「印象批評」ということ

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【「印象批評」ということ】 2012/05/30 twitter連投より

 
 この吉田秀和氏への追悼文を読んで、「印象批評」という言葉を懐かしく思い出した。クラシック音楽を聴いて、「文学的すぎる」と言うだけでいっぱしの音楽通気取りになれたのも、氏の裏の功績なのかも

*『昭和的「クラシック音楽の教養」を埋葬する』 冷泉彰彦
http://www.newsweekjapan.jp/reizei/2012/05/post-438.php

 いずれにせよ、音楽や絵画がさっぱり分からない門外漢の私どもにとっては、吉田氏のような「文学的印象批評」が、ある種の取っ掛かりを提供してくれたとは言えるであろう。昭和は遠くなりにけり。


 そういえば、このところ観た映画の「備忘録」を記すことにしてるが、つくづく「文学的印象」でしか観ていないのを痛感する。ま、これでいのだ!(バカボンパパ笑)

 なるほど、印象批評の親玉は小林秀雄だったか。冷泉彰彦の記事と併せて、次の論考も合わせて読むと面白い。

*「戦後日本の音楽批評についての一断章」
http://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/download.php/AA11893297-00000012-04211316.pdf?file_id=12473

 そして吉田秀和は、むしろその「小林的なるもの」からの離脱を目指したとか。ま、音楽にしろ絵画にしろ、それを文章でもって批評する限り、所詮「文学」であることは免れない。そうでないとするならば、音楽理論なり絵画理論といった純粋理論であるよりしかたがないが、そんなものを一般人は読むことはない。


 印象批評的なるものは、素人の入門編として最適な要素を備えているが、一方逆に、入門しただけで深入りさせないという負の効果も持つ。何となく分かった気になってそのまま卒業してしまうか、教養趣味人として分かったような薀蓄を垂れるのか。いずれにせよ冷泉氏も指摘するように斯界に寄与することは稀だろう。

 こう考えると、巷に散見する入門書なるものも、ことごとくこの相背反する要素を備えている。さらさらと読めて、分かったような気になって。入門のドアを開けて入ったと思ったら、そこは裏木戸の出口だった、といった変則どこでもドアみたいなもんですか(笑)

 かくいう私も、哲学入門なる新書本を何冊買ったことか(笑) その中の一冊に、廣松渉著『哲学入門一歩前』という秀逸な表題のものがあった。筆者前書きによると、入門の一歩手前という意味と、門をくぐってから、さらに一歩進め!という意味を掛けているとか。さすがに「モノからコトへ」という哲学者だけあると感心した。

 ダイエット本なども、入門だけさせて卒業までは面倒みないという点で、入門書と似たようなもんだ。ただこちらは、次々と新手を繰り出して、永遠に繁栄する仕組みを持っているようだ。しかしダイエット中毒きみな皆様、無理なダイエットに取り組むよりは、美しく太る努力を為されよ!(笑)