『Get Back! 50’s / 1952年(s27)』

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『Get Back! 50's / 1952年(s27)』

(3-4歳)この頃になると、町内会のリクレーションなどで近郊に連れて行ってもらっている写真が増えた。これは清滝川へのハイキングで、川岸の石に腰掛けて撮られたもので、急に言われたのであわててリンゴの齧っていない部分をカメラに向けているところがわざとらしい(笑)
 

○1.18 [韓国] 韓国政府は海洋宣言を発し、李承晩ライン(マッカーサー・ラインより日本寄りの海域)を設定する。

 李承晩ラインは、サンフランシスコ平和条約の発効によって廃止されることになっていたマッカーサー・ラインの代わりに、独断で公海上に突如設定した排他的経済水域である。この海域内では、韓国籍漁船以外は韓国側によって臨検、拿捕、接収、銃撃を受けるなどした。日本政府は強く抗議したが、締結されたサンフランシスコ平和条約の発効はこの3か月後でまだ主権回復前であり、有効な対抗手段を持ちえなかった。

 占領下のマッカーサー・ラインは、占領政策の便宜上引かれたもので、占領終了とともに取り払われるものであった。占領直後は日本の漁業は沿海だけに制限されていた。占領政策の安定化とともに、その範囲は漸次拡大されて来たもので、日本の主権回復とともに廃止されるものであった。その時期が迫ると、韓国大統領李承晩は、マッカーサー・ラインの継続をアメリカに訴え、それが退けられると一方的に宣言したのが「李承晩ライン」であった。

 李承晩ラインは、1965年朴政権との間に「日韓基本条約」が締結され、関連して「日韓漁業協定」の成立するまで、13年間継続された。その間、韓国による日本人抑留者は3,929人、拿捕された船舶数は328隻、死傷者は44人を数えた。抑留者は劣悪な環境のもとに拘束され、返還されるまで長期間収容所での苦難な生活を強いられた。なお係争となっている竹島は、このときライン内に取り込まれ、日本が対抗手段を持たない間に、韓国に占領され実効支配されることになった。

 当時の領海は12海里(約22km)までで、その接続領域を含めても24海里が国際標準であったが、李承晩ラインは60海里にもおよび、当時の概念ではそのほとんどの海域が「公海」であった。海底資源や漁業などの経済的な権益を定める「排他的経済水域EEZ)」のような概念はなく、当事者国どうしの協定に任されていた。EEZは、1996年の「国連海洋法条約」の成立まで待たなければならなかった。
 
(追補)
 実は李承晩も金日成も、ともに抗日戦争などやっていない。アメリカとソ連の傀儡で、たまたま終戦時に米とソ連に匿われていただけで、ほかに人材が無く、仕方なしにあてがわれた。
 さらに共通するのが、勝手に独裁者となって好き放題にやりだす。弱者が権力を握ると独裁者になるという、典型的な例だ。北では、三代にわたって権力継承に成功したが、李承晩はその能もなく、国民から放逐された。その後、力を伴った朴正煕が本格的な独裁政権を確立し、やっと国の体裁を整えることになる。
 李承晩ラインは、北朝鮮と同様な「海賊国家」の象徴だった(笑)
 

○4.9 [東京] 日航機「もく星号」が伊豆大島三原山に墜落する。

 日本航空301便 名古屋大阪経由福岡行き「もく星号」(マーチン2-0-2機)」は、この日の早朝、羽田空港を離陸直後に、館山を経て伊豆大島上空にさしかかるという連絡のあと、突然交信を絶った。翌朝、伊豆大島三原山の山腹に墜落しているのが確認され、乗客・乗務員37名全員死亡という当時としては大規模な航空事故となった。

 講和条約発効による主権確立はこの4月の末であり、当時の航空管制や事故捜査は実質的に在日アメリカ軍の統制下にあった。また、自主的航空運営が認められていなかったため、航空機の整備と運用はノースウエスト航空に運航を委託しており、機長および副操縦士アメリカ人であった。

 翌朝の残骸発見までほとんど情報が手に入らず、「海上に不時着」、「アメリカ軍機が生存者を発見」、「乗客全員無事」などの誤報が飛び交った。当時の航空機にはフライトレコーダーやボイスレコーダーが未装備であった上、事故捜査は実質的に米占領軍が統制し、米軍側の交信記録テープは提出を拒否されたため、事故原因の追究はあいまいなままに終わった。

 当時の調査結果では、気象や機体については問題はなく、墜落原因としては、アメリカ人パイロットによる操縦ミス説や、当時同区域の管制を行なっていたアメリカ軍の管制ミス説がある。航空管制ミス説によれば、「館山上空を6000フィートで飛行」の通信記録は、航空管制センターが文書で提供した数値だが、当時の管制を同時モニターしていた「東京モニター」によると「館山上空2000フィート」となっている。交信テープのオリジナルは日本政府に提供されず、真相は明らかになっていない。

 この高度では、航路にある標高2474フィート(754メートル)の三原山を超すことはできない。管制センターは離陸前には、米軍機が10機飛行中のため、伊豆大島付近まで高度を2000フィートに維持せよと指示を出したが、機長側から抗議があり6000フィートに訂正したという経緯があった。何らかの手違いから、そのまま2000フィートの高度で飛ぶことになったのではないかと推定される。

 事故当時は朝鮮戦争の最中で、アメリカ人のミスが主因の事故であるとすれば、日本人に反米感情を引き起こすことを嫌って隠蔽するということは大いにあり得た。そんな中で、近現代史の発掘と推理で定評のある推理作家 松本清張は、『1952年日航機撃墜事件』でなんと「アメリカ軍機による撃墜説」を主張している。

 管制センターのあったジョンソン基地(現 入間基地)が隠し続けた、墜落前の機長との秘密の交信記録だとか、事故死した唯一の女性客「烏丸小路万里子(仮名)」は、米軍将校が日銀から盗み出した大量のダイヤを売りさばく秘密組織の一員であって、この女を殺すための陰謀であったなど、あっと驚くような「推理」が為されていて興味深い。しかし推理は推理、あくまでも一つのフィクションとみなすべきであろう。
 

○4.10 NHKラジオが連続ドラマ「君の名は」の放送を開始する。

 『君の名は』は、NHKラジオの連続放送劇として、昭和27年(1952)4月10日-29年(1954)4月8日の間、毎週木曜8時半から9時まで30分間生放送された。菊田一夫脚本、音楽は『六甲颪』も作曲した古関裕而の担当で、番組の冒頭では「忘却とは忘れ去ることなり」というナレーションが流れた。子供心にかすかに聞いた覚えがあるが、後日になって、当たり前のことも言い方次第だなと思った。

 毎週この放送時間帯になると「銭湯が空になる」という噂さえ発生したのは、この放送ドラマの時であるが、これはのちに映画化される松竹の宣伝部が作った虚構だという説もある。そして翌年、松竹によって映画化公開されると、これも大ヒット、第一部・二部ともにこの年度の配給収入上位二位までを独占する。

 ヒロイン 氏家真知子に岸惠子、その相手役 後宮春樹には佐田啓二と、当時大人気の美男美女を配して、「すれ違い」「真知子巻き」などの流行語を生み出した。太平洋戦争末期の東京大空襲の夜、たまたま出会った氏家真知子と後宮春樹は、戦火の中を逃げ惑いながら数寄屋橋にまでたどり着き、名も語り合わないまま半年後この地での再開を約束して別れる。

 その後テレビジョンが普及してからは、4度もテレビドラマ化されている。全国各地ですれ違いを繰り返すストーリーは、まさに連続テレビ放送としては好適であった。なお、岸惠子はフランス映画出演をきっかけに、1957年フランス人映画監督イヴ・シャンピと結婚してパリに移住。一方、中井貴一の父親でもある佐田啓二は、1964年乗っていた自動車の事故で死亡した。
 

○5.1 [東京] 第23回メーデーが開催され、デモ隊と警官隊が乱闘になる。(血のメーデー事件)

 日本が主権を回復した直後の1952年(昭和27年)5月1日、第23回メーデーが全国各地で開催された。「国際労働者の日」とされているメーデーは、戦時中禁止されていたが、占領後のGHQ民主化政策の下で再開され、年々政治色を帯びてきていた。この日の中央メーデーでは、日米安保条約警察予備隊への反対とともに、「人民広場(皇居前広場)」の開放を決議していた。

 デモ隊の解散予定は日比谷公園だったが、一部はその中の全学連と左翼系青年団体員らに先導され、およそ2,500名がスクラムを組んで日比谷公園正門から出て、警備中の警察官による警戒線を突破、使用許可を受けていない皇居前広場へとなだれ込んだ。暴徒と化したデモ隊は、二重橋前付近の警察官に投石したり、所持していた棍棒、竹槍でなどで攻撃した。

 デモ隊はさらに数を増し、警察も予備隊が動員されるなど騒動は膨れ上がり、暴徒化したデモ隊の鎮圧のため催涙弾を使用するも効果なく、劣勢に追い込まれた警察隊は拳銃を発砲し、双方激しい衝突の下で流血の惨事となった。デモ隊側は死者2名(1名は後日に死亡)重軽傷者約200名、警察側は重軽傷者約750名、米軍の負傷者11名に及んだ。

 メーデー事件に続いて、吹田事件、大須事件が起こされ、これらは三大騒擾事件とされる。前後して、白鳥事件、曙事件、中核自衛隊山村工作隊事件などの不穏な事件が起こされているが、ほとんどに朝鮮戦争を革命の好機ととらえた日本共産党が関わっているとされた。日本共産党はこの時期、「武装闘争(暴力革命)」を基本方針としており、騒乱を引き起こしそれに乗じて革命を起こすという、コミンフォルム共産党国際情報局)の方針に沿っていた。

 このような日本共産党武装闘争路線は国民の批判を浴び、この年に行われた総選挙では共産党は全議席を失った。のちの1955年の日本共産党第6回全国協議会(六全協)において、武装闘争路線を批判し方針転換したとされる。しかし全面的に「ボルシェビキ革命(暴力革命)」を否定したものではないともされる。

 なお、この血のメーデー事件をきっかけとして、この年、従来の「騒擾罪(騒乱罪)」より幅広く適用される「破壊活動防止法破防法)」が制定されることにもなった。
 

*この年
モーターバイク時代始まる(本田技研開発の「カブ」)/風船ガム大人気/茶羽織が大流行
【事物】マジックインキ/電動おもちゃ/ボウリング場
【流行語】青線/火炎ビン/ヤンキーゴーホーム
【歌】リンゴ追分(美空ひばり)/芸者ワルツ(神楽坂はん子)/テネシーワルツ(江利チエミ
【映画】生きる(黒澤明)/西鶴一代女溝口健二)/風と共に去りぬ(米)
【本】文学全集盛ん/野間宏「真空地帯」/壺井栄二十四の瞳」/アンネ・フランク「光ほのかに アンネの日記