『Get Back! 50’s / 1953年(s28)』

biwako

『Get Back! 50's / 1953年(s28)』

(4-5歳)町内会のリクレーションで琵琶湖へ海水浴に行った時の写真。この時期、周辺には結婚適齢期を過ぎていると言われた女性が多かったように思う。もし仮にこの年27歳だととしたら、昭和初年の生まれとなり、終戦を20歳で迎えている。つまり、同年齢ないし数歳上の相手になるはずの男性は、ほとんど戦争に取られて、亡くなったりしていているはず。圧倒的に結婚適齢な男性が不足していたわけだ。今になって初めて、そういう状況だったことに気付いた。
 

○2.1 [東京] NHK東京テレビ局が本放送を開始する。(1日4時間、受信料月200円、受信契約数866)
○8.28 [東京] 日本テレビが民放初のテレビ本放送を開始する。(1日6時間)

 1953年2月1日、NHKがテレビ本放送を開始。8月28日には民放のトップを切って日本テレビ ( NTV )が本放送を開始した。テレビジョンは日本でも戦前から研究が進み公開実験放送を行うまで来ていたが、太平洋戦争のために中断を余儀なくされ、テレビの実用化は1946年の研究解禁を待つことになる。
http://cgi2.nhk.or.jp/archives/tv60bin/detail/index.cgi?das_id=D0009030001_00000

 この開始の年すでにNHKでは、「ジェスチャー」「のど自慢素人演芸会」「大相撲中継」「NHK紅白歌合戦」などが始まっており、日本テレビでも「プロ野球巨人戦」が中継されている。しかし、当初の受信契約者の多くはアマチュアによる自作の受像機、ほかは海外から輸入の受像機、国産初はシャープ製で175,000円、当時の会社員給料の数年分相当であったという。

 読売新聞社の総帥正力松太郎は政界への影響力を行使して、最初の民放テレビ「日本テレビ」を開局にこぎつけたが、広告を収入源とする民放では視聴者数の確保が第一。そこで「街頭テレビ」の設置を推進し、力道山のプロレス中継などで大観衆を集めた。当時はビデオテープが高価で、スタジオドラマやバラエティ番組はほとんどが生放送、スポーツ中継も当然生中継しかなかった。その他、ニュースや劇場映画や外国輸入テレビ映画などは、もちろんフィルム撮影のものだった。

 自身のテレビ体験から振り返ると、街頭テレビを直接に見た記憶はない。商店街の電気店などはラジオ工作キットなどを扱っているところが多く、その技術で自作のテレビを制作して店頭で放映して観せていたのが、最初のテレビ体験だった。次に普及し出したのはうどん屋などの大衆食堂、これは当然客寄せのためで、数十円のうどん代だけ持って観に行った記憶がある。

 その次の手段は、近隣で先にテレビの入った家に観せてもらいに行くこと。電話もそうだったが、当時に先にテレビの入った家は、ある種のノブレス・オブリージュ(高貴者の義務)ということで、電話の取次ぎはもちろん、テレビを観に来た子供たちを追い返すことはなかった。ただし、たいていは意地の悪いバカ息子とかが居て、こちらが観ているチャンネルをガシガシャと変えるのであった。

 そして自分たちの家にもテレビが手の届く状況になったが、自分の家ではなかなか買ってくれない。ほとんど周りの家に入ったが、こいつところだけには負けないと思っていた遊び仲間とこが、商店街の抽選一等賞を当てて先に入られたのは悔しかった(笑)

 さすがに、テレビ受像機の中に人が入っていろいろ演じていると信ずるものはなかったとおもうが、テレビの醸し出すリアル感はすごいものであった。プロレス中継での流血画像を観てショック死した老人がいたというのもうなづける。アメリカからの輸入物テレビ映画も多く放映されていて、「名犬ラッシー」だの「ローハイド」など、ジャンルに拘わらず何でも観たものだが、観せてもらいに行っていた向かいの家の婆さん曰く、「最近の外人さんは日本語がうまいねぇ」(笑)
 

○3.5 スターリンソ連首相が死去(73)。東京証券市場では、軍需株を中心にダウ価が急落する。(スターリン暴落

 1953年3月1日、スターリンは政権幹部らとの徹夜の夕食の後、寝室で脳卒中の発作で倒れた。猜疑心の強いスターリンの性格も作用して、翌日の午後になるまで発見が遅れた。昏睡状態が続き意思疎通はできないまま、4日後危篤に陥り、死亡した。スターリンの死には謀略説もあり、計画的な暗殺だったとする説や、脳卒中で倒れ昏睡状態の間に、死を早める措置をしたとか、意図的に放置したとかの噂があるが、真相は不明のままである。

 ヨシフ・スターリン(実名ヨシフ・ベサリオニス・ジュガシヴィリ)は、帝政ロシア支配下グルジア(現ジョージア 共和国)の貧しい職人の家庭に生まれ、神学校に進むもマルクス主義に近づき退校、やがて労働者となり、労働者の組織化や地下の革命活動に進む。ヨシフはグルジアボリシェヴィキの活動家となるとともに、やがてレーニンと直接出会い認められるようになった。

 ロシア革命によりソビエトが成立すると、レーニンを補佐してトロツキースターリンは並び立つ存在になった。1924年レーニンが死去すると、ライバルのトロツキーを追い落としてレーニンの後継の地位に就いた。レーニンはその遺書で「猜疑心の強いスターリンを指導者にしてはならない」との旨を書いていたとされるが、遺書は握りつぶされた。

 ソ連を追放されたトロツキーは、各地を転々としたあとメキシコにまで逃亡したが、スターリンの派遣した暗殺者にピッケルで頭をぶち抜かれて暗殺された。スターリンは多くの政敵を、「人民の敵」という罪状を発明して次々に粛清していった。1930年代の「大粛清」では、犠牲者数は諸説あるが200万人にも上るとされる。

 死後から程なくして、ニキータ・フルシチョフらによるスターリンに対する批判が展開され始める。これにより一転して、スターリンは偉大な国家指導者から恐るべき独裁者という評価へ引きずり降ろされた。60・70年代の日本の学生運動のスローガンは「反帝反スタ(反日米帝国主義・反スターリン主義)」であったほどである。

 近代国家において最大とされる大粛清を行い、第二次大戦では、敗戦枢軸国の日独以上の最大の犠牲者を出したソビエト連邦の指導者スターリン、その功績はと問われるとすぐには出てこない。ただ、結果的に第二次大戦の戦勝国となり、まがりなりにも70年近く続いた強大な共産主義国家を構築し、米ソ対立の冷戦世界に一方の超大国として君臨した指導者として、歴史に名をとどめたことは間違いない。
 

○4.29 [京都] 京都旭丘中学偏向教育事件

 1953年4月29日、京都市立旭丘中学校は原因不明の出火によって8教室が焼けた。火災の原因について、一部の父兄から進歩的教員による放火説がとなえられ、父兄や教員の間での保守対革新の対立が表面化した。旭丘中学ではかねてから、日本共産党員である日教組教員にによって、「平和教育」と称する赤化教育がなされているといううわさがあった。やがて保守派父兄によって市教育委員会に申し立てがあると、旭丘の「偏向教育」は中央の政治問題に発展した。

 具体的には、校内で革命歌や赤旗を強要するとか、全関西平和まつりに生徒を引率するなどが行われていたとされる。翌年3月、京都市教育委員会は「偏向教育」の主導者として、北小路昴教頭、寺島洋之助教論、山本正行教論を他校への転任を内示、3教員がこれを拒否したため懲戒免職とした。3教員の支持派は、赴任したばかりの北畑紀一郎校長を吊るし揚げ、辞任を強要した。教育委員会側は辞表を不受理、旭丘中学の休校と教職員の自宅研修を通知した。

 一方、これを不服とする進歩派の教員・父母と京教組組合員らが、学校を封鎖し自主管理授業を強行、校舎やグラウンドには赤旗が林立する。他方、保守派の父母と市教委は、岡崎の京都勧業館での補習授業を行い、生徒は2分されることになった。事態の長期化につれて、子供を政争の材料にしているとの世論の批判も高まり、京都府教育委員会などの調停により、懲戒免職とされた3名以外の全教員の処分を行わず、転任させて校長以下全教員を入れ替えることで双方が妥協し、授業が再開された。まるで60年70年安保時の大学紛争を思わせるが、これは戦後の新設されたばかりの一公立中学校での出来事である。

 校舎火災のとき私は5歳前後、近くの旭丘中学在学のお兄さんに手を引かれて火事現場を見に行った記憶がある。現在の校舎は三階建になっているが、当時は木造二階建で写真左側の半分以上が焼け落ちた。8年後には私が入学することになるのだが、その当時は焼け残った右半分には職員室などがあり、左半分が安普請で継ぎ足された教室となっていた。

 旭丘中学校の在学中には、このような事件があったことはまったく知らなかった。教師も生徒もすべて入れ替わっており、しかも当時を知る教員や父兄も、意識的に話題を避ける雰囲気があったのだと思う。しかし私にとっては、その後調べて知った事件の概要と、幼くして見たおぼろげな火災跡との印象が結びついて、是非とも触れなくてはならない事件となっている。
 

○7.16 [東京] ミス・ユニバース世界大会で、ファッションモデルの伊藤絹子が日本人初の3位に入賞。「八頭身」が流行語となる。

 1953年、米ロングビーチで開催のミス・ユニバース・コンテストで、日本代表伊東絹子(19歳)が3位に入賞。世界の三大コンテストで日本代表が入賞したのは初めてで、話題を呼んだ。伊東は戦後初のファッションモデルの一人で、頭が身長の8分の1という、いわゆる「八頭身」という言葉が話題になった。日本女性の体形が国際水準に近づいたなどと言われたが、一般的にはまだまだであった。そもそもここで言う「国際水準」とは、欧米の白人女性並みということでしかなかった。

 ミス・ユニバースミス・ワールドミス・インターナショナルと並んで世界三大ミスコンテストなどと呼ばれるが、いずれも戦後の '50年代に次々と始められたに過ぎない。1959年(昭和34年)のミス・ユニバースで、日本代表児島明子が日本初の優勝者となった時は、大きく報じられて私も知っている。このとき、かつての伊藤絹子や山本富士子が話題に上がった。ちなみに山本は、1950年開催された第1回ミス日本の優勝者であって、このときまだ世界の大手ミス・コンテスト始まっていない。

 このころ、ミスコンテスト関係の話題が多く聞かれた。1960年、第一回ミス・インターナショナルの日本代表に選ばれたのは、自宅の並びにある商店の娘さんだった。新聞雑誌テレビなど報道陣が殺到し店を閉めるありさまで、隣の民家まで借りて対応していたのを憶えている。
$1960(s35)ミスコン日本代表 https://www.youtube.com/watch?v=_R7PDMx7R8E&feature=youtu.be

 最近の多様化の時代になると、そもそも何でミスコンなんだ、ミセスはいかんのか、ミスターもやれとその時代錯誤ぶりが際立ってしまう。ましてや BLGT の問題も射程に入れれば、もはやミスコンなどやってていいんか? となってしまう(笑)
 

*この年
1934年以来の大凶作/街頭テレビが大人気/蛍光灯が家庭に普及/映画「君の名は」空前の大ヒットでストールの真知子巻きが流行/うたごえ運動盛ん/テレビの流れ作業生産が始まる
【事物】森永スープ/噴流式の電気洗濯機/無線タクシー
【流行語】さんずい(汚職の隠語)/さいざんす/むちゃくちゃでござりまするがな
【歌】雪の降るまちを(高秀男)/君の名は(織井茂子
【映画】ひめゆりの塔今井正)/十代の性典(島耕二)/シェーン(米)/禁じられた遊び(仏)
【本】伊藤整火の鳥」/山岡宗八「徳川家康」/ボーボワール第二の性