【18th Century Chronicle 1786-90年】

【18th Century Chronicle 1786-90年】
 

寛政の改革

*1787.6.19/江戸 松平定信が老中首座となる。

*1788.3.4/江戸 松平定信が将軍補佐となる。

*1789.3.15/ 幕府は2度にわたって奢侈禁止令を出し、品目を定め、その製造販売を禁止する。

*1789.7.7/ 幕政を戯画化した「鸚鵡返文武二道」を刊行した恋川春町が、幕府から出頭を命じられ、謎の死を遂げる。

*1790.5.24/江戸 幕府は、朱子学を正学と定め、湯島聖堂で異学を講じることを禁じる。(寛政異学の禁)
 
*1790.2.19/江戸 幕府は、無宿人や軽犯罪者の更生施設として、石川島に忍足寄場の設置を決める。
 


 「寛政の改革」は、松平定信が老中首座となった1787年から、1793年に失脚するまで、あしかけ7年にわたる在任中に行われた幕政改革である。1783年の浅間山噴火などで、7年にわたって続いた天明の大飢饉は、膨張経済策を展開していた田沼意次の政策に決定的なダメージを与え、さらに賄賂政治が暴かれるなどして、失脚する。その後、天明の大飢饉における藩政を認められた白河藩主定信が、田沼の後任として老中首座に就任した。
 

 松平定信は、宝暦8(1759)年12月、御三卿田安徳川家徳川宗武の七男として生まれる。安永3(1774)年、陸奥白河藩第2代藩主松平定邦の養子となり、家督相続後、白河藩主として天明の飢饉に遭遇するも、近隣の藩から米を買い入れるなど、藩を挙げての対策が功を奏し、領民からは死者を出すことがなかったとされる。

 天明の飢饉での藩政手腕を認められた定信は、天明6(1786)年、家治が死去して徳川家斉が15歳で11代将軍となると、失脚した田沼意次に代わって老中首座・将軍輔佐となる。定信は、幕閣から旧田沼系を一掃し、祖父吉宗の享保の改革を手本に寛政の改革を始め、緩みきった幕政の再建を目指した。
 


 松平定信は老中首座就任とともに、矢継ぎ早に改革政策を実施した。政策は多岐にわたるが、経済政策では農業中心の緊縮財政、生活文化面では質素倹約・風紀取り締まりの徹底などの引締め策をすすめた。

 天明の飢饉により崩壊しつつあった農村対策として、「旧里帰農令」を出して、飢饉で江戸へ大量に流入していた農民たちを、移動の資金を与えて帰農させ、農村人口の復興を図った。また諸藩の大名には、飢饉に備えて米や穀物を備蓄する「囲米」を命じ、江戸の町々では「七分積金」の制度を設け、町の経費を節約し救荒基金として積み立てさせた。
 


 さらに窮乏した旗本・御家人などの救済のために「棄捐令」を出し、札差に対して債権破棄や借金の利子引き下げを命じた。そして「猿屋町会所」を設け、棄捐令によって損害を受けた札差などを救済するために、資金の貸付を行ってその経営を救済した。また、江戸石川島に設置した「人足寄場」に、江戸の治安を悪化させている浮浪人や無宿人を収容するとともに、職業訓練を施し生業を営ませる支援とした。さらに商人政策として、田沼時代の重商主義を改め、「株仲間や専売制を廃止」した。

 学問・思想面では「寛政異学の禁」を定め、朱子学を幕府公認の学問と定め、聖堂学問所を昌平坂学問所と改め、学問所においては朱子学以外の陽明学・古学の講義を禁止し、蘭学なども排除した。また、在野の論者による幕府に対する政治批判を禁止する「処士横議の禁」を定め、「海国兵談」などを著し海防の重要性を説いた林子平などが処罰された。

 

 さらには、贅沢品を取り締まる「倹約の徹底」、公衆浴場での混浴禁止など「風紀の粛清」、さらに「出版統制」などにより、洒落本作者の山東京伝黄表紙作者の恋川春町、版元の蔦屋重三郎などが処罰された。

 一方で、朱子学を中心とする学問は奨励し、旗本・御家人層を対象に、漢学の筆答試験である「学問吟味」を実施、年少者には「素読吟味」を実施し、武芸も奨励した。さらに、幕政初期の精神に立ち戻ることをねらって、文教振興として史書・地誌の編纂や資料の整理保存などを行わせた。
 

 6年あまりの改革中に無数のお触れがだされ、その大半が禁止事項、あれやこれや生活の端々まで禁制で縛られては嫌になる。役人だけでなく庶民にまで倹約を強要し、極端な思想統制令で自由な表現を禁止したため、経済・文化は極端に停滞した。さらに「隠密の後ろにさらに隠密を付ける」と言われた定信の神経質で疑り深い気性などで、閉塞した世の中になった。しかも、財政の安定化や独占市場の解消においても、さほどの成果をあげることはなかった。


 大田南畝蜀山人)のものとされる狂歌で、「白河の清きに魚のすみかねて もとの濁りの田沼こひしき」などと揶揄されたように、庶民には不評の声が充満した。その上、将軍家斉とその実父徳川治済の定信への信頼の低下や幕閣内での対立などが重なり、わずか6年余りで定信は失脚する。寛政の改革は短期で失敗に終わったが、しかし定信が失脚した後も、松平信明など寛政の遺老たちにより、この改革の基本方針は以後の幕政にも引き継がれることになった。
 

 老中失脚後の定信は、白河藩の藩政に専念する。定信は馬産を奨励するなどして藩財政を潤わせ、また、民政にも尽力し、白河藩では名君として慕われたという。家督を長男の定永に譲って隠居するが、実権は握り続け、文政12(1829)年まで生きた。享年72。
 
 

(この時期の出来事)

*1786.5.-/蝦夷 幕府調査隊の最上徳内らが得撫[ウルップ]島へ、大石逸平らが樺太へ到り、ロシア人との接触する。

*1786.5.-/ 林子平が「海国兵談」16巻を脱稿する。

*1786.7.14/関東 大雨で関東各地に洪水がおこり、印旛沼手賀沼干拓工事が壊滅的な打撃を受ける。

*1786.8.27/江戸 老中田沼意次が、25日の将軍家治の死とともに解任され失脚する。

*1786.閏10.5/江戸 田沼意次の領地が2万石没収、腹心の勘定奉行松本秀持も逼塞になるなど、田沼体制の名残は急激に打ち消される。

*1787.4.15/江戸 徳川家斉が第11代将軍に就任する。

*1787.4.15/大阪・江戸 米価急騰から大坂の町人が米屋などを打ち毀し、やがて江戸にも広がる。(天明の打ち毀し)

*1787.12.-/伊勢 本居宣長が藩政改革について「玉くしげ」「秘本玉くしげ」を著し、紀州藩に献上する。

*1788.4.30/京都 四条宮川町から出火し、京の町が大火となる。(天明の大火)

*1788.5.6/京都 前伏見奉行小堀政方が、苛政の罪により改易される。(伏見騒動の決着)

*1789.5.5/蝦夷 和人による苛酷な使役に耐えかねたアイヌ人が、国後島で蜂起する。