【19th Century Chronicle 1831-35年】

【19th Century Chronicle 1831-35年】

 

◎江戸の怪盗、鼠小僧次郎吉、小塚原でさらし首に。

*1832.8.19/江戸 盗賊鼠小僧次郎吉が、小塚原で処刑される。
 


 鼠小僧次郎吉は鳶人足が生業だったらしいが、博打で身を持ち崩し、父親から25歳の時に勘当される。その後、1823(文政6)年)ごろから10年にわたって泥棒稼業に励み、武家屋敷中心に忍び込むこと95箇所、839回、盗んだ金三千両余りとされる。
 

 泥棒稼業に身を染めて以降、武家屋敷に忍び込むこと数十回に及んだが、1825年に土浦藩上屋敷に忍び込んだ所を、現行犯で捕縛された。この時は、初犯だと言い逃れて、入れ墨の上で江戸払いの刑を受ける。


 一時は上方などへ姿を消していたもようだが、ほとぼりが冷めるとひそかに江戸に舞い戻り、賭博の資金欲しさか、再び盗人稼業に戻る。その後7年にもわたって、武家屋敷へ忍び込みを続け、ついに1832(天保3)年6月、日本橋浜町小幡藩屋敷で逮捕された。
 


 この時は観念したのか、北町奉行の尋問に過去の行状をすべて白状したという。鼠小僧の供述では、上記のような犯行歴が明らかになったが、本人が記憶していない部分も含め、正確な金額などは未だに不明。3ヵ月後には、「市中引き回しの上獄門」の判決が下される。

 本来なら凶悪犯に適用される刑であるが、盗みに入られた武家の面子への忖度もあったかと思われる。引き回しの際には、伝馬町から日本橋まで、鼠小僧を一目見ようという野次馬であふれた。市中引き回しは、当時の娯楽の少ない庶民への一種の見世物となっており、すでに有名となっていた鼠小僧には、まともな着物を着せ、顔には薄化粧まで施されたという記述が残されている。

 

 鼠小僧次郎吉と言えば、大名屋敷にのみ忍び込み、いっさい刃傷沙汰は起こさず、盗んだ金子は庶民に分け与えたという義賊伝説が世間に流布している。しかし、庶民に金をばら撒いたという事実は、まったく確認されない。大名屋敷を中心に狙ったというのも、むしろ敷地の広い武家屋敷は内部の警備は手薄で、とくに当主が国元に帰っている間などは狙い目だったようだ。しかも盗みに入られたというのは武家の面子にも関わるので、公表しないことも多かったという。


 庶民感情としては、威張っている大名や武家を狙って、その金を貧しい庶民に与えるという美談願望が働いたと考えられ、それが鼠小僧という義賊伝説を誕生させたのであろう。武士階級が絶対の時代、たった一人で武家屋敷に盗みに入るなど、反権力の具現者として歌舞伎などで演じられると、圧倒的な人気者となった。
 

 実際の次郎吉は、鳶職見習いであっただけに、動作は敏捷で盗みに適していたが、五尺に満たぬ小男で、捕まったときにはろくな家財道具も金もなかったという。貧者に施したというのはあくまであと付けであり、実際には博打などで散財したとされる。

 処刑は小塚原刑場にて行われ、その首は3日間獄門台に晒された。墓は、両国の回向院及び蒲郡の委空寺にある。長年捕まらなかった幸運にあやかろうと、参拝客が墓の一部を削って持ち帰りお守りにしているという。
 
 


◎東北中心に「天保の大飢饉」始まる。

(自然災害)
*1833.8.1/ 関東・大羽地方が大風雨に見舞われる。

*1833.10.26/ 出羽・越後・佐渡に大地震と、それに伴う大津波があり、庄内地方に甚大な被害を出す。

一揆・打ちこわし)
*1833.8.23/陸奥 南部藩森岡町で、米屋も打ちこわしが発生、領内各地および秋田・青森でも打ち毀しが続発する。

*1833.9.12/播磨・丹波 加古川筋一帯で、農民が富商などを打ち毀す。(加古川一揆

*1833.9.-/ 9月から12月にかけて、米の買い占めによる米価高騰に対して、全国各地に騒動・打ち毀しが起る。

 

 1833(天保4)年、東北地方を中心に夏の長雨と低温が続き、さらに大洪水や大地震による大津波と、天変地異が大凶作をまねいた。冷夏による凶作は、東北だけでなく全国に及び、その結果、米価が騰貴し、各地で一揆や打ち毀しが頻発した。冷夏による凶作は翌年以降も続き、1836(天保7)年前後には最も深刻な被害をもたらし、1839(天保10)年まで続いた。


 「天保の大飢饉」は、寛永の大飢饉享保の大飢饉天明の大飢饉と合せて「江戸四大飢饉」と呼ばれる。最も餓死者を多く出したのは天明の飢饉だが、その50年後に起きた天保の飢饉は、6年も連続して凶作となったため、その及んだ被害も大きく、人口減少幅でみると天明の飢饉に匹敵するという。
 

 幕府は米価高騰を抑えるため、米の買い占めを禁じ、米商人には囲米(備蓄米)を放出させ、全国諸藩には江戸・大坂の大消費地に廻米を命じた。さらに幕府や藩では、蔵米(備蓄米)を放出し、窮民には施米を実施した。しかし全国的な凶作は、融通しあう余地も少なく、しかも連年の凶作は、累積的にダメージを深めた。

 仙台藩では、盛んに新田開発を行い、米作に偏った政策を行っていたため被害が甚大であった。水戸・紀州尾張など、幕府に近い親藩大名の領地でも、大きな被害を出した。一方、犠牲者を一人も出さなかったと伝えられる藩もあった。田原藩(愛知)では、家老の「渡辺崋山」が、師の経世家佐藤信淵」の思想をもとに、役人の綱紀粛正と倹約、民衆の救済を最優先すべきと説き、義倉の整備をして成果をあげた。また米沢藩(山形)でも、天明の大飢饉の教訓から、義倉を整備し「かてもの」という代用食を推奨するなど、周到な対策が取られた。
 


 この時期すでに経世家・農政家として名声が確立していた「二宮尊徳(金治郎)」は、藩命で下野国(栃木県)桜町領の再建を任されていたが、口にした茄子が初夏なのに秋茄子の味がするので、その年の冷夏と凶作を直感し、百姓達に冷害に強い稗(ひえ)などの作物を植えさせた。金治郎の予想通り大凶作となったが、彼の指導していた村では、冷害に強い稗や食糧の備蓄で、飢饉を乗り越えたという。

 戦前戦中を通じて、教育勅語で「忠に孝に」と唱和させられ、忠孝のシンボルとして、二宮金治郎の銅像が各地小学校に建てられた。軍国主義の時代に称揚されて利用されたが、二宮尊徳は軍国思想とは無縁の人物で、百姓の長男として生まれ、貧しい中で独学し、自身の家の経済を建て直すのを始めとして、傾いた武家の家計を復興したりしてその能力を認められた。

 

 尊徳は「報徳思想」という独自の教えで、再建を命じられた村落の農民たちを指導した。これは決して宗教ではなく、抽象的な儒教道徳でもなく、尊徳が独学で学んだ神道・仏教・儒教などを下敷きに、ひたすら農業の実践の中から編み出した考え方であった。天の理にそって私欲を捨て、質素倹約の生活の中で、生業に励みむことを強調し、いわばプロテスタンティズムのように、自助努力の実践活動が重視された。

 結果的に、尊徳に託された農村などは、見事に豊かになり、各地から尊徳の指導を仰ぐ声が寄せられた。経世家、農政家としての実績を積み上げたが、その本質は、豊かに生きるための総合的な知恵を植え付ける実践家であった。
 
 

(この時期の出来事)

*1831.3.8/大坂 町奉行が安治川を浚渫し、その土砂で天保山の築造を始める。

*1831.7.26/周防・長門 長州藩領の農民らが各地で打ちこわしを起こし、長州全藩を巻き込む一揆となる。(防長一揆

*1831.-.-/江戸 葛飾北斎の代表作「富嶽三十六景」が出版される。

*1832.1.-/江戸 為永春水人情本春色梅児誉美」が刊行される。

*1832.12.-/大坂 安治川河口に天保山が完成し、難波の新名所となる。

*1834.7.11/大阪 堂島新地の大火で、7560戸以上が消失する。

*1834.11.3/常陸 水戸藩徳川斉昭が、北方警備のための蝦夷地開拓・船舶建造などを幕府に建言する。

*1834.-.-/ 浮世絵師歌川(安藤)広重の連作風景画「東海道五十三次」が完成する。

*1835.1.6/近江 発明家国友藤兵衛が、自作望遠鏡で太陽の黒点観測を始める。

*1835.12.9/但馬 幕府が、出石藩御家騒動に介入して処断する。

*1835.12.-/薩摩 薩摩藩家老調所広郷が、三都の商人に250年賦・無利子での藩債償還法を申し付け、商人たちの反発をくらう。