深泥池(みぞろがいけ)伝説

みぞろがいけ

『深泥池のタクシー女性客』
《深泥池(みどろがいけ)の消えるタクシーの女性客
深夜、京都市北部の深泥池の先を指定する女性客が、深泥池付近を通りかかると消てしまいシートが濡れている、という話。 類似の話は、各地にありますね。》

 「深泥池伝説」は、まず典型的な「タクシー伝説」として投稿にあらわれた。そしてそれに現代の舞台背景と今日的な解釈をしめす投稿がつづく。

『深泥池のタクシー女性客』
《「深泥が池」は、名前からしておどろおどろしいですね。古代からの植生群などが残っていて、底無し沼のような不気味な雰囲気が漂っています。あそこに生えているジュンサイ(字が判らないが「純妻」ではない(^^;>純さん)は、トコロテンのような透明でヌメヌメしたものが茎のまわりに付いていて、味噌汁のミにするとオツな舌ざわりがなんともいえません。この水草を採りに池に入って、「泥」に引き込まれてしまった人が多いとも聞いています。夏の夜など、その「ヒトダマ」が植生群の間を漂うそうです。(蛍の見間違い、という説もあり)

 池の縁に沿った坂道を、北部の岩倉方面に向けて登っていくと、ひっそり閑とした病院があります。かつては結核療養患者の専用病院だったと思います。この病院で亡くなった人の亡霊が、深泥が池に「出る」という話しも聞いた事があります。「タクシーの女性客」は、病院が懐かしくて帰って来られるのかもしれませんね。シートが濡れているのは、もちろん「おもらし」ではなくて(^^;、池の水のせいでしょうね。》

 幽霊ということから、いまでも不気味な雰囲気をただよわせる深泥池とその付近にある結核病院が結びつけられる。この付近の地理を知っている人々にとっては、さしあたって妥当な結びつきであろうとおもわれる。

 《中 略》

 「形をとりきれない生命」ということに注目したい。「消える女性客」は、なにか「形」をとりきれなかった怨念から現れるのであろうか。

 さてここで、さらに「深泥池の古伝説」が登場する。

『深泥池の古伝説』
《中世から江戸期に盛んだった説教浄瑠璃に「をぐり」というのがあります。小栗判官の物語でその一部を紹介しますと、
 小栗殿は、つひに定まる御台所のござなければ、・・・鞍馬へ参り、定まる妻を申さばやと思ひ、二条の御所を立ち出でて、市原野辺の辺りにて、漢竹の横笛を取り出だし、・・・・半時がほどぞ遊ばしける。深泥池の大蛇は、この笛の音を聞き申し、・・・・十六・七の美人の姫と身を変じ、・・・・
と、深泥池には、昔からこういう類が住んでおったということです。

なお、深泥池は天狗でお馴染みの鞍馬への途中であるだけでなく、現在も丑の刻参りに訪れる人がいる貴船神社、憑き物を落とすことで知られる岩倉観音の道でもあります。ちなみに、岩倉観音の周囲には、憑き物を落とす人を止めたり、あずかる所が立ち並び、後に近代医学の導入にともない、それらの宿は病院に商売変えしたということです。
 深泥池はそういう所です。》

 「現代の深泥池伝説」を語りあう人々には、かならずしもこの古伝説が意識されているわけではないだろう。しかし民衆の意識の底にある古伝説が、現代深泥池伝説と重なりあって噂の重層的な立体感をかもしだしていると考えることはできる。

 「深泥池の大蛇」は何を意味するのであろうか。深泥池は、かつての都の東北部に位置し洛外にあたる。かつて都から排除された一族の、なれのはてなのかもしれない。いずれにしても、「形をとりきれない生命」であることはまちがいないであろう。

 引用の後半にあるように深泥池の後背部には、都から排除されたものどものまさに魔界の巣窟といってよいような空間がひかえている。すぐ奥の岩倉には戦前から精神病院があり、京都の住民にはよく知られている。すぐそばの結核病棟よりも、さらにいっそう排除された人々が押し込められたことであろう。

 ここでまた現代の「肉体と精神」の主題が回帰してくる。「形をとりきれない生命」は、かつて「肺病やみ」とされ遠ざけられた肉体や、「気ちがい」として排除された精神であった。しかし現代ではもはや「排除」という手法はかぎりなく無効化されつつある。エイズや癌はいわばわれわれの細胞そのものの病いであり、排除するならば原理的にはわが身そのものをも排除しなければならない。精神の病いにおいても、正常なはずのわれわれの精神との境界はほとんど取り払われつつある。

 M・フーコ流にいえば、近代理性は「狂気」を排除することにより、はじめて明瞭な形をとり得た。「明瞭な形」をとるためには、排除が不可欠であったのである。そしてその手の内が暴かれつつある現代では、安直な排除の手法は使えない。さらには上述したように、現代人にとって排除は原理的に不可能な手段であることもあきらかになりつつある。

 となれば、われわれ現代人は「形をとりきれない生命」として大都会をさまようほかないのであろうか。小栗判官の笛の音にさまよいでる深泥池の大蛇は、われわれ自身のうつし身かもしれないのである。


『現代伝説考』本稿>http://www.eonet.ne.jp/~log-inn/txt_den/densetu1.htm