【マインドフルネス】
【マインドフルネス】
「マインドフルネス」という言葉が、ぽつぽつと散見されるようになった。グーグルなどの先端企業が、社員のストレス解消やリラクゼーションに推奨するなどから評判を呼び、日本でもビジネス書籍などから紹介されるようになっている。
ただし「マインドフルネス」は、本来はビジネス方面だけを目的としたものではなく、むしろ日常生活に瞑想法や呼吸術を採り入れ、生活そのものを捉えなおす思考法であり、ストレスや悩みから解放される生活術でもある。
こう書くと、ある種の宗教性を感じるだろうし、マインドコントロールというカルトが使う手法を連想する人もいるかもしれない。実際、「マインドフルネス」は仏教、中でも禅仏教がベースになっているとされる。
そこから、呼吸法・瞑想法などの手法と、あるがままの自身を受容れるという考え方を受けつぎ、一方で、教団や経典などの宗教性を徹底的に取り去って、科学的なデータ検証でその成果を確認されつつあるものである。
下記リンクは、「マインドフルネス」でアマゾン検索した結果であって、私自身はどれも読んでいないし、どれか特定のものを推奨するわけでもない。実際「マインドフルネス」を実践したこともないのであるが、これまでに私自身が考えて来た思考法、生き方にピッタリのものだったので興味をもったわけである。そのあたりは、長くなるので次項で書いてみたい。
https://www.amazon.co.jp/s/?ie=UTF8&keywords=%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%95%E3%83%AB%E3%83%8D%E3%82%B9&tag=googhydr-22&index=aps&jp-ad-ap=0&hvadid=82201571927&hvpos=1o1&hvnetw=g&hvrand=2118023228705521813&hvpone=&hvptwo=&hvqmt=e&hvdev=c&hvdvcmdl=&hvlocint=&hvlocphy=9053298&hvtargid=kwd-2061642182&ref=pd_sl_4u0gmgbw0m_e
高校三年生になるころ鬱状態におちいり、家に引きこもったことがある。その時には物理療法などで回復したのだが、さらに大学生になってから再度、鬱病になった。通院治療を受けながらも、自身でもなんとかしようと書籍をあさったりした。そこで出会ったのが、森田正馬博士著『神経衰弱及強迫観念の根治法』(1958年刊)という書籍で、なんと旧漢字で印刷されている。
その書籍で「森田療法」なるものの存在を知る。その考え方を一言で示せば「自身のあるがままを認めよ」ということであった。そしてその思考法は、森田博士の参禅体験からえられたものであったという。そこから私は、禅宗に関心を持ち、座禅会に参加するなど禅修行の真似事などもするようになった。
当時は「鬱病」の明確な規定もなく、単に「神経衰弱」とか呼ばれていた。この本も鬱病そのものを対象にしたものではなかったが、不安神経症なども併発していたので、「あるがまま」の発想は大いに参考になった。そしてその思考こそ、仏教ないしは禅仏教の本質を為す考え方でもあった。
小さいころから自意識過剰に悩まされた。みんなに好かれたくて他人に合わせようとするのだが、心の内ではエゴがうごめいて、それは当然相手にも分かる。いまから思うと、自己中心のうざい奴と思われていたに違いない。仏教では、そのように表層でただよう狭い自意識を「小我(しょうが)」と呼ぶ。
一方で、仏教では人間の底にある本質には、みんなと繋がり合っている素晴らしい自分自身があるとする。それを「大我(たいが)」と呼ぶが、通常は小我に被われて現れて来ない。それがエゴとエゴのぶつかり合いの世界で、それぞれがストレスや悩みに取りつかれている世界でもある。
そのような小我を取り去り、大我を出現させるために、禅宗では禅修行という伝統手法が用意されている。そして修業を積み、阿闍梨などと呼ばれ「悟り」を開いた人とされる。それを「仏」と呼ぶのであり、死んであれこれ悩まなくなった死人を「ほとけさん」と呼ぶのも、ここに一理はあるわけだ。
しかし、そんな大層な修行生活を凡人が送るわけにも行かない。そのように神格化された「さとり」などに、今はこだわる必要はない。つまるところ、一つのことにこだわり、意識が一カ所に拘泥して硬直化することから、すべての問題が生じているのである。
鴨長明「方丈記」の有名な冒頭に「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」とあるように、意識の中を様々な現象が移ろいすぎてゆくが、意識そのものは厳然として流れている、そのような状態が自在自我とでも言うもので、自由奔放に振る舞いながら世間を楽しむことができる。それが「さとり」だと考えれば良いのではないか。
そこで私は仏教思想から離れた。漱石の「自分本位」を読み、ニーチェの「力への意志」を齧ったりした。それまで、自分自身を排除しようとしていたのだが、逆に、自分自身を前面に出すことを考えるようになった。自我を取り去るのではなくて、自我をより強固にしてステップアップするのだ。
そうやって、私は徐々にではあるが、自分の言いたいことを言い、自分勝手に振る舞うようになった。最初のうちは、世間から排除されるのかと恐れたが、やってみると何のことはない、かえって世間に受け入れられるようになった。一つの事にこだわりそれに固執し続けるのではなく、その時その時次つぎと関心は移り変わってゆく。子供がオモチャをとり合うように、気まぐれな張り合いはコロコロ変わってゆく。それはいわば、子犬がじゃれ合ってるようなものだ。
つまるところ、「小我」を取り去って「大我」に至るのではなく、「小我」を気ままに放置して自在に流れさせることによって、一つの事にこだわり続けない自在な流れが現れる。それが、「大我」であったというわけだ。森田博士の言う「あるがままを認めよ」というのは、そういうことであったのかと気が付いた。そのようなことに気が付きだしてからは、これということが無くても、好き勝手に振る舞いながら、歳を経るにしたがって日常が楽しくって仕方がない。
そういう状況になってから、「マインドフルネス」という言葉と出会った。したがって、マインドフルネスを実行しているという意識は全くない。だが長年、我流でやってきたことが、まさに合理的科学的に実践する方法がそこにあったということである。
マインドフルネスと出会ったのは、二十年以上前のネットでの知人、長岡真意子氏からであった。ひょんなことから二十年ぶりに、彼女のネットでの活動を知った。彼女は現在、チリ人の夫と5人の子供とともにアメリカで生活しているという。そして5人の子育てをしながら、子育て論を展開している。出産や子育ての過程で、さまざまな困難にぶち当り、そこで「マインドフルネス」と出会って切り抜け、その実践を子育てにも生かしているということである。
*「ユア子育てスタジオ」>http://kosodatekyua.com/profile/
数年前に「ユア・スタジオ」のコメント欄での彼女との応答は、私のブログに転載してある。お互いの体験に即したマインドフルネス理解は、このブログを読んでもらうのがよいと思われる。
*ブログ「なにさま日記」>http://d.hatena.ne.jp/naniuji/20151113