【「悲しみよこんにちは」とよもやま話】

【「悲しみよこんにちは」とよもやま話】
 


 NHK BSプレミアムで「悲しみよこんにちは」をやっているのを観た。フランソワーズ・サガンの原作も昔よんだが(もちろん朝吹登水子訳でw)、映画は1958年英米合作で、セリフは英語。モノクローム・ベースで、回想シーンだけがカラー。

 新人ジーン・セバーグがヒロインのセシルに抜擢され、18歳の少女の潔癖さと残酷さを演じきっている。上映当時「セシル・カット」と呼ばれたショートカットヘアーが流行った。

 デボラ・カー、デヴィッド・ニーヴンミレーヌ・ドモンジョという名優陣が脇をかため、よくできた映画になっている。

 さらに劇中では、戦後パリ、サン・ジェルマンに集うサルトル実存主義者たちに、「実存主義者たちの歌姫」と呼ばれたジュリエット・グレコがテーマを歌う。
https://www.youtube.com/watch?v=kjNkrlLiJQg

 これらの名前を並べるだけで、戦後欧州思想界を彷彿させる懐かしい世界が再現前されるようだ。
 

 18歳の「ジーン・セバーグ」は、1957年『悲しみよこんにちは』で、ヒロインのセシルに抜擢され一躍有名になり、彼女のヘアスタイルは「セシルカット」として大流行した。さらには、1959年、ジャン=リュック・ゴダールの初監督作品『勝手にしやがれ』に主演、ヌーヴェルヴァーグの寵児となる。しかし、その後はヒット作には恵まれなかった。

 その後アメリカで、公民権運動や反戦運動に傾倒し、ブラック・パンサーなどと関りFBIからマークされ、父親不明の子を孕んで流産するなど、かなり厄介な生活状態になっていたようだ。セバーグは精神面でバランスを崩し始め、ドラッグ、アルコール中毒うつ病にはまり込み、パリ郊外の車の中で自殺遺体となって発見された。享年40。
 


 「フランソワーズ・サガン」は、18歳で出版された『悲しみよ こんにちは』で文壇に登場し、以後、プチブル階級の男女の複雑関係を描き続けた。若年での成功で、パリ、サン=ジェルマン=デ=プレで文学者ら名士らと交遊したが、当然悪い取り巻きも集まり、ドラッグ・アルコール・ギャンブル、バイセクなどゴシップクイーンとしても名を馳せた。晩年は経済破綻と薬物中毒に悩まされつつ、69歳で死去。

 「わたしが大嫌いなものはお金で買うことのできるものではなく、お金によって作られる人間関係やお金が大部分のフランス人に課している生活態度なのです」――プチブルに生まれ、プチブルから一歩も出ようとせず、プチブルの裏表世界を知り尽くした彼女の言葉であった。


 「悲しみよこんにちは」を読んで18歳の少女の才能に驚いた私は、さらに『ブラームスはお好き』を読んだ。新潮文庫版のカバーは、当時ブームだったベルナール・ビュフェリトグラフがデザインされていた。「ブラームスはお好き」は、イヴ・モンタンイングリッド・バーグマン主演で『さよならをもう一度』(1961)として映画化されたようだ。
http://blog.goo.ne.jp/wangchai/e/7d3e55ca4f4b9fca99497a57a235f268
 

 「ベルナール・ビュフェ」は、パリで権威のある新人賞・批評家賞を受賞、若くして天才画家として有名になった。鋭く直截的な輪郭線、原色に近い明瞭な色彩で、無機質で機能的な都会生活での不安や苛立ちを表象した。日本でもバブル期、大企業のオフィスに最適な絵画として、リトグラフ作品がよく掲げられていた。

 ビュフェは、あまりにも早い時期に名声を得すぎたため、さらに、その素人にも分かりやすい画風のせいで、後年の作品ではマンネリ化が指摘され、飽きられていった。孤独にさいなまれる中で、パーキンソン病をも患い、71歳で自らの命を絶つ。


 私自身、友人の額装業を少し手伝ったときに、ビュフェの「アイリスと百合」を額装したものをもらった。サインとエディションNo.のあるリトグラフではなく、たぶん印刷の複製ものだったと思うが、いつの間にやらどこかへ消えてしまった(笑)
 

 若くして世に出た才能たちも、パリで生き抜くのは大変なのだと知った。