『Get Back! 50’s / 1950年(s25)』

hokouki

『Get Back! 50's / 1950年(s25)』

(1-2歳)自宅の前で歩行器にのって撮影。家の前は竹垣だが、元は鉄製の垣だったのが戦時中の供出で持っていかれて竹製になったとか。
 
○2.9 [アメリカ] マッカーシー上院議員共和党)が、国務省に57人の共産党員がいると演説。「マッカーシー旋風(赤狩り)」が始まる。

 共和党上院議員マッカーシーは、あちこちで話題になるような人気取り講演を続けていたが、リンカーン記念日にあたるこの日、共和党女性クラブにおける講演で、「国務省にいる250人の共産党党員のリストを持っている」と発言した。この発言は大きな関心を集め、『ワシントン・ポスト』の風刺漫画で「マッカーシズム」という言葉がはじめて用いられた。

 アメリカにおける「赤狩り」は、戦後すでにはじまっていた。共産主義者への警戒は第二次大戦前から潜在的にあったが、ナチス台頭以来ファシズムが最大の敵であったため、大戦中は同じ連合国としてナチスドイツと戦うソ連に遠慮があった。しかし終戦後すぐに米ソの対立が表面化し、さらにソ連が核保有国となると冷戦構造が成立する。さらには中国共産党独裁による「中華人民共和国」が成立するということで、共産主義への脅威は急速に拡大した。

 1947年には米下院の「非米活動委員会」で、ハリウッドにおけるアメリ共産党員の活動がやり玉に挙げられた。強力な労働組合であった「全米映画俳優組合」の組合員や関係者を中心に、膨大な「ハリウッド・ブラックリスト」が作成され、次々と委員会に召喚されることになる。

 召喚に応じるのを拒否し有罪となり「ハリウッド・テン」と呼ばれた、10名の著名なハリウッドのプロデューサー・監督・脚本家の中には、『ローマの休日』でアカデミー脚本賞を受賞しながら、偽名でクレジットされざるを得なかったダルトン・トランボも含まれた。アメリカで世界的な名声を獲得したあのチャーリー・チャップリンも、「容共的」だとされ事実上アメリカから追放された。

 ブラックリストには、オーソン・ウェルズ (映画監督・俳優)、ピート・シーガーフォークソング歌手)、アーウィン・ショー (作家)、ダシール・ハメット (作家)、ハリー・ベラフォンテ (歌手)、アーサー・ミラー (劇作家)など名だたるアーティストが名を連ねた。さらに、反対運動の声を上げた俳優たちも、グレゴリー・ペックジュディ・ガーランドヘンリー・フォンダハンフリー・ボガートダニー・ケイカーク・ダグラスバート・ランカスターベニー・グッドマンキャサリン・ヘプバーンフランク・シナトラなど、名を挙げれば切りがないほどだった。

 他方で自らにかけられた嫌疑をはらすために、積極的に告発側に協力証言し仲間・同僚の名前を挙げ「裏切り者」となった人物には、『エデンの東』のエリア・カザン、アニメ界に君臨したウォルト・ディズニー、名優ゲイリー・クーパーロバート・テイラー、そして後に大統領に就任するロナルド・レーガンなどがおり、まさしくハリウッドはまっ二つに引き裂かれた。


 さらにソ連のスパイとして告発された国務省職員や、原爆製造技術などの機密情報をソ連に流したスパイとして物理学者クラウス・フックスやローゼンバーグ夫妻(ローゼンバーグ事件)らが逮捕された。「ローゼンバーグ事件」では、明白な証拠もなく、無罪を訴える夫妻の自白のないまま、有罪として死刑判決が下された。サルトルアインシュタインなど西欧諸国の著名知識人たちによって冤罪として助命運動が展開されたが、夫妻の処刑は電気椅子よって執行された。なお冷戦終結後の半世紀近くのちに、機密解除された文書により、夫妻がスパイであったことが確認されるにいたった。

 そのような流れに乗ろうと登場した売名政治家マッカーシーは、瞬く間に「マッカーシズム」名称で、赤狩り運動のリーダーとなった。マッカーシーとその右腕となった若手弁護士ロイ・コーンなどによって、様々な偽証や事実の歪曲、自白や協力者の告発密告の強要が展開されたが、彼らの天下は短かった。追及を軍部にまで広げたため強い反発を招くことになったのがきっかけで、ジャーナリストのエド・マローがドキュメンタリー番組でマッカーシー批判を展開すると、マッカーシーの名声は凋落し、やがて上院で問責決議が可決されると政界から排除されるにいたった。

 失脚したマッカーシーは、元来の大酒飲みが昂じて、肝臓障害で48歳で生涯を閉じた。
 
○6.25 [朝鮮半島] 朝鮮戦争が勃発する。

 1945年日本の敗戦によって解放された朝鮮半島は、北緯38度線を境に北部をソ連軍、南部をアメリカ軍に分割占領された。そして1948年には、南部では李承晩(イ・スンマン)によって大韓民国、北部は金日成(キム・イルソン)による朝鮮民主主義人民共和国がそれぞれ建国され独立したが、南北は予断を許さない対立状態におかれていた。南北の軍事バランスは、形を整えたばかりで戦車など重火器装備がされてない韓国に比べて、ソ連および中華人民共和国が全面支援する北側が圧倒的に優勢で、武力による朝鮮半島の統一を目指す北朝鮮は、1950年6月奇襲攻撃で38度線を越え軍事侵攻を開始した。

 北朝鮮の攻撃から4日目、首都ソウルはあっという間に占領され、さらに朝鮮軍は漢江を渡河し南進、半島最南端の釜山(プサン)にまでせまった。あわてふためいた李承晩は、共産主義嫌疑者たちを無条件で処刑する命令を出し、この「保導連盟事件」では20万以上とされる民間人が虐殺されたという(もちろん金日成も、占領地下で韓国人を数十万虐殺している)。またソウルから退却する韓国軍は、漢江にかかる橋を避難民ごと爆破し、とり残された部隊や住民の避難の道を閉ざした(漢江人道橋爆破事件)。もはや韓国の政府も軍も体をなさず、全面占領目前となった。

 あわてたアメリカ大統領トルーマンの主導により、6月27日急遽国連安保理が開催されたが、このとき拒否権を持つソ連中共加盟をめぐる不満のため安保理を欠席していたため、全会一致で北朝鮮非難決議が採択された。しかし米軍を中心とした国連軍は準備不足を否めず、釜山籠城でかろうじて半島に踏みとどまる状況であった。

 戦況を一変させたのは、国連軍総司令官マッカーサーの発案による「仁川上陸作戦」であった。ヨーロッパ大戦におけるノルマンジー上陸作戦を想起させるような大作戦だったが、海空軍をほぼ持たない北朝鮮相手なので、比較的少ない犠牲で作戦は成功、連動したスレッジハンマー作戦で北朝鮮軍を挟撃した。兵站が伸びきっていた上に補給を絶たれた北朝鮮軍は撤退し、国連軍と韓国軍はソウルを奪回するとともに、38度線まで戦線を押し戻した。

 逃げ回ってばかりだった李承晩は、これで図に乗って一気に「北進統一」を唱え、独断で韓国軍を北に侵攻させた。徹底した反共主義者マッカーサー司令官も、これを是認するとともに、全朝鮮統一民主政府の樹立へと北への進撃を指令した。韓国と国連軍は北の首都 平城を陥落させ、さらに中朝国境の鴨緑江にまでせまった。

 建国したばかりの中国に介入する意志はないと思われていたが、そのとき毛沢東は70万の大軍をもって介入、人民解放軍人海戦術のもとに、兵站が伸びきった米韓軍の壊走がはじまった。中朝軍は一気に38度線を越えて押し込み、さらに国連軍が押し返すという戦況が続き、やがて38度線付近で膠着状態となる。その後1953年米ソの指導者が変わるなど状況変化の下、板門店で休戦協定が結ばれた。(現在も南北朝鮮は、この「休戦中」のまま対峙している)

 仁川上陸作戦で米政府への発言力を増したマッカーサーは、一方で、中国人民軍を甘くみて、アメリカの軍史上「最も恥ずべき敗退」と言われる大敗を喫して赤恥をかいた。それでもマッカーサーの暴走は止まらず、中華人民共和国国内への攻撃、原子爆弾の使用などの越境提言をし、第三次大戦への発展を恐れたトルーマンに解任される。


 パブロ・ピカソ『朝鮮の虐殺』 どういう経緯でピカソが描いたのだろうかと調べてみた。国連軍占領下にあった北朝鮮の信川郡で引き起こされた「信川虐殺事件」があり、ピカソはその話に接して描いたらしい。北朝鮮によると占領していた米軍による虐殺としているが、現地のキリスト教徒による内部抗争であったとする説もある。
 いずれにせよピカソは、そのような事に拘わらず「人民の虐殺」そのものに怒って描いたのであろうと思われる。興味深いことに、この絵は、ゴヤの『マドリード 1808年5月3日』と同じ構図で描かれている。
 
○6.6 マッカーサーが吉田首相宛書簡で、共産党中央委員24人の公職追放を指令する。26日、「アカハタ」の30日間発行停止、7月18日には無期限停止を指令する。
○7.6 マッカーサーが吉田首相宛書簡で、警察予備隊の創設と、海上保安庁の増員を指令する。
○7.24 GHQが新聞協会代表に共産党員と同調者の追放を勧告する。レッドパージが始まる。
○10.13 政府が戦犯覚書該当者を除く1万90人の公職追放を解除する。

 ポツダム宣言受諾による降伏とともに、日本国は連合国軍最高司令官総司令部GHQ)の占領下に入った。当初、GHQは「日本の民主化・非軍事化」を進めていたが、1947年に日本共産党主導の「二・一ゼネスト」に対し、GHQが中止命令を出したのをきっかけに、この対日占領政策は転換された。

 1948年、米の保守的圧力団体「アメリカ対日協議会」が結成されると、戦後日本における「日本の民主化・非軍事化」に逆行する「逆コース」の流れが顕著になった。この方向転換は、1949年の中華人民共和国の誕生、翌1950年の朝鮮戦争勃発によって決定的になる。GHQの施策も「民主化・非軍事化」から「非共産化・保守化」に移り、この意向を受けた第3次吉田内閣は中央集権的な政策を採るようになった。

 GHQは当初、労働運動の確立を必要と考え、労働組合結成を推奨し労組勢力の拡大を容認していた。激しい戦後インフレの下、総同盟・産別会議・全官公労などが結成され、賃上げや待遇改善を要求するデモを行い、全官公庁共闘は「生活権確保・吉田内閣打倒国民大会」を開催した。この時期労働運動を主導していた日本共産党書記長の徳田球一は、「デモだけではだめでストライキによる内閣打倒を」と演説した。

 1947年年頭には吉田首相の「労働組合不逞の輩」発言などがあり、反発した全官公庁共闘により「二・一ゼネスト」が宣言された。実行された場合、鉄道、電信、電話、郵便、学校が全て停止されることになり、吉田内閣に収拾が取れなくなること必至となった。差し迫った実行前日午後4時、マッカーサーの中止指令が発せられた。

 1949年には、下山事件三鷹事件松川事件国鉄三大ミステリー事件)が引き起こされ、事実不明のまま共産党労働組合関係者の関与が喧伝されるなど、反共・反労働運動プロパガンダ進められ、さらに1950年の朝鮮戦争が勃発すると、GHQによる反共政策が露骨に指示されるようになった。

 そしてこの年には、共産党員を明示的に排除する「レッド・パージ」、公職追放の解除による保守派政財界人の復帰と人材確保、警察予備隊の創設と海上保安庁の増強という後の自衛隊の創設準備、など矢継ぎ早な指示がなされ独立復活後の日本の基本路線を確定した。
 
○7.2 [京都] 金閣寺が放火で全焼する。

 1950年7月2日の未明、国宝の鹿苑寺舎利殿金閣)から出火、金閣は全焼し、舎利殿に祀られた足利義満の木像など国宝・文化財もともに焼失した。不審火で放火の疑いありと捜索中、同寺徒弟見習い僧侶であり仏教系大学に通う林承賢が、裏山で薬物を飲み自殺を図っているところを発見され逮捕された。

 足利三代将軍義満の創建した鹿苑寺は、その金箔を貼りつめた荘厳な舎利殿から金閣寺として知られている。応仁の乱では西陣側の拠点となり、その多くが焼け落ちたが、江戸時代に舎利殿金閣などが修復再建された。のちに国宝指定されたその時の金閣が、いち学僧の放火によって焼失したのである。

 吃音症などのコンプレックスで孤立する徒弟僧と荘厳華麗な金閣の対比は、識者の関心を呼んだ。1956年に、三島由紀夫は『金閣寺』を書く。綿密な取材に基づいた観念小説であり、『仮面の告白』の続編とも言える。同時期に始めたボディビル等の「肉体」改造と同じく、この作品を通じて「文体」の改造構築を試みた。三島にとって、自己も自分の肉体も、ありのままなど認められない「構築すべきもの」であった。

 一方、水上勉は1967年に『五番町夕霧楼』で、同じ放火犯の修行僧を主人公とした。吃音などのコンプレックスが内向し、観念上で創り上げてしまった金閣の前で自意識が堂々めぐりし、結局焼失させるより仕方なくなったという三島「金閣寺」に対して、水上の「五番町」は、西陣遊郭五番町に売られた同郷の幼なじみ夕子を登場させ、修行僧の唯一の安逸の場をもうけている。

 水上勉が数歳年長とはいえ、三島由紀夫とともに文学的には「戦中派」世代に属する。戦中派とは、昭和初年(1925年)前後に生まれ、十代後半の思春期を戦争さなかに過ごした世代で、自意識が確立する前後の時期に世の中の価値が180度転換してしまったわけで、その心には深い虚無感が刻み込まれている。しかしその後の両者は正反対の展開をみせる。

 高級官僚の家庭に生まれ、若くして早熟の天才として注目された三島とは対照的に、水上は福井の寒村に生まれ、砂を噛むような貧窮のもとで、早くから京の禅院に小坊主に出された。幾度か禅門から逃亡し文学をこころざすも、文筆活動では食えず生活苦を極めた。40歳を過ぎてやっと、小坊主体験をもとに描いた『雁の寺』で直木賞を受賞し世に認められた。

 水上の「五番町」が、三島の「金閣寺」を意識して書かれたのは間違いない。しかし、水上は放火犯林承賢とは福井の同郷であり、ともに禅林に徒弟修業に出され孤立をかこっていたのも同じような境遇。自己の投影の単なる素材として扱う三島作品に対して、「それは違う」という異議申し立ての気分が強かったと思われる。20年以上たってからも『金閣炎上』というドキュメンタリー作で、再度林承賢の実像に迫り続けたことが、それを示していると言えよう。

 ちなみに、この年の11月には国鉄京都駅の駅舎が全焼した。もちろん、ともに2歳になる前後の火災なので直接おぼえているはずもない。しかし、のちの両親の話などから火災があったことは記憶に植え付けられている。この3年後に、のちに在学することになる中学校の校舎が焼けた。ちょうど中学に在学していた近所のお兄さんに手をひかれて、焼け跡を見に行った事は記憶は残っている。たぶん、金閣や京都駅舎の火災も、この時の焼け跡の残像と重ね合わされ記憶に残るようになったのであろう。
 
*この年
特需景気起こる。/2眼レフカメラ流行/小原豊風・勅使河原蒼風などによる前衛いけばな盛ん/女性の平均寿命が60歳を超える。
【事物】パトロールカー/千円札
【流行語】とんでもハップン/オオ・ミステイク
【歌】水色のワルツ(二葉あき子)/東京キッド(美空ひばり
【映画】羅生門黒沢明)/きけわだつみの声(関川秀雄)/自転車泥棒(伊)/白雪姫(米、初のディズニー長編漫画映画)
【本】岩波少年文庫刊行開始/獅子文六「自由学校」(朝日新聞)/大岡昇平「武蔵野夫人」/カミュ「ペスト」