【人体のメタモルフォーシス04「異形の人」】

 

 「首なしライダー」の話題でふれたように、奇形をあつかった噂は一般に差別や排除とむすびつきやすい傾向がある。ある種の「徴つき」の人々を、「異人」として外部に排除する性向である。あるいは自分達の側の内部がはらむ異常性への不安も、奇形への恐怖の一因として考えられよう。もし自分の近親者に異常があったら、といった不安のようなものであろうか。

 最近やっとのことで、ハンセン氏病患者への隔離政策が方向転換されたもようである。伝染性も致死率もきわめて低いこの病気に、長年にわたって隔離政策が続けられてきたのは異様ともいえる。政策関係者の対応の遅れもさることながら、やはりその背景には病状から妄想される一般民衆の偏見が大きく作用していたであろう。大衆の共同幻想は、みてくれの異様なものをどこまでも遠ざけておきたがる。そしてそれは、自らの内部にはらむ醜悪さへ目をむけないためのある種の儀式的効果をももつ。

 噂における身体異常の滑稽化も、そのような意識の一端を担っていると考えられる。
 

『漬物石の太郎ちゃん』
《 東京の城南地区で10〜15年前に囁かれていた噂です。
「あるところに太郎ちゃんという子供が居た。生まれつき両手両足がないその子はしかし、明るい良い子に育って行った。中学を卒業した太郎ちゃんは、両親に働きたいと言った。両親は困った」

「話をどこからか伝え聴いた近所の八百屋の親父が、『私に任せなさい』と言ってきた。以来、朝になると八百屋の親父がリヤカーで迎えに来て、夕方に送り届けてくれるようになった」

「両親は、太郎ちゃんに『辛くないか?』『大変じゃないか?』と訊くと、太郎ちゃんはにこにこして『心配いらないよ』と答え、楽しそうな様子だ。」

「あるとき、母親が八百屋に様子を見に行った。店に近付くと、『いらっしゃい!いらっしゃい!今日は大根が安いよー!』とか『それは200円です!毎度ありー』とかの、太郎ちゃんの元気な声が聞こえる」

「母親は店先まで来たが、太郎ちゃんの姿が見えない。と『あ!お母さん!ここだよ』と太郎ちゃんの声がする。声のする方を見ると...」
「太郎ちゃんは樽の中で漬物石代わりをしていましたとさ」》
 

 この噂では、話の荒唐無稽さと「太郎ちゃん」の精神の健全さがすくいになっている。逆の見方をすれば、太郎ちゃんの精神の健全とその肉体の異常さの間にあるギャップが滑稽さをつむぎだしているともいえる。そして、この滑稽さは聞き手の心に負担をあたえない。両親も八百屋の親父もどこまでも善意の人であり、当の太郎ちゃんの心も健全そのものである。太郎ちゃんは肉体と精神のギャップがどこにもない「かのように」振る舞うのであり、滑稽さもそのような健全さに吸収されていく。

 しかし、太郎ちゃんの意識に焦点をあててみればすぐに判るように、そんなことは現実にはありようもない。太郎ちゃんの内面から描き出してみれば、即座にカフカの『変身』のように「肉体から排除された精神」といった実存問題がふき出してくる。肉体から排除されないためには、太郎ちゃんの精神はその手足のない肉体と同じように、のっぺらぼうな健全さをよそおうしかないのである。

 肉体と精神の問題にあまり深入りするわけにはいかないが、まったく逆の設定をして考えてみることもできる。健常な肉体に異常な精神が宿っている場合である。日常の通勤電車の中ですれ違っているなんでもない肉体の間に、とんでもない精神が入りまじっているかもしれない。こうなれば狂気の取扱いをめぐる、きわめて現代的な問題となってくるであろう。そしてそれは、われわれ個人の内面にひそむ問題でもある。
 

 つぎは、完全には滑稽化されえない話。

『奇形のお相手』
《 今は、男の子と言えども、身体を売ることができるわけですが、その話は異色でした。精神薄弱で、外見上も奇形である女の子がいて、親がこのまま女の喜びも知らずに死んでいくなんて、かわいそうだからと、極秘の内にだれかセックスの相手をしてやってくれないかと、人探しをしているのだというのです。金額は一回40万。

 しかし、そのあまりのショッキングな様相に、以前30万で相手をした男は気が狂ってしまったのだそうです。このことは、別ルートから伝え聞いたといい、それがあるから、いまひとつ躊躇しているのだと言っていました。

 40万をとるか、気が変になるくらいスゴイ変な女とがまんしてセックスの相手になるか?、真剣に悩んでいました。40万は大金です。遠方からの友人は、やめた方がいいといい、わたしもそうすすめました。あとあと残りそうじゃないですか。しかし、「気が狂ってもいいから、いまは40万がいい」と言ってた友人ですが、結局相手にはなれなかったようです。》
 

 ここでは当人が精神薄弱という設定になっているため、代わって親の意識が浮上せざるをえない。となると、とたんにグロテスクな様相を示してくる。奇形という肉体のもつグロテスクさが、親の意識を通してまわりを取り巻く人間の精神のグロテスクさに転移してあらわれてくるのである。
 

 差別や排除の滑稽化という共同体のもつタブーに、あえて挑戦するのを売りものにした芸人といえば北野タケシが思いうかぶ。

『タケシの顔は祟り?』
《 最近、北野たけしさんが記者会見を行いましたですよね。
 たけしさんは、テレビでのデビュー当時、「ブスは死ね」「赤信号、皆んなで渡れば怖くない」などと、タブー破りで出てきました。価値観のコンバートになれてない、純粋な日本人? は、本気で怒ったものです。
 記者会見で半面麻痺の顔に、「とうとう祟りが起こったんだわ」という反応が、出ていまして、ニュースキャスターさえそんなコメントを出す人がいたとか。》

 

 タブー破りで喝采をうける一方で、それに対するやっかみも多かったであろう。事故で麻痺した異様な顔面をブラウン管に曝すことも、TV業界というせまい共同体のなかではそれなりのタブーであったはずである。となれば、そのままの顔を曝すことで彼なりの一貫性をたもったとはいえる。

 タブーといえば、共同体を構成し維持するための中心的な装置である。それを犯す者はかつては端的に排除され、それによって共同体の輪郭は明瞭に示されていた。現代社会では、タケシのようなタブー破りでさえ芸として売りものに回収されてしまう。このようななんでも呑み込んでしまう輪郭の見えない現代社会こそ、われわれのもっとも身近にある「魔物」と言えようか。
 

 あと二つ、差し障りのない話。

『二分の一の人々』
《 北九州市の八幡に河内貯水池という所があり、そのほとりに普通の半分の大きさの家があり、中には、普通の半分の大きさの人がだんらんしている所が、しばしば目撃されるということである。》
 


『お相撲さんの食欲』
《 そういや11日の夜に駅前の某コンビニにちょんまげのおデブさんが二人ほどタクシーで乗り付けてました。付き人の買い出しだったんでしょうねぇ。市内の某スーパーで食品を200万円分買っていったという噂も聞いてますけど。》
 

 「二分の一の人々」も「お相撲さん」も、それぞれ独自の世界を営んでいる。日常世界での交流が少なければ、差別も排除もいらず平和に共存できるということであろうか。ひっそりと暮らしている「二分の一の人々」の生活には、肥大しすぎた現代人の郷愁が投影されているのかもしれない。
 

*『現代伝説考(全)』はこちらから読めます
http://www.eonet.ne.jp/~log-inn/txt_den/densetu1.htm