『Get Back! 60’s / 1967年(s42)』

syoudosima

『Get Back! 60's / 1967年(s42)』
#そのころの自分# 大学受験するも、Ⅰ年間棒に振ったため、当初から受かる余地もなく、予定どおりに受験浪人生に。夏前に、いまでも親交のある友人たちと小豆島にドライブ、写真はその途中のフェリー中で写した。
 
○3月「旅の恥はかき捨て 日本人観光客の悪名高く」

 この前年に渡航回数の制限も取り払われ、このころ一般人の旅行が自由になった。テレビでも、『兼高かおる世界の旅』など海外紹介番組が評判を呼び、『アップダウンクイズ』では10問正解者の景品はハワイ旅行、『トリスを飲んでハワイへ行こう!』という景品キャンペインが話題を呼ぶなど、海外旅行の機運が高まった。
+『トリスを飲んでハワイへ行こう!』 https://www.youtube.com/watch?v=dnyOQEg4Rvc

 言葉の問題など個人での旅行が難しい年配者なども、「団体旅行」という形で可能になり、その様子は写真からもうかがえる。当然不慣れな海外旅行で、さまざまな醜態も見せることになる。ステテコ姿でホテルの廊下を歩くなど、自宅の延長線上で海外に出た老人なども多かった。いま騒がれている某国からの旅行者のことなど言えないぐらい、日本にもこんな時期があったということは憶えておこう。

 
○3月「タイガース、デビュー! グループサウンズに熱狂」

 それまで楽器をいじる機会は、プロのバンドに属したバンドボーイやハワイアンの素人バンドぐらいしかなかった。そこへ、ベンチャーズに続くビートルズの来日で、エレキギター・ブームが一気に爆発した。街中ではもちろん、田舎のにーちゃんまでもが、空き部屋や農家の納屋などでジャカジャカやりだした。

 エレクトリック・ギターにドラムス、ヴォーカルを加えた構成が多く、あちこちで雨後のタケノコのように素人バンドが誕生した。自らが作詞作曲も手がけ、音楽事務所にも所属しない素人集団が、いきなりテレビに登場したりして、それらのバンドグループは、いつしかグループサウンズ(GS)と呼ばれるようになった。

 そういう時期に登場したのがザ・タイガースで、GSの代表的存在となった。彼らは京都でアマチュアバンドとして結成されたが、彼らの上京後はタレントプロダクションなどによるプロデュースに負うところが大きい。いわゆる「作られたGS」であると言えよう。

 
○4月「イタイイタイ病 原因は三井金属の廃水」

 神通川下流域である富山県婦負郡婦中町では、骨がぐしゃぐしゃに折れ縮んで、イタイイタイといって亡くなる老人が相ついだ。この地区の開業医であった萩野医師は、これをイタイイタイ病と名付け、その原因を神通川上流にある神岡鉱山から流される鉱毒ではないかと考えた。やがてイタイイタイ病は、三大公害病の一つに認定される。

 実は私の祖母がこの地区の出身で、若くして京都に出たので当人には影響なかったが、親戚知人にはイタイイタイと言って死んでいった者が何人もいたとか。萩野医師のことを話すと「ハイノ(文字が読めないから音だけで憶えてる)はんはヤブヤブといわれとったもんやが」とか言ってた。

 萩野医師の名誉のためにいうが、地方の開業医はまわりからヤブ医者扱いされることが多い。医療で完治できる病気はむしろ少なく、多くは病気の進行を遅延させたり、痛みなどを緩和する対症療法しかない。いまなら簡単に大病院に任すところも、地方では根気よく患者に対応するしかない。で、一向に治らないということで、陰でヤブ医者よばわりすることになるわけだ。

 
○4月「革新都政が誕生」

 父・達吉は天皇機関説で知られる憲法学者美濃部亮吉東京帝国大学経済学部でマルクス経済学を学び、法政大学でマルクス経済学者として教鞭を執っていた。この年の都知事選挙では、社会党共産党などの支持のもと革新統一知事として当選した。この美濃部選挙のあと、大阪、京都など大都市圏では、同じく革新統一方式で次々と革新知事・市長が誕生した。まさに革新地方自治の時代であった。

 都政では、公共インフラ投資を次々と凍結・廃止するなど住民重視の政策や、老人医療費無料化、高齢住民の都営交通無料化など福祉無料化政策を進めたが、都職員の人件費大幅膨張などを含め、放漫財政による財政赤字化が大問題となった。退任時には、実質的に都は財政再建団体となっていたり、全国の革新自治体ブームに水をさすような結果となった。

 
○8月「フーテン、社会問題化 賛否両論で論争」

 フーテンとは本来「瘋癲」と書き、精神がおかしいこと、またはそういう行為をする人のことをさした。この数年前に、谷崎潤一郎が『瘋癲老人日記』というユニークな作品を発表、まだその言葉の響きが記憶されていたのかも知れない。

 しかし「フーテン」または「フーテン族」と仮名書きされるとき、それは長髪に風変わりな衣服を身につけ、都心の新宿駅広場などにたむろする無気力な若者集団を意味した。彼らを特徴付けるのは、やはり「あんぱん」と呼ばれ、ビニール袋からシンナーを吸引する姿だろうか。米ヒッピーの影響下でマリファナLSDなどのドラッグ行為も含めて、「ラリる」などという言葉が流行った。

 反戦、自然保護、ロック、フォーク、ドラッグなど、一種の社会批判意識を標榜し、ひとつの若者文化として社会運動ともなったヒッピーと比較すると、フーテン族は無気力・無目的性が目立ち、社会からドロップアウトしたい若者の流行風俗でしかなかった。いまや「フーテンの寅さん」にその名をとどめるのみである。

 
○9月「圧倒されたテント劇場」

 カウンターカルチャーとしてのアンダーグラウンド文化は、アメリカではヒッピー文化とも相まって、音楽、映画、現代美術を中心に大きな影響を及ぼした。そのような流れに沿って、日本では特に「アングラ劇団」なるものが特徴的に花開いた。常設の演劇場をもたずに、都会の空き地などを利用してテント劇場など、ゲリラ的に活動する小劇団が幾つも生れた。

 中でも名を売ったのは、唐十郎の「状況劇場」や寺山修司の「天井桟敷」だったが、互いのライバル意識も強く、とうとう劇団員同士の乱闘騒ぎまで起こすことになった。いきさつはといえば、天井桟敷の旗揚げ公演の時に、唐十郎側がパチンコ店の中古の花輪を送った。その意趣返しで、状況劇場の開幕祝いとして葬儀用の花輪を寺山側が送ったとか。そして天井桟敷の劇場へ状況劇場団員が殴りこんで乱闘騒ぎに。もちろん、シャレや話題つくりの意識もあったと思われる。

*写真は、横尾忠則イラストの状況劇場「腰巻お仙」ポスター
カルメンマキ『時には母のない子のように』>https://www.youtube.com/watch?v=Iyf3Qy9Ro5I
 
○10月「ツイッギー来日」

 ツイッギー来日で、女性週刊誌やファッション誌が一斉にミニスカートを特集した。そしてこの頃から、日本の若い女性がミニスカート一色に染まる状況が生じた。本格的にミニが普及したのは、大阪万博'70でコンパニオンたちがミニで活動したころからか。
 やがてオフィスの制服にまでミニが採用されると、もはや履きたくなくても履かざるを得ない状況であったという。やがてファンション界は、ミディ、マキシ、パンタロンなどポスト・ミニのデザインを発表するなどして、その傾向は中和されたようである。

 
○11月「佐藤訪米阻止 第二次羽田闘争」
 ベトナム戦争で米や南ベトナムを支持する佐藤首相が、東南アジア歴訪、そして訪米と続く外訪をするのを阻止するとして、主として羽田近辺でひき起こされた新左翼と機動隊の二度にわたる激突事件。第一次羽田では京大生が死亡する事故が起った。このころから闘争は過激化して、ゲバ棒に各セクト(党派)色のヘルメットというゲバルト闘争のスタイルが確立した。

 
○1967年(s42) TV人気番組
魔法使いサリー」(NET)
「コメットさん」(TBS)
スパイ大作戦」(フジ)
「インベーダー」(NET)
「ザ・モンキーズ」(TBS)