【18th Century Chronicle 1791-95年】

【18th Century Chronicle 1791-95年】
 

◎ロシア使節ラクスマン来航

*1792.10.20/蝦夷 ロシアの使節ラクスマンが、漂流民大黒屋光太夫らを伴い根室に来航、通商を求める。

*1793.6.27/蝦夷 幕府代表がロシア使節ラクスマン松前で会談し、外交交渉の窓口長崎への回航を要請、長崎入港許可証を与える。
 


 1792年(寛政4年)10月20日、ロシア使節アダム・ラクスマンがエカテリーナ号で根室に来航した。ラクスマンは、日本人漂流民の大黒屋光太夫らを引き渡すとして、エカテリーナ2世の命により、イルクーツク総督の親書を携え通商を求めた。これは、江戸幕府に対する欧米諸国による開国要求の最初のものであった。

 ラクスマンは、江戸に出向いて漂流民を引き渡し、通商交渉を行うつもりであり、それはただちに幕府に伝えられた。しかし、老中松平定信らは、漂流民は受け取るが、ロシアの国書は受理せずという方針を示した。根室で越冬したラクスマン一行は、翌年、松前で幕府の宣諭使と会談するが、唯一の交渉窓口の長崎に廻航するように指示され、長崎への入港許可証(信牌)を交付された。ラクスマンは、それを一定の成果として、長崎へは向かわずロシアに帰る。

 

 伊勢が拠点の回船(運輸船)の船頭であった大黒屋光太夫は、天明2(1782)年、江戸へ向かう途中で嵐により漂流し、7ヵ月あまりの漂流ののち、アリューシャン列島の1つに漂着した。その後脱出を図るもはたせず、苦難の内に寛政1(1789)年、イルクーツクに至る。

 イルクーツクでは、日本に興味を抱いていた博物学者キリル・ラクスマンと出会う。キリルらの尽力により、エカテリーナ2世に謁見し帰国を許される。ここで漂流民を返還する役割を担ったのが、キリルの次男のアダム・ラクスマン陸軍中尉であり、通商を求めて日本へ派遣される一向に同行することになった。
 


 光太夫は漂流から約9年半後の寛政4(1792)年、キリルの息子アダム・ラクスマンに伴われて根室港入りして帰国した。帰国、11代将軍徳川家斉の前で聞き取りを受け、その記録は桂川甫周により「漂民御覧之記」「北槎聞略」としてまとめられた。光太夫の海外情勢への豊富な見聞は、以後の蘭学発展に寄与することになった。

 光太夫によって、ロシアの進出など北方情勢が緊迫していることを知った幕府は、この頃から樺太や千島列島に関して防衛意識を強めていくようになった。光太夫は江戸小石川に居宅を得て生涯を暮らした。寛政7(1795)年には、大槻玄沢が実施したオランダ正月を祝う会に招待され、蘭学者など多くの江戸の知識人たちと交流し、貴重な情報を提供した。

 光太夫の生涯は、井上靖の小説「おろしや国酔夢譚」(1968年)で描かれ、さらに映画化もされた。また吉村昭よって、より事実を反映した小説「大黒屋光太夫」も発表された。

おろしや国酔夢譚」(井上靖著/1966) https://www.amazon.co.jp/dp/B009DECMHI/ref=dp-kindle-redirect?_encoding=UTF8&btkr=1
映画「おろしや国酔夢譚」(佐藤純彌監督/1992) https://www.amazon.co.jp/dp/B015BKLIEA

 

 その12年後の文化1(1804)年9月、ニコライ・レザノフが、アレクサンドル1世の親書を携え、漂流民の津太夫らを送還するとして、ラックスマンの得た信牌(入港許可書)をもとに長崎の出島に来航、改めて通商を要求した。すでに松平定信は失脚しており、代わりに交渉を担当した老中土井利厚は、わざと非礼な対応をして交渉を断念させようとした。

 レザノフたちは半年間、出島近くに留め置かれたうえ、翌年になって長崎奉行より通商拒絶の通告を受け、ろくな装備や食料の補給も受けず、長崎を退去させられた。その報復として、レザノフの部下ニコライ・フヴォストフが、樺太松前藩居留地択捉島駐留の幕府軍を攻撃し、文化露寇と呼ばれた。
 

 これらの事件により、やっと幕府は外国船への危機感を抱くことになる。1807年12月には「ロシア船打払令」を出し、ロシア船には厳重に対処する方針を打ち出した。そのような情勢の中で、千島列島を探検測量中であったロシアのヴァシリー・ゴローニン大尉らが国後島で補給を求めた。ゴローニンらは一方的に捕縛され、3年にわたる「ゴローニン事件」として、ロシアとの間に軋轢を残した。以後、ロシア船だけではなく、頻繁に西欧列強の船が日本近海に訪れるようになり、幕末の開国騒動となってゆく。
 

(この時期の出来事)

*1791.1.25/江戸 幕府は、湯屋での男女混浴を禁止する。

*1791.5.-/江戸 山東京伝の洒落本が幕府の発禁処分をうけ、京伝と版元の蔦屋重三郎が処罰される。

*1791.12.-/江戸 幕府は、町人用節約分の70%の積み立て(七分積金)を始める。

*1792.3.9/江戸 幕府が関東郡代伊奈忠尊を、家政不行届きなどにより改易すr。

*1792.5.16/江戸 幕府は、林子平の「海国兵談」「三国通覧図説」を絶版とし、子平を禁錮に処す。

*1792.11.12/京都 典仁親王に大上天皇の尊号を贈る内意を伝えるも、幕府から承諾を得られず、尊号宣下が中止になる。

*1792.-.-/蝦夷 幕府は、アイヌとの交易の公正化をはかるため、最上徳内らを宗谷・石狩に派遣し「御救(おすくい)交易」を行わせる。

*1793.3.7/江戸 典仁親王に尊号を贈る問題(尊号宣下)が紛糾した件で、幕府は推進派の公家2人の責にして処罰する。(尊号一件

*1793.6.27/ 勤王思想家高山彦九郎が、久留米で自害する。

*1793.7.23/江戸 寛政の改革を進めて来た松平定信が、突然、老中並びに将軍補佐役を罷免される。

*1793.9.18/江戸 ロシアから送還された漂流民大黒屋光太夫と磯吉が、江戸城内で将軍家斉への拝謁を許される。

*1794.5.-/江戸 東洲斎写楽が、版元蔦屋重三郎から役者絵などを次々と版行する。

*1794.8.-/ 桂川甫周が、大黒屋光太夫のロシア体験を聞いて「北槎聞略」を著す。

*1794.閏11.11/江戸 オランダの正月を祝う新元会が、大槻玄沢の塾芝蘭堂で開かれ、蘭学者が交流を持つ。

*1795.10.3/江戸 風紀粛正の波は髪結いにも及び、幕府は女髪結に商売替えを諭す。