸奥守兼鎮守府将軍源頼義の兵営を襲撃する。

*1056.12.29/ 陸奥源頼義征夷大将軍に任命し、あらためて安倍頼時追討を命じる。

*1057.7.26/陸奥 源頼義が、安倍頼時を討つ。

*1057.11.-/陸奥 源頼義が、頼時の子安倍貞任に大敗を喫する。(康平5(1062)年、やっと源頼義安倍貞任を討つ/前九年の役終結

 

 すでに100年以上前に関東では「平将門の乱」、瀬戸内では「藤原純友の乱」が同時的に引き起こされ、これらは合わせて「承平天慶の乱(935-41)」と呼ばれる。地方に土着して力を蓄えた武士団の反乱は、朝廷の貴族たちを驚かせたが、その後に、藤原道長・頼通の摂関政治の最盛期を迎える。

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 しかしその間にも、荘園などの私有地増大と連動して、地方では武士が着々と力をつけていた。そして再び中央を驚かせた反乱が、「前九年の役(1051-62))」と「後三年の役(1083-87)」であった。

 これらは、武士団の反乱を、朝廷の意を受けた別の武士団が平定するという形で、いずれにせよ武士の名声を高めることになった。なかでも源氏(河内源氏)は、これらの反乱を鎮圧することで、武士団の棟梁的立場を確立する。

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 「前九年の役」は、陸奥国の有力土豪だった安倍氏が、貢租を怠るなど半独立状態になっていたのを、永承6(1051)年、陸奥藤原登任が兵を出して安倍氏の懲罰を試みたことに始まる。

  玉造郡鬼切部で戦闘が勃発するが、この戦いでは安倍氏が勝利し、敗れた登任は更迭され、河内源氏の「源頼義」が後任の陸奥守となった(鬼切部の戦い)。その翌年、大赦があり安倍氏も罪を赦され、安倍頼良陸奥に赴いた陸奥源頼義を饗応し、自ら名を「安倍頼時」と改めた。

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 しかし、陸奥源頼義の任期が終わる天喜4(1056)年、頼義の配下が安倍頼時の手勢に襲われたという疑義が生じ、鎮守府将軍源頼義・義家と安部頼時・貞任父子との間に争いが再発した。天喜5(1057)年、一進一退の戦況のなか、源頼義が仕掛けた挟撃策に対処するため、安部頼時は急遽で向いた津軽で、身内の寝返りで深手を負った末に死去する。

 源頼義は安部頼時戦死を報告するも、論功行賞を受ける事が出来ず、同年11月、頼時のあとを継いだ「安部貞任」を討つべく、再び出撃する。しかし源頼義ひきいる国府軍は安倍軍より少ない手勢で、しかも不慣れな厳寒の中で行軍は難航し、地の利を得た安部貞任の軍が圧勝した(黄海の戦い)。

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 その後、安倍氏はさらに勢力を伸ばし続け、他方、国府側は二度の敗戦での痛手回復に手間取った。康平5(1062)年、苦戦を強いられていた頼義は、中立を保っていた出羽国秋田県)の豪族清原氏に援軍を要請した。

 清原氏の族長清原光頼はこれを承諾し、弟武則を総大将として軍勢を派遣した。かくして源頼義清原氏連合が成立し、清原氏の参戦によって形勢は一気に逆転する。同年9月、安倍氏の拠点であった厨川柵や嫗戸柵が陥落し、安倍貞任は戦死し安倍氏は滅亡した(厨川の戦い)。

 

 騒乱を鎮定した源頼義正四位下伊予守に任じられ、清原武則は戦功により従五位下鎮守府将軍に補任されて、清原氏が奥羽の覇者となった。しかし皮肉にも20年後には、この清原氏の内紛に源頼義の子義家が介入することで「後三年の役」が勃発することになる。

 

(この時期の出来事)

*1042.3.10/近江 延暦寺の僧徒が円城寺円城院を焼く。

*1043.5.8/京都 全国的な大干ばつのため、僧正仁海が請雨経修法を神泉苑で行う。その5日後に降雨がある。

*1048.3.-/ 仏師定朝が、興福寺造仏の功績により法眼となる。

*1048.8.11/近江 明尊が延暦寺天台座主となるも、13日後には山徒の反対で辞任、源心が就任。

*1049.12.28/大和 興福寺の僧徒が、大和守源頼親の館を襲う。

*1050.1.25/大和 興福寺と闘い続けた大和守源頼親・頼房父子が、ついに土佐および隠岐に配流される。

*1051.2.13/ 藤原頼通の娘女御寛子が皇后となる。

*1052.3.22/山城 関白藤原頼通が、宇治の別荘を仏寺とし平等院と号し、翌年3月には平等院阿弥陀堂鳳凰堂)の落慶供養が行われる。

*1052.この年 この年から末法初年に入るとされ、末法思想が流行する。

*1055.この頃/ 「堤中納言物語」「浜松中納言物語」「夜半の寝覚」が成立する。

*1059.この頃/ 藤原孝標女が「更級日記」を書き上げる。