【三島由紀夫と男と女・右脳と左脳】

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三島由紀夫と男と女・右脳と左脳】
 

 いま手元に三島由紀夫著「文章読本」というのがある。粗末な紙の印刷で、古本屋の店頭ならべてあったのを50円で買ったものだ。奥付には、昭和34年1月号「婦人公論」の別冊付録となっている。「不道徳教育講座」というエッセイも同様に手元にあったのだが、遊びに来た知人が持って行ってそのままになった。これも同時期に、雑誌「週刊明星」に連載されたものらしい。つまり、ともに主として女性読者を対象に書かれたものだといえる。

 三島の小説作品はあまり評価していないし、その政治・文化思想や肉体改造などの行為も、ほとんどついていけない。つまり私は、熱心な三島支持者では決してないのだが、彼の評論やエッセーの類は、理性的に抑制されており、的確な指摘が多いと思われる。

 「男と女の一等厄介なちがいは、男にとっては精神と肉体がはっきり区別して意識されているのに、女にとっては精神と肉体がどこまで行ってもまざり合っていることである。女性の最も高い精神も、最も低い精神も、いずれ肉体と不即不離の関係に立つ点で、男の精神とはっきりちがっている」-「不道徳教育講座」より-

 たとえばこの一節、これなどは内容的に見れば極めて妥当なもので、それをゲイだのバイだの肉体の虚弱だのと、三島由紀夫のパーソンルなセクシャリティと結びつける点は一切見られない。

 ここに書かれていることは、現在科学が解明する男女の脳の構造からも補完的に説明できる。男では右脳と左脳が明瞭に分化されているのに対して、女の脳は左右の脳をつなぐ橋梁部分が太く短く、その間の交流が即時的に行われるらしい。

 つまり、男は分析的か感性的か、いずれかに特化しないと処理できないのに対し、女は、同時に複数の処理を並行して行えるということらしい。デジタル処理で言えば、パラレルかシリアルかということだが、早い話が、どちらにもそれぞれの利点がある。

 三島が作品を書くときには、左右の脳を総動員するのだろうし、そのベースになるのは肉体と感性ということだろう。つまりは右脳が支配的になる。しかしエッセイなどでは、極めて分析的に徹して書いていると思われる。つまり三島にとって脳を総動員する必要がないわけで、ある意味、これを使い分けられるのは男の特性と言えるかも知れぬ。そして我々は、二人の三島由紀夫で、好きな側面だけを選択しても良いわけだ(笑)