【18th Century Chronicle 1771-75年】

【18th Century Chronicle 1771-75年】
 

◎田沼時代

*1772.1.15/江戸 田沼意次が老中に就任する。
 


 田沼時代とは江戸時代中後期の20年前後を指し、田沼意次側用人となってから、老中として権勢をふるった後に失脚するまで、明和4(1767)年から天明6年(1786年)の時期をいうとされる。

 この時期には商業資本、高利貸などが発達し、それまでの米中心とする農本主義的政策が実効性を失いつつあり、幕府財政も逼迫していた。悪化する幕府の財政赤字を食い止めるべく、老中首座である松平武元のもとで、側用人であった田沼意次など幕府の閣僚は、数々の幕政改革を手がけ、経済的には重商主義政策を採り、積極政策を展開した。

 

 安永8(1779)年松平武元が亡くなると、田沼意次が専横的に実権を握り、実力主義に基づいて人材を登用し、株仲間の結成、銅座などの専売制の実施、鉱山の開発、蝦夷地の開発計画、俵物などの専売による外国との貿易の拡大、下総国印旛沼干拓に着手する等の積極的経済政策を展開した。

 意次の積極策により、幕府の財政は改善に向かい、景気もよくなった。しかし、商業重視の政策は、商人だけではなく町人・役人・武士までもが金銭中心のものとなり、消費の拡大とともに物価が騰貴し、米価の低迷とともに農民の困窮が進んだ。しかも、円滑な取引環境が成立していない封建経済のもとでは、取引をうまく進めるために贈収賄が横行し、きわめて歪んだ商業経済が展開されるようになった。
 


 都市部で町人の文化が発展する一方、困窮した農民が田畑を放棄し都市部へ流れ込み、農村の荒廃が生じた。さらに、印旛沼運河工事の失敗、明和の大火・浅間山の大噴火などの災害が勃発するなか、疲弊した農村部に天明の飢饉が襲い、餓死や疫病が蔓延した。

 それらを起因として、都市部の治安の悪化、一揆・打ち毀しなどで社会不安が高まり、商人への権益を拡大し、そこに賄賂を介在させた田沼政治への批判が集中した。そしてこれらの急激な改革は、従来の身分制度や封建的な経済制度を重視する保守的な幕府閣僚の反発を買い、天明4(1784)年には、息子で若年寄田沼意知江戸城内で旗本佐野政言に暗殺されるという事件が起き、それを契機に権勢が衰え始めた。

 天明6(1786)年、意次を庇護してきた将軍家治が死去すると、反田沼派の勢力が強くなり、田沼意次は老中を辞任させられ失脚する。加増分の2万石は没収、大坂の蔵屋敷江戸屋敷も没収明け渡しという厳しい処置となる。その2年後の天明8(1788)年江戸で死去、享年70。
 


 田沼失脚後、松平定信による寛政の改革が始まると、意次の政策は完全に否定された。田沼意次すなわち賄賂政治家という汚名が付きまとうが、それは彼の失脚後に意図的に流された噂であるという説もある。近年には田沼時代の見直しも始まり、意次が幕政を主導した宝暦天明期は、幕政の変動期であり、その時代を切り盛りした開明的な政治家としてとらえる視点もある。

 その重商主義的な政策は、当初においては、都市経済における貨幣流通の拡大により、幕府財政に画期的な回復をもたらした。しかし商業重視の政策は、大商人による市場の独占によって、未成熟な都市産業はむしろ衰退した。さらに物価の騰貴によって、相対的な米価の低迷は、農村の窮乏化をもたらし、そこを襲った天明の大飢饉は数年にわたり、田沼政治に決定的な破綻をもたらした。

 田沼の後任として就任した老中松平定信寛政の改革は、徹底した倹約と厳しい引締めの政治で、その窮屈さに庶民は悲鳴を上げた。両者の対比は「白河の清きに魚も住みかねて もとの濁りの田沼恋しき」と歌われた。
 
 

(この時期の出来事)

*1771.3.4/江戸 杉田玄白前野良沢らが、千住小塚原で死体解剖を観察する。

*1771.6.20/奄美大島 ハンガリー人ペニョフスキーが長崎オランダ商館長あてに、ロシア人南下の警告書簡を送る。

*1771.7.-/伊勢 伊勢神宮への「おかげまいり」が諸国で大流行し、参加者は200万人を超える。

*1772.2.29/江戸 目黒行人坂より出火、明暦の大火以来の大火事となる。

*1772.11.16/ 2月の江戸の大火や夏以降の天災などにより、幕府は人心一新のため改元を実施、明和から安永となる。

*1773.4.1/飛騨 幕府領3郡の農民が、新検地令に反対して一揆を起こす。(大原騒動・安永騒動)

*1773.6.26/出羽 米沢藩主上杉鷹山(治憲)の藩政改革を批判して、重臣7人が訴状を提出する。(七家騒動)

*1774.8.26/京都 幕府は、宮中付きの役人など数十人を、横領など目に余る不正を摘発し処罰する

*1774.8.-/ 前野良沢(52)・杉田玄白(42)らが、解剖書「ターヘル・アナトミア」を、オランダ語から翻訳し「解体新書」として刊行する。

*1775.-.-/ 豊後の哲学者三浦梅園が、大著「玄語」を完成する。