『Get Back! 70’s / 1970年(s45)』

shisyu

『Get Back! 70’s / 1970年(s45)』
#そのころの自分# 講義が始まってしばらく自宅から通学していたが、69年末から神戸市東灘区で下宿を始めた。一学期分ほとんど単位を取らなかったのに、紛争中に封鎖学生が暖を取るために学籍簿を燃やしてくれたおかげで、レポートだけで単位取得が間に合ってしまった。結果留年せずに三年生になり、経済学部の専門課程に上ったが、もはや経済学に興味を失っていて、京都の友人らと文学にふけり、自作で詩集のごときものを作ったりしていた。
 
○3月「女性誌『アンアン』創刊」
 残念ながら女性向けファッション誌ということで、名前は聞いていたが中身は見たことがない。調べてみれば、旧平凡出版といいうことで、『平凡パンチ』女性版としてのパイロット版が出発だとか。そして、フランスのファッション誌『ELLE』の日本語版『アンアン エルジャポン』として創刊された。命名主はあの黒柳徹子、まだ日本にパンダがいないころからのパンダマニアで、ロシア・モスクワ動物園のパンダから採ったとか。

 やがて、永遠のライバル集英社が『non-no』を創刊、ファッションを中心とした若い女性の総合情報誌として競い合い、「アンノン族」という言葉が登場した。ノンノを、アンアンにつられてノンノンだと思い込んでたのは私だけか?(笑) ちなみにノンノは、アイヌ語の「花」から来たというのも、今はじめて知った。

 
○3月「『進歩と調和』めざし 万国博オープン」
 1970年3月から半年にわたって開催された大阪万国博は、「人類の進歩と調和」をテーマに掲げ、77ヵ国が参加して繰りひろげられた。戦後高度成長の到達点として、世界第二の経済大国になった日本を世界に披露する輝かしい博覧会であった。

 神戸に下宿していたので、両親をつれて一度だけ観に行った。アメリカ、ソ連、日本館などは長蛇の列で、ほかのマイナーな国や企業館だけを見学した。全般に、ブラウン管テレビをはめ込んだマルチスクリーンの映像だけが目立った。いまだパソコンは登場しておらず、エレクトロニクスといってもテレビ映像技術が中心だったようだ。

 ある意味で技術の頭打ち感のあった時期で、大阪万博でその後に残された技術はあまり思い当たらない。せいぜいが、タカラ・ビューティリオンで黒川紀章の提唱したユニット・ルームぐらいかな、はい、いまのカプセルホテルに生かされております(笑) そして記憶に残されたのは、世界的芸術家 岡本太郎の「太陽の塔」と国民的歌手 三波春男歌う、大阪万博テーマソング「世界の国からこんにちは」だった。
*「世界の国からこんにちは」>https://www.youtube.com/watch?v=5f1ekoSYGnI

 
○3月「日航機『よど号』乗取り 羽田→福岡→韓国→平壌
 赤軍派では、国内決起のために軍事訓練していたグループが「大菩薩峠事件」で多くが逮捕され、その後「山岳ベース事件」から「浅間山荘事件」へと追い詰められてゆく。

 一方で、海外のベースを確保すべきという「国際根拠地論」に基づいた田宮高麿らのグループは、日航機「よど号ハイジャック事件」をひき起こし、北朝鮮への亡命を試みる。

 行き先は二転三転したが、結局は平壌に行き着き、よど号や人質なども無事に帰還、田宮以下9名は北朝鮮に亡命を受け容れられる。しかしこの事件は綿密に計画されたものではなく、北側との事前の交渉もなくすすめられたものであり、北朝鮮において本来の活動もできず、軟禁状態にされた。

 単に亡命するのなら通常の方法もあったわけで、結局彼らは北朝鮮にも厄介者扱いされ、北の謀略に協力する以外に何もできなかった。羽田を飛び立つとき勇ましく残したメッセージ「われわれは明日のジョーである」ことは適わず、ただの「おそ松くん」でしかなかったわけである。

 
○5月「プロ野球の黒い霧 与田・益田・池永は永久追放」
 プロ野球黒い霧事件といえば、前年からこの年にかけて次々と明らかになった、現役プロ野球選手たちの八百長事件をさす。事件の経緯は、多数の選手が関わっており複雑に込み入っているが、結果的に西鉄ライオンズを中心に、6名の選手が永久追放、その他事実上の追放や引退に追込まれた選手も含めると、20名近くが処分を受けている。

 中でも中心選手が多く関わった「西鉄ライオンズ」では、戦力の低下が致命的で、その後、球団の売却にまで追込まれる。太平洋ライオンズ、クラウンライター ライオンズとオーナー会社が代り、最終的には西武ライオンズとして、フランチャイズも福岡から埼玉所沢に移転することになった。

 当時、新人であった東尾修は、野手転向を申出るほど投手としての自信を失っていたが、無条件で一軍でフル回転の登板を強いられた。結果、球団が転々とする不遇時代を通じて、エースとして200勝投手にまで成長した。

 '79年西武ライオンズとして埼玉に移転してからは、'88年に福岡ダイエー・ホークス(現ソフトバンク)として移転して来るまで、福岡から球団が消滅した。

 中西・豊田・稲尾など豪傑選手を擁したかつての強い西鉄ライオンズを惜しみ、「甦れ! 俺の西鉄ライオンズ」という歌までヒットした。これは球団歌や応援歌ではなく、かつての西鉄の復活を願うファンたちのためにレコーディングされた曲であった。>https://www.youtube.com/watch?v=FoBjRP-Qmlw

 
○8月「スモン病キノホルム起因説 椿教授発表」
 日本の薬害事件では、サリドマイド禍が有名だが、このキノホルムによる薬害スモンも重大な問題をひき起こした。スモンは、激しい腹痛、下肢の痺れ、脱力、歩行困難など神経性の症状が現れ、キノホルムが整腸剤として広く使用されるようになった60年代後半に多発した。

 その病理的な因果関係は解明されていないこと、日本以外では継続使用されていても発症が確認されないことなどで、現在でも使用継続されている国もある。しかし、日本では使用時期とスモン発症例が対応していることから、使用禁止とされている。

 
○9月「六十六歳の”脚線美”来日 マレーネ・ディートリッヒ
 マレーネ・ディートリッヒというと、映画なら『モロッコ』、歌は『リリー・マルレーン』とあまりにもベタな記憶しかないが、いかにも世紀末を思わせる頽廃的な女優だった。しかし生まれたのは世紀末でなく20世紀になってからで、第二次大戦を挟んでドイツとアメリカ両国で活躍する。ヒットラーに気に入られながらもアメリカに亡命、映画『モロッコ』でハリウッドデビュー、のちに歌手としても活躍した。

 ドイツ出身だけに、亡命後は積極的にヨーロッパ戦線の米軍を慰問した。慰問中に戦場の兵士が口ずさむ「リリー・マルレーン」を聴き、持ち歌として大ヒットさせた。本来ドイツの曲だったものを連合国軍兵士が歌うようになった経緯は、リリー・マルレーンという曲のたどった数奇な運命として以前に書いたことがあり、詳細はリンク先にまかせる。>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%B3

*"MOROCCO" TRAILER>https://www.youtube.com/watch?v=AgGFytQHYso
*Marlene Dietrich "Lily Marlene">https://www.youtube.com/watch?v=HsO2-LMzvLk

 
○11月「三島由紀夫、割腹自殺 自衛隊員に演説のあと」
 三島由紀夫が、自衛隊市ヶ谷駐屯地バルコニーで演説したあと自刃したことを知り、11月25日付けで雑記帳に、この事件への感想が簡単に記してあった。

 文学にはまり込んでいた時期だが、三島作品には距離を置いた読者だったと思う。派手な政治的演出にもかかわらず、芥川・太宰の自殺とも並べて「文学的な自殺」としてのみ捉えていた。

 それにしても思想と行動の問題として、大きな主題を受け取ったことはたしかであった。三島が東大全共闘の集会に飛び込んで、思想的にはまったく両極に属する両者にもかかわらず、ある種の共感を保持し得たのも、このあたりの主題に関係しているのであろう。

 
○12月「70年は『公害元年』」
 「イタイイタイ病水俣病四日市ぜんそく」が三大公害病と言われるが、この頃、全国的にも空気・水質・土壌汚染はピークに達していた。京都神戸間を電車通学していた時には、高槻周辺と尼崎周辺を通過するときに二度、甘ったるい刺激臭のする空気が車内に漂ってきたのを憶えている。

 自然環境保全法や公害対策基本法で対応してきたが、1993年 環境基本法の成立によって、やっと総合的な環境保全の対策が講じられるようになった。いまや間違いなく日本は「環境先進国」と言える。

 
○1970年(s45) TV人気番組
「どっきりカメラ」(NTV)
あしたのジョー」(フジ)
アタックNo.1」(フジ)
ムーミン」(フジ)
おくさまは18歳」(TBS)
「クイズ・グランプリ」(フジ)
「時間ですよ」(TBS)