【17th Century Chronicle 1641-45年】

【17th Century Chronicle 1641-45年】
 

寛永の大飢饉

*1642.2.-/ 5月にかけて全国的に大飢饉がおこる。
*1642.5.22/江戸 凶作による米相場の高騰を利用し、私欲をはかった蔵奉行・代官・勘定役らの不正が摘発される。
*1942.5.26/ 幕府が全国を襲っている大飢饉への対応策を交付する。
*1642.8.10/ 幕府は凶作に対処して、新農業政策、郷村取締り令を定める。
*1643.3.11/ 幕府が田畑永代売買の禁止を定める。
 


 江戸四大飢饉の一つに数えられる寛永の大飢饉は、寛永17(1640)年から寛永20(1643)年にかけて起こり、江戸時代初期では最大の飢饉となった。島原の乱に引き続いて起こり、とともに江戸幕府の農政転換にも影響するとともに、武断政治から文治政治への切っ掛けともなった。

 飢饉は寛永19(1642)年前後に最大規模となるが、島原の乱の後ぐらいからその兆候はあった。寛永15(1638)年頃には牛疫が西日本に蔓延、寛永17(1640)年には蝦夷駒ケ岳が噴火し陸奥国津軽地方などで凶作、寛永18(1641)年には、大雨、洪水、旱魃、霜、虫害が発生するなど全国的な異常気象となった。
 

 凶作は寛永19(1642)年にも続き、百姓の逃散や身売など飢饉の影響が顕在化しはじめると、幕府は対策に着手する。同年5月、将軍徳川家光は諸大名に対し、領地へおもむいて飢饉対策をするように指示し、翌6月には諸国に対して、煙草の作付禁止、雑穀栽培制限、酒造統制、御救小屋の設置など具体的な米不足や飢饉への対策を指示する触書を出した。

 寛永19(1642)年末から寛永20(1643)年(1643年)にかけて餓死者が増大し、江戸をはじめ三都への人口流動が発生するなど、農村の荒廃が進み、都市部では治安が悪化した。幕府は、浮浪民を元の村に返すように諸藩に指示し、3月には、田畑永代売買禁止令を出した。

 

 大飢饉の背景には、世界規模での異常気象による凶作のほか、江戸時代初期の武士階級の困窮、参勤交代や手伝普請、将軍の上洛や日光社参など、幕府や藩の多額の出費があり、それらが農民からの収奪を強化させたことも要因となった。

 寛永の飢饉の経験は、幕府に農村政策の転換を迫ることになった。家康の「百姓は生かさず殺さず」という言葉にあるように、それまでの農民の倹約とぎりぎりまでの収奪を基本としたものから、百姓撫育(百姓成立)という百姓の生活安定を優先した農村対策へと移り変わった。

 

 また、家康・秀忠・家光と三代にわたる武断政治は、大名に課せられた普請役、参勤交代などでの浪費、倹約の推奨による武士階級の困窮化、厳しい改易や転封による浪人の増大、飢饉による没落浪人や浮浪民の都市流入などにより、大名の窮乏と大都市の治安の悪化を招いた。


 島原の乱から寛永の飢饉にかけて、多くの没落浪人が生まれ、その不満を背景に、家光から徳川家綱への代替わりの時、慶安の変由比正雪の乱)や承応の変という不満浪人による反乱計画が露見し、幕府を驚かせた。そのため幕府は、家綱・綱吉の治世で、武断政治から文治政治へと基本方針を転換させてゆくことになった。
 

(この時期の出来事)
*1641.4.2/江戸 将軍家光がオランダ商館長を引見、商館の長崎出島への移転を命じる。
*1641.9.20/肥前 幕府領となった天草の初代代官に鈴木重成を任じる。
*1641.-.-/肥前 長崎に来航したキリシタン宣教師が全員処刑される。
*1643.2.21/肥後 熊本藩が、家臣阿部一族の反乱を鎮圧する。
*1643.5.2/陸奥 会津藩主加藤明成が家臣との争いにより、所領42万石を没収される。その後、将軍家光の弟で山県藩主「保科正之」が会津藩主となる。(会津騒動)
*1644.4.9/江戸 「かぶき者」の横行を統制するため、武士の刀や脇差の寸法を制限し、徒士・若党・中間などの派手な衣服を禁止するなど、規制を強化する。
*1644.-.-/肥前 オランダ商館長が、ヨーロッパなどの海外情報を、長崎奉行を通じて幕府に提出する「オランダ風説書」が、以後、毎年の慣例とされる。
*1645.7.18/江戸 幕府は大脇差・大撫付・大額など奇矯な風俗を禁止し、市中の無頼者の取締りを強化する。
*1645.8.5/江戸 盗賊・無頼者などの取締りのため、市中に辻番所を設置する。