【17th Century Chronicle 1636-40年】

【17th Century Chronicle 1636-1640年】
 

島原の乱

*1637.10.25/肥前・肥後 島原・天草で農民・キリシタンが蜂起し「島原の乱」が勃発する。
*1637.11.9/肥前・肥後 島原の乱に対し、幕府は板倉重昌を派遣するとともに、九州の諸大名に動員を命じる。
*1637.12.3/肥前 島原の乱の首領益田(天草)四郎時貞ら数万人が、原城跡に籠城する。
*1638.1.1/肥前 幕府軍原城を総攻撃するも、指揮官板倉重昌が戦死して失敗。
*1638.1.4/肥前 老中松平信綱率いる幕府援軍が到着する。
*1638.2.28/肥前 原城が陥落し、首領益田四郎時貞(18)が討ち取られる。
*1638.4.12/肥前 島原藩松倉勝家が、島原の乱の責任で所領没収のうえ斬罪、天草領主で唐津藩主寺沢堅孝も減封される。
 


 島原半島キリシタン大名有馬晴信の所領だったので、キリスト教信仰の盛んな地であった。慶長19年(1614年)、有馬氏が転封となり、代わって大和五条から松倉重政が入封した。重政および勝家父子は積極的な政策を進めたが、そのため過重な年貢を取り立て、また幕府の意向に従って厳しいキリシタン弾圧も行った。

 一方、天草諸島は元はキリシタン大名小西行長の領地であったが、関ヶ原の戦いで行長が敗れ、後に寺沢広高が入部、次代の堅高の時代まで島原同様の圧政とキリシタン弾圧が行われた。
 


 島原や天草では、領主の改易や転封により取り残された家臣が、浪人百姓として土着しており、彼らが反乱をリードした。彼ら首謀者は島原湾の湯島(談合島)において会談を行い、幾つもの奇跡を行ったと噂されれ、カリスマ的人気のあった16歳の少年天草四郎益田四郎時貞)を頭目として、一揆を惹き起こした。

 寛永14(1637)年10月25日、有馬村のキリシタンを中心に蜂起し、代官所を襲い代官を殺害する。組織化された一揆集団は、反対する者も含めて半強制的に一気に組み込まれ、島原半島の雲仙以南がほぼ一揆軍に支配された。島原藩は討伐軍を繰り出したが、一揆軍の勢いに押されて島原城に籠城するが、幕府の命を受けた諸藩の討伐軍が来ると知ると、一揆軍はいったん南に引いた。
 


 数日後には、呼応して肥後天草でも一揆が蜂起。天草四郎を戴いた一揆軍は、天草の支配拠点を攻撃、11月には富岡城代を討ち取って、さらに唐津藩兵が籠る富岡城にせまった。しかし九州諸藩の討伐軍が近づいてくると、一揆軍は撤退を選び、有明海を渡って島原半島に移動した。

 ここに島原と天草の一揆勢は合流、その数37,000人とされ、島原半島南部の旧主有馬家の居城であった廃城原城址に籠城した。幕府は、乱の鎮圧のため板倉重昌を派遣、重昌に率いられた九州諸藩による討伐軍は原城を包囲する。しかし、再三攻め寄せるも撃退され、その中で指揮官の板倉重昌自身が銃弾をを受け死亡してしまう。
 

 一揆軍が戦意たかく一致団結していたのに比べて、討伐軍は諸藩の寄せ集めで統率が取れていなかった。総大将の板倉重昌は小大名であり、九州の諸侯はこれに従わず勝手な動きをしたため、一揆軍の攻略に失敗したとされる。事態を重く見た幕府は、老中松平信綱の派遣を決定した。そのため焦った板倉重昌が、無謀な総攻撃を仕掛けたという。

 新たに着陣した松平信綱率いる討伐軍は、九州諸侯の増援をも得て、12万以上の軍勢で原城を完全包囲した。信綱は一揆側に兵糧が残り少ないことを察知すると、兵糧攻めに作戦を転じた。このとき、オランダ船が海から城内に砲撃するという支援があったが、一揆軍はポルトガルの支援を期待しており、新教国オランダと旧教国ポルトガルとの市場争奪戦という側面もあった。
 


 寛永15(1638)年2月28日に、総大将の老中松平信綱は総攻撃を行うことを決定するが、ここでも、鍋島勝茂の抜け駆けにより前日に攻撃が開始され、さみだれ式に総攻撃が始まってしまった。この総攻撃で原城は落城、天草四郎は討ち取られ、一揆軍は皆殺しにされて乱は鎮圧された。幕府軍の攻撃とその後の処刑によって、籠城していた老若男女37,000人はほぼ全員が死亡したとされる。

 反乱軍への処断は苛烈を極め、島原半島天草諸島カトリック信徒はほぼ根絶された。また、島原藩主の松倉勝家は、過酷な年貢の取り立てによって一揆を招いたとして、改易処分のうえで斬首となり、同様に天草領主の寺沢堅高も責任を問われ、天草の領地を没収された。
 

 島原の乱は江戸期初期に発生したが、江戸時代を通じて最大の大乱となった。領主による圧政と弾圧が直接の動機となったが、百姓一揆キリシタンの反乱という性格が重なり合い、江戸幕府を怯えさせるほどの内乱に発展した。

 江戸時代を通じて百姓一揆は多く発生したが、これだけ組織だった一揆はなかったし、キリシタンも武器を取って抵抗することはなく、殉教という形で神の裁きを期待するのが普通だった。したがって、百姓一揆キリシタンの反抗だけで、この島原の乱を説明できない。

 

 島原はかつてキリシタン大名有馬晴信の領地であったが、晴信は配流され自害した。また天草は、これもキリシタン大名であった小西行長の領地だったが、行長は関ケ原で西軍に付いたため斬首されている。それらの地では、領主から取り残された家臣が浪人となり、百姓として庄屋など土地の中心的存在となっていた。

 彼ら浪人百姓は、かつての戦国の空気を嗅いだ武士でもあったわけで、彼らが一揆軍を組織したと考えられる。かれらもまたキリシタンでかつ百姓でもあったし、他の農民も束ねやすかったと思われる。さらに乱の初めから、かなりの武器を用意していたと考えられる。となれば、そのバックにポルトガルやイエスズ会が関わっていたことも想像される。こう考えると、圧制と弾圧をこらえかねて立ち上がった百姓やキリシタン一揆というだけではなく、遠くマカオやマニラまでも関わる国際的な背景のもとでの反乱という構図が浮かんでくる。幕府が体制の危機とまで恐れた理由が分かる気がする。
 

(この時期の出来事)
*1636.5.19/ 幕府は日本人の海外渡航を厳禁、ポルトガル人を海外追放。(第4次鎖国令)
*1636.5.24/仙台 仙台藩伊達政宗(70)没。
*1636.-.-/肥前 長崎の出島が完成。
*1638.9.20/ 幕府はキリシタン禁教令を諸大名・旗本に重ねて布告し、密告を奨励する。
*1639.6.-/ 幕府は宗門改役を設置し、宗門改帳を作成する。
*1639.7.4/ 幕府はポルトガル船の来航とキリスト教の厳禁を通達する。(第5次鎖国令・鎖国の完成)
*1639.10.-/肥前 オランダ人とその日本人妻子を国外追放する。
*1640.6.16/肥前 幕府は、貿易再開の要請のため長崎に入港したポルトガル船を焼き、使節や乗組員61名を処刑する。
*1640.7.26/播磨・讃岐 幕府は池田騒動と生駒騒動に採決を下し、播磨山崎藩主池田輝澄と讃岐高松藩主生駒高俊を厳重処分。