秋刀魚の歌 佐藤春夫

sanma

 久々に秋刀魚が豊漁だというニュースが入ってきた。そこで思い起こす詩といへば・・・
 

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http://www.mikumano.info/satoharuo/sanmanouta.html

秋刀魚の歌 佐藤春夫
 

あはれ
秋風よ
情あらば傳へてよ
――男ありて
今日の夕餉に ひとり
さんまを食(くら)ひて
思ひにふける と。
 
さんま、さんま、
そが上に青き蜜柑の酸(す)をしたたらせて
さんまを食ふはその男がふる里のならひなり。
そのならひをあやしみなつかしみて女は
いくたびか青き蜜柑をもぎて夕餉にむかひけむ。
 
あはれ、人に捨てたられんとする人妻と
妻にそむかれたる男と食卓にむかへば、
愛うすき父を持ちし女の兒は
小さき箸をあやつりなやみつつ
父ならぬ男にさんまの腸(はら)をくれむと言ふにあらずや。
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 佐藤春夫の有名な「秋刀魚の歌」の一節だが、これには谷崎潤一郎とその最初の妻千代と、そして谷崎を文学の先輩としてしたう佐藤の、厄介な三角関係が背景にあった。
 


 谷崎潤一郎は既に新進作家としてスタートしていた29歳の時、芸者だった「石川千代」19歳と結婚式する。「悪魔主義」などという大仰な形容をされた新進作家谷崎にとって、妻としては申し分なくても、女としては平凡な娘であった千代は気に入らなかったようで、娘鮎子をもうけるも、夫婦愛をはぐくむことがなかった。

 15歳になる千代の末妹「せい」は、千代と正反対の奔放な娘であって、これを気に入った谷崎は、千代母子を実家に預けてせいと同棲、せいを思い通りの娘に育てようと、葉山三千子として女優デビューさせたりした。谷崎中期の問題作『痴人の愛』のヒロイン・ナオミは、このせいをモデルにしたものとされる。

 

 一方、佐藤春夫は谷崎より六歳年少で、文壇デビューを支援してくれた先輩として、小田原に住む谷崎のもとに足しげく通う間柄であった。そんな中で、谷崎の不当な扱いに悩む千代の相談に乗ったりしているうちに、佐藤の千代への同情が愛に変わっていったとされる。一方で谷崎の方では、せいとの結婚を考えて、それを意図的に仕組んでいたふしもある。

 谷崎は千代と鮎子の面倒を佐藤に押し付け、自身はせいに求婚するも「いやぁよ」の一言で拒絶されると、千代との生活によりを戻すことを選ぶ。裏切られ怒り心頭に達した佐藤は、谷崎に絶交宣言をする(小田原事件)。

 その時期の恋情を、佐藤春夫はいささかセンチメンタルに絶唱する、「さんま、さんま さんま苦いか塩つぱいか・・・」
 

 大正12年関東大震災が起きると、谷崎は京都・神戸といった関西に拠点を移す。やがて、書生として谷崎家に居候していた和田という男と、千代夫人の関係が出来ると、谷崎は千代夫人と和田を一緒にさせようとも考えたが、すでに和解していた佐藤春夫は、若い和田との将来に懸念を抱き、結局和田は立ち去った。この間の経緯は『蓼食ふ蟲』として作品化された。

 そしてやがて世間を驚かせた「細君譲渡事件」が起こる。昭和5年8月、「我等三人はこの度合議をもって、千代は潤一郎と離別致し、春夫と結婚致す事と相成り、 ・・・」

 このような声明文が、谷崎潤一郎、妻千代、佐藤春夫三者連名で関係者に送付された。谷崎45歳、佐藤38歳という成熟期の著名文士間での「細君譲渡事件」として、当時の世間をにぎわせた。
 

 三者満足の結果で他人がとやかく言うことでもないが、事情を知らない世間一般にはとんでもない事だと映ったに違いない。最初の試みから15年、円満離婚に至るまでの谷崎は、対外的には「夫としての立場」を保ち続けたという。