【19th Century Chronicle 1900年(M33)】

【19th Century Chronicle 1900年(M33)】
 

足尾鉱毒問題/川俣事件)
*2.13/群馬 足尾銅山鉱毒被害民が、政府に陳情のため上京の途中、川俣で警官と衝突し、負傷者および逮捕者が多数出る。「川俣事件」
*2.15/ 田中正造が国会で、足尾鉱毒被害民の請願運動弾圧に抗議の質問をし、足尾鉱毒被害者救済決議案を提出する。田中はこの日、憲政本党を脱党する。

 1900年(M33)2月13日、足尾銅山鉱毒被害を訴える農民らが、政府に陳情のため上京の途中、群馬県の川俣で警官と衝突、流血の惨事となり農民多数が逮捕された。これが、当時は兇徒聚集事件と呼ばれた「川俣事件」である。事件では農民67名が逮捕されたが、1902年12月25日、起訴無効という判決が下り、実質的に全員不起訴という形となった。

 「田中正造」はその日、国会で足尾鉱毒問題に関する質問を行っていたが、質問後に初めて事件を知ると、2日後に再度事件について質問を行った。被害陳情(押出し)の決行日は、田中の国会質問日があえて選ばれたものであった。この時の演説が、「亡国に至るを知らざれば之れ即ち亡国の儀につき質問書」で、日本の憲政史上に残る大演説と言われる。2日後の演説の途中では、田中は当時所属していた憲政本党を離党した。
 


 足尾銅山は江戸時代から採掘されていたが、幕末にはほぼ廃山となっていた。しかし、明治維新後民間に払い下げられると、古河市兵衛の経営で採鉱事業の近代化を進め、足尾銅山は日本最大の鉱山となった。当時銅は日本の主要輸出品のひとつという重要金属だったが、精錬時の排煙、精製時の鉱毒ガス(主成分は二酸化硫黄)、排水に含まれる鉱毒(主成分は銅イオン)は、栃木県・群馬県など北関東一帯の環境に多大な被害をもたらすこととなった。

 足尾鉱毒問題は、わが国最初の公害事件とされ、採掘精錬にともなう鉱毒ガスやそれによる酸性雨により、足尾町近辺の山は禿山となり、木を失い土壌を喪失した山は、次々と崩れていった。崩れた土砂は渡良瀬川を流れ、下流で堆積するため、渡良瀬川足利市付近で天井川となり、台風などによる洪水の原因となった。

 

 鉱毒による被害はまず、1878年からの渡良瀬川の鮎の大量死として表面化した。やがて、渡良瀬川から取水する田園や洪水で足尾から流れた土砂が堆積した田園などで、稲が立ち枯れるなど農業の被害が出るようになる。この鉱毒被害の範囲は渡良瀬川流域だけにとどまらず、下流の江戸川や利根川にまで及び、その被害範囲は確定しがたいほどである。

 明治初期から平成に至るまで一世紀もの長期におよぶ公害であり、河川の水や流された土壌により、関東一帯に及ぶ広範な地域に被害を及ぼした。さらにその原因が、排煙、鉱毒ガスの二酸化硫黄や、排水に含まれる鉱毒(主成分は銅イオン)など多岐にわたる有害物質であり、農業被害・人的被害との因果関係が特定しがたい。のちの水俣病における有機水銀や、イタイイタイ病のカドミニウムのような因果関係が曖昧なため、死亡者や障害者の人数も推定値の域を出ない。
 


 渡良瀬川流域出身の国会議員田中正造は、たびたび国会で質問するも政府は取り合わず、積極的に鉱毒対策を行わず、むしろ鉱毒の記録集を発売禁止にするなど、言論封殺で対応した。田中は衆議院議員として、単独で何度も議会で取り上げ、政府を追及した。

 議員を辞職後も、鉱毒被害を訴える活動を続け、明治天皇足尾鉱毒事件について直訴を行おうとした(天皇直訴事件)。途中で取り押さえられて直訴そのものは失敗したが、直訴状の内容は知れわたり、足尾鉱毒の問題は一般にも知られるようになった。政府は裁判で話題が大きくなるのを避け、拘束された田中は即日釈放されたという。
 

 1973年(S48)までに足尾の銅は掘りつくされて閉山、公害は減少した。ただし、精錬所の操業は1980年代まで続き、鉱毒はその後も流されたとされる。その間、治水名目のダム建設など、国によって幾つかの対策がなされ、鉱山運営の古河鉱業側も、明確な責任を示さないまま、和解示談などで部分的に補償するなど、なし崩し的な対策しかなされないまま放置されたが、やっとのことで、1972年(S47)3月31日、被害者団体は、加害者を古河鉱業と断定、加害責任を認めさせる調停を成立させた。
 
 

義和団事変)
*5.3/中国 義和団の兵が北京・天津に迫り、青木周藏外相は欧米と同一歩調をとるよう、西徳二郎駐清公使に訓令する。
*6.21/中国 清国政府が北京に出兵した8か国に宣戦を布告する。「義和団事件
*8.14/中国 日・英・米など8か国連合軍が北京場内に進入し、各国公使館員らを救出する。


 「西太后」は、自分の息子及び甥の同治・光緒両帝を、次々と幼帝として即位させ、自身が宮廷内政治の実権を握り続けた。しかし、李鴻章らを重用して進めた「洋務運動」は、日清戦争の敗北で頓挫し、西太后自身の威信も失墜した。

 そんな中で、成人して親政を始めた「光緒帝」は、康有為らに主導させて「戊戌の変法」を遂行するが、急激な上からの改革は民衆の支持も得られず、西太后派による宮中クーデターが遂行されると、西太后は光緒帝を幽閉し、政権を再度奪取することに成功した(戊戌の政変)。
 

 西太后のめざすところは、旧来の清王朝の威信を回復することだけにあった。政権を取り戻した後、西欧の政体をも取り入れようとした光緒帝を廃立しようと企んだが、諸外国の反対などにより実現せず、西太后の意のままにならない列強国の圧力には、憤懣を蓄積させていた。

 その頃、山東省を中心に、急速に布教が進んだキリスト教に反発する「仇教運動」が活発になり、旧来の風習を因習として否定するキリスト教徒に、一般民衆の排外的な感情も強まっていた。そのような状況下で、「義和拳」と称する武術組織が、このような排外的運動を担う実力組織として頭角をあらわし、一方で、極めて強力な新興宗教的秘密結社として、急激に勢力を拡大していった。
 

 様々な団体を吸収して華北一帯に広がると、急速に膨張して「義和団」と呼ばれるようになり、キリスト教信者はもとより、西欧由来のもの全般を排撃する狂信的団体となっていった。清朝は西欧列強の圧力で、当初、暴徒の鎮圧を行おうとしたが、義和団の「扶清滅洋」(清をたすけ洋を滅すべし)というスローガンに、列強に憤懣をもつ西太后以下もその意を同じくし、義和団には曖昧に対処した。

 かくして、義和団はわがもの顔で横行するようになり、やがて1900年6月20日、20万人とも言われる義和団が北京に入城する事態に至る。ついには、ドイツ公使や日本公使館員が殺害されるという事件が発生、諸外国は居留民保護のために連合軍を派遣することになった。

 

 ここで義和団を優勢と見た西太后は、諸外国に対して「宣戦布告」する。すでに清朝政府としては列強に対抗できる能力を持たなかったが、西太后はこのとき「恃むところはただ人心のみ」と述べ、義和団の反乱に掛けた。しかし、あまりにも情に流された西太后の判断は論外であって、8か国連合軍が北京へ迫ると、西太后は側近を伴い北京から西安へ脱出を余儀なくされる。

 しかし8か国連合軍が到着するまでの、北京の各国武官たちは苛酷な籠城戦を強いられた。いわゆる「北京の55日」と言われる約2ヶ月間籠城戦は、当時北京市中に居た各国公使館付き護衛兵や義勇兵など、わずか約500人程度の戦闘員と、各国公使館員関係者900人、義和団から逃れてきた中国人キリスト教徒300人などの非戦闘員によって耐えるしかなかった。
 

 各国公使館は北京市内で防御線を作り、この各国連合籠城軍の司令官にはイギリス公使クロード・マクドナルドがあてられたが、実質総指揮を担ったのは、北京公使館付武官であった「柴五郎」中佐であったとされる。柴は、各国中で最先任の士官であり、英・中・仏語などに長けていて、各部隊の意思疎通を仲介し、現地民間人からの協力を得るなどして、連合軍北京入城までの2か月を守り抜いた。

 派兵8ヶ国の中で、最も多くの派兵をおこなったのは日本とロシアであり、イギリスは南アフリカでのボーア戦争アメリカは米比戦争を戦っていたため、派兵は少数にとどまった。映画『北京の55日』(1963年/米)では、柴五郎に代わって、チャールトン・ヘストン扮する米海兵隊少佐がヒーローとして描かれている。
 
 

〇この年の出来事

*1.25/東京 社会主義研究会が改組して「社会主義協会」となる。会長には安部磯雄、幹事には片山潜が就任。幸徳秋水らも参加する。

*3.10/ 集会及び政社法にかえて、「治安警察法」が公布される。

*4.14/パリ パリ万国博覧会が開幕する。

*4.-/ 与謝野鉄幹が詩歌雑誌「明星」を創刊し、浪漫主義をうたう。

*9.14/東京 津田梅子が麹町に女子英学塾を開く。

*9.15/東京 立憲政友会結成式が帝国ホテルで開かれる。総裁は伊藤博文、所属議員は152人。

*102.2/ 内務省が娼妓取締規則を公布し、娼妓の自由廃業を認める。