15【20世紀の記憶 1913(T2)年】

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15【20世紀の記憶 1913(T2)年】(ref.20世紀の全記録)
 

*4.1/米 大衆車「T型フォード」量産体制に。ベルトコンベヤ方式による分業を導入する。


 1908年に発売された「フォード・モデルT」は、この年1913年には世界初のベルトコンベア式組み立てラインを導入した。それまで数人の熟練工の手作業で、数日かけて完成車にしていたが、ベルトコンベアによる流れ作業による分業化にするには、単にコンベアを導入すればよいというものではない。コンベアの流れる時間に合わせて、人員配置から部品の規格化まで、すべて「システム」として同期させなければならない。

 部品の簡素化・内製化、流れ作業による未熟練工員の間での分業化により、車体1台の組み立て時間は12時間半からわずか2時間40分に短縮され、年生産台数は25万台を超えた。1908年の初生産から1927年まで、T型フォードは、基本的なモデルチェンジのないまま、通算で1,500万台が生産された。これに相当するのは、2100万台以上を生産されたという、後年のフォルクスワーゲン・タイプ1(通称ビートル)のみである。


 ヘンリー・フォードが作り上げた大量生産、大量消費という生産販売システムは、現代の資本主義の象徴するモデルとなり「フォーディズム」と呼ばれる。それは、大量生産できる高効率の工場設備、従業員のモチベーションを高める高給料、一台当たりの生産コストの革新的な低減などを組み合わせた画期的な方式であった。それは単なる工場管理法にとどまらず、フレデリック・テイラーの提唱する「科学的管理法」を採り入れた総合的マネジメント・システムであった。


 「フォーディズム」は自動車業界にとどまらず、20世紀における労働、経済、文化、政治などの各方面に多大な影響を及ぼした生産活動であった。しかし、充分な機能の車を低価格で提供すればよいというヘンリー・フォードの考え方は、時代の流れの中で劣化していった。一方、フォード社のライバル、ゼネラルモーターズ社(GM)は、消費者のニーズに合わせた多品種の車種を生産し、割賦販売を導入するなどして、黒色ボディー一色にこだわり続けた実用車T型フォードを圧倒していった。

 結局、フォーディズムも科学的管理法も、究極的に効率を追求するシステムであった。そこでは、機械や部品と同様に人間も効率性の下に評価される。機能が優れて低価格ならば顧客は満足する、賃金が高ければ従業員は充足する、しかしこの考え方は、生活に余裕が出始めた消費者には通用しなくなる。また、いかに高賃金であろうとも、長時間を単純作業で過ごす従業員は耐えられなくなる。


 さまざまなニーズの消費者に向けて、自動車ディーラーの店頭には多品種のカラフルな車が並び、製造工場でも、ベルトコンベア方式を廃したボルボ社カルマール工場の生産実験が、経営学の話題に上るなど、人間をシステムの一つのモジュールとして扱う側面が批判された。しかし、効率性の追求は資本主義の基本原理であり、その中で、消費者のニーズをいかにつかむか、従業員のモチベーションをいかに高めるかが、マネジメントの世界では追及され続けている。


 チャーリー・チャップリンは『モダン・タイムス』で、機械の一部分となる労働者を描くことで、資本主義社会や機械文明を痛烈に風刺している。さすがに現在では、このような状況は解消されたかに見えるが、資本主義社会であるかぎり、人は「効率」という指標にさらされ続けていることに変わりはない。


(補記)

 テイラー科学的管理法やフォーディズムのアンチテーゼとして、経営学教科書に必ず出て来るのが、戦前の有名なウェスタン・エレクトリック社「ホーソン工場研究」と、戦後ではボルボ社「カルマール工場実験」だ。これらの実験では、作業に関わる労働者のモチベーションが重要であることが明らかになった。

 科学的管理法は、人間を物理的客観的にとらえて作業効率を図ろうとする。ホーソン実験も当初は、作業条件と作業効率の関係を調べる目的で始められた。

 しかし作業環境を悪くしても、実験の作業効率は上がり続けた。当初の想定と違って、実験で注目されているという作業者の「モチベーション」が能率を高めているのだという結論を得た。


 戦後、スェーデンのボルボ社カルマール工場では、労働者の主体性を尊重するという労使間の合意により、非人間的なベルトコンベア・システムを廃止した。その結果を引用すると、
 >>1970年代、労働条件改善のためにベルトコンベアー生産方式を廃止し、各工程で工員数人から成る作業チームを主体とした生産方式を採用した。これは労働者に歓迎され、生産技術者らの注目を集める一方で、労働コスト高騰によって国際競争力を失い、結果として高級車の生産に移行していかざるを得なくなった。<<

 つまり、労働者の意欲は高まって充足されたが、生産効率は、コンベア・オートメーションには劣ったということだ。結果的に、ボルボ社は高級車にシフトし、そのブランド力を獲得した。
 これは、T型フォードの時代には成り立たず、戦後の経済が確立して、消費者が豊かになり、品質重視の選択をするという状況が出来てきたからであった。
  

*12.-/米 シネマの新天地「ハリウッド」へ。何もなかったロサンゼルス郊外の片田舎で、西部劇の撮影が始まる。



 ロサンゼルス郊外の片田舎ハリウッド(Hollywood)に、映画製作会社が造られ映画の撮影が始められた。米のエジソンや仏のリュミエール兄弟などに発明された映画は、黎明期にありニューヨークやシカゴが中心地であった。しかし、多くの映画関連の特許をもつ発明王トーマス・エジソンは、アメリカの大手映画会社を糾合し、「映画特許会社」(モーション・ピクチャー・パテント・カンパニー"MPPC”)を設立、別名エジソン・トラストと呼ばれた。


 MPPCはアメリカ国内での映画製作・配給を独占し、ヨーロッパ映画が先行していた状況を終わらせ、アメリカ映画の配給・上映の方式を標準化するなど、アメリカ映画の質を高めて競争力を強めることに寄与した。しかし、映画撮影機器からフィルムまでMPPCが独占管理し、高額の特許料が請求されたため、トラストから排除された中小の制作者らは、管理の目が行き届かない新天地ハリウッドへと移転していった。


 西海岸のロサンゼルスのハリウッドは、温暖な気候風土で降雨も少なく映画製作に適していた。新興の映画製作に情熱を燃やす映画関係者たちは、古いしがらみを逃れて、続々とハリウッドにやって来た。また、後発移民でまともな仕事から排除されたイタリア系・アイルランド系・ユダヤ系などは、その出自を問わないハリウッドでクリエイターや出演者としての才能を発揮した。

 さらに、のちにハリウッドのメジャースタジオと呼ばれる大手映画製作会社は、他のビジネスから排除されたユダヤ系移民たちによって展開された。ユニヴァーサル、パラマウント、フォックス、ユナイテッド・アーティスツワーナー・ブラザースメトロ・ゴールドウィン・メイヤーコロムビア映画RKO等々、ほとんどがユダヤ系資本によって設立された。



 このように、才能を秘めた若者たちが、情熱をもってハリウッドを目指した様子は、まさにアメリカン・ドリームを支えた「西部劇」の世界であった。また近年、IT産業の集積で世界にとどろいたシリコンバレーなども、この時期のハリウッドの様子と重なる。物理的なフロンティアは西海岸に達しても、このような新しいイノベーションが、新たなビジネス界の「フロンティア」を拡張し続けてきた。

 ある意味では、新たな「移民・難民・不法入国者」自体が、つねに新しい「フロンティア」を形成して、アメリカに活力を注入し続けるのが、アメリカそのものではないかと思われる。それを「閉ざす」というのは、歴史的な悔恨をアメリカにもたらすのではないか。



 ハリウッドにも暗黒の時代があった。戦後冷戦体制が成立すると、共和党マッカーシー上院議員による「赤狩り」の嵐が吹き荒れた。その嵐はハリウッドにも及び、多くの映画関係者が「共産主義者」の嫌疑を掛けられた。俳優労働組合の委員長であったロナルド・レーガンが、仲間の組合員を売り渡す証言をしたり、ジェームズ・ディーン出世作エデンの東」の名監督エリア・カザンが、司法取引で友人の映画関係者を共産主義者と証言するなど、ハリウッドは内部分裂状態におかれた。

 そのせいもあり、現在もハリウッド関係者には共和党不審が強く、俳優組合など中心にリベラルな民主党支持者が多いという。だが一方で、愛国的でアメリカ精神を高揚させるような映画製作も多く、共和党支持者もそれなりに存在する。演技派、有色人種や女優に民主党支持者が多く、アクション大作のビッグネームには共和党支持者が多いとされる。トム・ハンクスレオナルド・ディカプリオショーン・ペンに対して、アーノルド・シュワルツェネッガークリント・イーストウッドブルース・ウィリスシルベスター・スタローンなど並べてみると、けっこう笑えたりする(笑)
 

〇この年の出来事

*5.28/仏 ストラビンスキーのバレエ組曲春の祭典』、パリ初演は不満と嘲笑につつまれる。

*7.1/日 宝塚新温泉の余興に女子唱歌隊が誕生。「清く、正しく、美しく」をモットーに、「宝塚歌劇団」の前身となる。

*9.7/欧州 独・墺・伊「三国同盟」を強化! 英・仏・露の「三国協商」に対抗。

*10.11/台湾 日本統治下の台湾で「独立蜂起計画」発覚。指導者ら20人、死刑に。

*11.16/仏 無意志的回想『失われた時を求めて』、プルースト自費出版