【17th Century Chronicle 1651-55年】

【17th Century Chronicle 1651-55年】

 

◎浪人の反乱

*1651.7.23/江戸 由井正雪の謀反計画が発覚。丸橋忠弥が捕らえられ、由井正雪は自害する。(慶安の変

*1652.3.14/佐渡 佐渡奉行伊丹勝長の手代辻藤右衛門らが反乱を起こすが、勝長らに鎮圧される。(佐渡一揆

*1652.9.13/江戸 浪人別木庄左衛門らが老中暗殺を計画、密告により町奉行らに鎮圧される。(承応の変)

 

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  戦国時代から、地侍・野武士・牢人などと呼ばれ、武士として地位の曖昧な武士が存在した。特に牢人とは、主家を失い所領を持たない武士を指し、江戸時代半ばから浪人と呼はれるようになったので、ここでは「浪人」と表記する。関ヶ原の戦いで西軍についた大名の多くが取り潰されると、大量の浪人が発生した。

 戦国時代では、手柄を立てて再仕官する余地があったが、江戸幕府が全国を収めるようになると、その道は閉ざされてゆき、大坂の役の時には、豊臣方に大量の浪人が寄り集まった。そして大坂冬・夏の陣で豊臣家が滅亡すると、生き延びた浪人たちも仕官の道は閉ざされた。

 

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  徳川家康・秀忠・家光と三代にわたる武断政治のもとで、戦乱はほぼ消滅するとともに、その大名廃絶政策によって、さらに多数の浪人が生じていった。三代将軍徳川家光の晩年には、その数は50万人にも達したとされ、彼らは浪人となった時点で、ほぼ再仕官の道は閉ざされた存在であった。

 島原の乱では、改易などで地侍などになり、農民のリーダー的立場になっていた浪人が主導したと考えられ、そのような浪人を危険視した幕府は、さらに厳しい政策をとるようになり、浪人たちはますます追い詰められていった。

 

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  浪人は士籍を失っても苗字帯刀は許されており、武士としては認知されていた。しかし、その多くは貧困で借家住まいのその日暮らしの生活を余儀なくされており、笠張浪人に表象されるような手仕事で身をすすいだり、盗賊などに身を落とす者もいた。また、宮本武蔵のように浪人ながら、武芸や道場主として身を立てたり、近松門左衛門松尾芭蕉のように、武士の身分でありながら、文芸の道で名を残した者も登場する。

 

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  慶安4(1651)年、武断政治を完成させた徳川家光が死去すると、継嗣で11歳の徳川家綱が将軍の位につく間隙を突いて、由井正雪による「慶安の変由井正雪の乱)」が引き起こされた。由井正雪は優秀な軍学者で、徳川将軍家からも仕官の誘いが来ていたが、仕官には応じず軍学塾張孔堂を開いており、幕府に不満をもつ浪人たちも塾生として集まった。

 家光の死を契機として正雪は、幕府の転覆と浪人の救済を掲げて行動を開始する。まず丸橋忠弥が江戸の各地に火を放って混乱を起こし、それに乗じて江戸城を焼き討ちにする。同時に京都で由比正雪が、大坂で金井半兵衛が決起し、天皇を奪取して討幕を正当化する勅命を出させる。そして、それに基づいて全国の浪人に決起を呼びかけるという計画だった。

 

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  しかし身内の密告により計画は事前に露見、慶安4(1651)年7月、まず丸橋忠弥が江戸で捕縛され、すでに京に向かっていた正雪は、駿府の宿で捕り方に囲まれ自決する。その正雪の死を知った金井半兵衛も大坂で自害、8月には丸橋忠弥が磔刑とされ、計画は頓挫した。

 正雪らによる謀反は未然に防がれたとはいえ、年少の家綱が将軍を引き継ぐ混乱中の事件であり、御三家の紀州藩の関与の疑いもあるなど、幕府は衝撃を受けた。翌年には、佐渡で奉行の下役人が土民を率いて一揆を起こし、さらに江戸では、浪人別木庄左衛門らによる老中襲撃計画(承応の変)が発覚した。

 

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  江戸幕府では、これらの事件を受けて、老中阿部忠秋らを中心としてそれまでの政策を見直し、浪人対策に力を入れるようになった。浪人の発生する改易を減らすために末期養子の禁を緩和し、各藩には浪人の採用を奨励した。これを契機に、幕府の政治はそれまでの武断政治から、法律や学問によって世を治める文治政治へと移行していくことになる。

 

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  浪人が活躍する黒沢監督映画『七人の侍』は、戦国時代末期を舞台に描かれたとされる。信長・秀吉により戦国の世が収斂してゆく時代だが、彼ら浪人には、まだ武勲を挙げて大名に抱えられたり、あるいは映画のように自らの「義」に生きる余地もあった。しかし江戸時代の由井正雪の時代には、笠張浪人などでイメージされるように、身をすすぐためだけの閉塞した状況に置かれていた。このような状況が、「慶安の変」の背景にあったのであろう。

 

(この時期の出来事)

*1651.4.20/ 徳川家光、没(48)。

*1651.4.-/ 保科正之が家光の遺言により、徳川家綱の補佐となる。

*1651.8.18/ 江戸城徳川家綱(12)に将軍宣下が行われる。

*1652.12.-/下総・江戸 佐倉藩公津村の名主佐倉惣五郎が、藩主の年貢強化などに反対し、将軍家綱(12)の寛永寺参詣時に越訴する。

*1652.-.-/江戸 江戸市中に旗本奴・町奴など「かぶき者」が横行し、幕府は取締りに苦労する。

*1654.7.5/肥前 中国、明の高僧隠元隆琦が長崎に来航、黄檗宗をひらく。

*1654.11.-/江戸 男伊達(おとこだて)を売りにして街中を闊歩する「町奴」が、大量に検挙される。

*1655.10.12/江戸 幕府は市中法度を定め、町人の殺人・窃盗・放火・姦通・財産処分などに関する処分令を示す。