【17th Century Chronicle 1686-90年】

【17th Century Chronicle 1686-90年】

 

◎将軍綱吉と生類憐みの令

*1687.1.28/ 将軍綱吉が最初の「生類憐みの令」を出す。母桂昌院真言僧隆光の意向を反映か。

*1687.2.1/江戸 幕府台所頭天野正勝が、台所井戸に猫が落ちて死んだ責任を問われ、八丈島へ流される。

*1687.2.21/江戸 幕府が、市中の飼い犬の戸籍帳を作成する。

*1688.10.29/江戸 幕府が、僧隆光に駿河台に別院地を与える。

*1688.11.12/江戸 小納戸役柳沢保明(吉保)を側用人とする。綱吉の側用人政治の幕開けとなる。

 *1690.10.-/江戸 市中の牛車・大八車などに、往来で生類を轢き殺さないよう見張り人を付けるように命じる。

 

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  第5代将軍徳川綱吉は、3代将軍徳川家光の四男として正保3(1646)年に生まれ、男子が無かった長兄で4代将軍の徳川家綱が亡くなると、延宝8(1680)年8月、宣下を受け将軍となる。将軍職に就くと、綱吉将軍就任に反対したとされる大老酒井忠清を廃し、自己の将軍職就任に功労があった堀田正俊大老とした。

  綱吉は将軍就任当初、大老堀田正俊の補佐を得て、自らも積極的に政治に乗り出し将軍の権威向上に努めるとともに、戦国の荒々しい気風を排して、儒学を尊び徳を重んずる文治政治を推進した。このような綱吉の治世の前半は、「天和の治」と称えられた。

 

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 しかし貞享元(1684)年、大老堀田正俊若年寄稲葉正休に刺殺されると、以後大老を置かず側用人の牧野成貞・柳沢吉保らを重用し、老中などを遠ざけるようになった。また綱吉は、母桂昌院従一位という高位を朝廷より賜り、さらに桂昌院が帰依している真言宗隆光僧正を寵愛するようになる。

 この頃から、一連の「生類憐みの令」を出しはじめ、幕府の財政が悪化すると貨幣の改鋳などで経済の混乱をまねくなど、後世に悪政といわれる政治を行うようになった。生類憐れみの令は、跡継ぎができないことを憂いた綱吉に、隆光僧正が輪廻説を説いたことが因とする説があるが、時期的に符合しない点もある。

 

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  生類憐れみの令は、「生類を憐れむ」ことを趣旨としたもので、動物から嬰児・傷病人などあらゆる生きとし生けるものを慈しみ保護しようという儒教精神の現れであったが、将軍の名でそれを命じたことで、世の中の混乱を招くことになった。

 貞享4(1687)年、病気の牛馬を捨てることを禁じた法令が「生類憐みの令」の最初とされるが、その前後にも同趣旨の令が出されており、以後、綱吉治世の終わりまで二十数回にわたってこと細かく規定した令が出された。

 

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 その治世の前半には善政をしいたとされる綱吉が、なぜこのような偏った令に拘り続け、犬公方とも呼ばれるようになったのか。一つには、世子徳松を5歳で亡くし、男子の継嗣のできないことを憂える綱吉には、若くして親しんだ儒教の仁心と結びついて、生類憐れみの観念が助長されていったと考えられる。

 また、老中など煙たい役職の重鎮を遠ざけ、柳沢吉保など側用人を重用した側用人政治や、母桂昌院とその帰依する僧隆光を寵愛するなど、側近の者だけに囲まれた政治姿勢が、綱吉の独断的な政治姿勢を強めていった。

 

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   蚊を殺したら閉門になったとか、水戸光圀が綱吉を皮肉って犬の毛皮を贈ったとか、尾ひれが付いた話が広がりどこまでが事実か分からないが、一般武士や町民に迷惑な令であったことは間違いない。

 儒教の教えから生類憐みの令が始まったのなら、アメリカではピューリタニズムの潔癖主義が禁酒法をもたらしたという。綱吉も、アメノウズメが天岩戸で裸踊りするような古代神道でも信じてたのなら、もっと楽しい時代になったのだが(笑)

 

 (この時期の出来事)

*1686.9.27/江戸 市中で乱暴狼藉放題だった旗本奴の集団、大小神祇組200余人を捉え、首領格の者11人を斬罪に処する。

*1686.-.-/大坂 井原西鶴好色五人女」「好色一代女」「本朝二十不幸」が刊行される。

*1687.5.-/大坂 豪商河村瑞賢が淀川の治水工事を完成し、八百八橋水の街大坂とうたわれるようになる。

*1689.3.27/江戸 松尾芭蕉が「奥の細道」の旅として、陸奥に向けて発つ。