『Get Back! 60’s / 1968年(s43)』

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『Get Back! 60’s / 1968年(s43)』
#そのころの自分# 4月大学に入学、神戸に下宿を始める。写真は下宿の犬をつれて、前の公園にて。あれやこれや新生活で活発に動き回った、その反動か、夏休みに自宅に帰ってぶらぶらしていると、鬱がぶり返した。下宿も引き払い、またもや引きこもり、やっと講義に出席し出したときに大学紛争が火を吹く。年末には大学封鎖、翌年の秋に封鎖解除されるまで講義はなく、京都の街を徘徊して過した。 

 
○1月「深夜放送、花盛り 受験生や若者に人気」
 「オールナイトニッポン」「セイ!ヤング」「パックインミュージック」など、各局が個性的なパーソナリティを起用してディスクジョッキー(DJであってMCとは言わない)番組を競った。この時期、団塊世代がまさに受験期にかかり、深夜ラジオを聴きながら机に向った。

 私は熱心な方ではなかったが、受験生同士の話題には必須なのでそれなりに聞いていた。そんなとき耳に飛び込んできたのが『帰ってきたヨッパライ』、神戸のローカル局ラジオ関西」の放送だった。こちらは京都なので電波状態がよくなくて、主に「ラジオ京都(KBS京都)」に合わせることが多かったが、こちらでは同じくフォークルの『イムジン河』をよく流していた。

 そして勉強に飽いた仲間が夜中に窓をつついて、いま何を聴いてるんだとかさぐりに来たりする。みな孤独感と不安を抱きながら、こうやってラジオを共有して安心していたのだった。
*『帰ってきたヨッパライ』>https://www.youtube.com/watch?v=HgW5KUyJarw&list=RDHgW5KUyJarw&start_radio=1&t=10

 
○2月「八十八時間の対決 金嬉老、人質を楯に籠城」
 金銭トラブルから暴力団員2名を射殺した金は、猟銃とダイナマイトで武装して、寸又峡温泉の旅館に人質13人をとって籠城した。マスコミのインタビューに対応するなど傍若無人に振る舞った金は、在日韓国人二世として受けた差別などを訴えたため、事件は複雑な様相を示した。

 結局、88時間に及ぶ籠城のあと逮捕されるが、平気でライフルを撃ち放ち、マスコミを呼び寄せインタビューに答えたりして、それをテレビなどが逐一放映した。いわゆる「劇場型犯罪」の最初のケースとされる。本来は暴発的な暴力事件にも拘らず、金が在日差別問題にからめたため、警察や逮捕後の刑務所などでも、必要以上に慎重に取扱うという問題も残された。

 
○4月「『邪魔者は消せ』の論理 まかり通るアメリカ」
 '63/11 JFケネディ、'65/2 マルコムX、'68/4 キング牧師、'68/6 ロバート・ケネディが、次々と暗殺された。その背景は様々だが、たったこの5年間での暗殺の集中には、暗澹たる思いがする。やはりベトナム戦争のもとでの、アメリカ社会の混乱が反映されていると考えられる。

 ワシントン大行進での" I Have a Dream "という演説は、JFケネディ就任演説に並ぶ名演説として記憶されている。無抵抗主義に徹して、そののち「公民権法」を勝ち得て、さらにノーベル平和賞を受賞する。

 しかしその後も実際的な黒人差別は無くならず、急進派には無抵抗平和主義を突き上げられる不遇にも出会うことになった。そしてキング牧師暗殺が起ると、過激な黒人暴動が各地に起こり、さらに混迷を招くことになる。
*"I Have A Dream Speech">https://www.youtube.com/watch?v=vP4iY1TtS3s

 
○5月「パリ五月革命
 この季節、先進国の間では、若者の叛乱と言われる反体制活動が同時的に頻発した。アメリカでは反ベトナム戦争、日本では反70年安保などという固有のトピックスがあったが、フランスではいかにもフランスらしく、アナーキスト社会民主主義者、毛沢東主義者、トロツキストさらには労働組合員など、ソ連スターリン主義に近いフランス共産党を除く、あらゆる反体制組織が集った。

 ソルボンヌで有名なパリ大学をはじめ、多くの大学が集中する「カルチェ・ラタン」では、バリケードを築いて「解放区」と呼び、警察と乱闘となった。カルチェ・ラタンとは単に「ラテン地区」という意味で、かつてインテリが占有したラテン語を話す人たちが住んだところから来ている。

 日本でも学生運動には大きな影響を及ぼし、神田カルチェ・ラタン闘争なるものもあったが、一般人には遠いフランスでの出来事かと思われる。かろうじて、新谷のり子『フランシーヌの場合』という反戦ソングで思い出す人もいるかも知れない。ちなみに、フランシーヌ・ルコントが焼身自殺したのは、五月革命がすでに沈静化した、翌年の三月三十日のことであった。「フランシーヌの場合は あまりにもおばかさん」と歌った本人も、その後の行動をみるとそれほど、おりこうとも思えないのだが。
*『フランシーヌの場合』>https://www.youtube.com/watch?v=fIYFbDQPNJg

 
○8月「わが国初の心臓移植手術」
 和田寿郎教授の札幌医大外科チームは、日本初の心臓移植手術を実施し、大々的に記者会見を行った。しかし18歳の患者は83日後に死亡、手術時の輸血による血清肝炎を発症し(売血を使っていたこの時期の輸血ではよくあった)、必ずしも直接の死因が手術にあったとは言えない。

 しかし患者の死亡後、さまざまな疑惑が噴出した。疑惑は多岐にわたるが、患者は心臓移植が必須であったかどうか、ドナーの脳死判定に関する疑惑、当時の心臓移植技術における時期尚早性などが、関係医学界などから提起された。

 まもなく和田医師は殺人罪刑事告発されるが、不起訴となっている。その後日本で心臓移植が行われるのは1999年であり、和田移植手術は我が国の心臓移植医療を30年遅らせたとも言われる。

 なお、当時札幌医大に在籍し後に作家となった渡辺淳一は、事件をテーマに『小説心臓移植(「白い宴」と改題)』を発表し、綿密な調査取材で定評のある吉村昭も心臓移植を追った小説『神々の沈黙』を書き、この事件にも言及した。

 
○8月「ソ連・東欧軍、突然のチェコ侵入」
 1月、チェコ・スロヴァキア共産党第一書記にドプチェクが就任すると、次々と改革自由化政策を推進した。4月には「人間の顔をした社会主義」を目指す新しい共産党行動綱領を決定した。

 この一連の自由化の動きは、のちに「プラハの春」と呼ばれることになるが、8月20日ソ連率いるワルシャワ条約機構軍が軍事侵攻することで鎮圧された。そして本格的な自由化は、1989年の「ビロード革命」にまで持ち越されることになった。

 前回の東京五輪で「体操の花」と歌われたベラ・チャスラフスカは、この10月のメキシコ五輪への参加が危ぶまれたが、不足した準備にもかかわらず渾身の演技をした。ほとんどの個人種目に優勝、唯一銀に終った平均台の表彰台では、掲揚されるソ連国旗から顔を背け抗議の意を示した。
*1:20ぐらいより>https://www.youtube.com/watch?v=SyYMcLwKreo

 
○10月「日本人では初めて 川端康成ノーベル文学賞
 当時の日本文学理解者としての米学者エドワード・サイデンステッカーやドナルド・キーンは、ノーベル賞選考で日本文学への意見を求められる立場にあった。彼らは日本文学へのよき理解者であり翻訳家であり紹介者であったが、西洋人としてのオリエンタリズム(西洋から見た東方)から免れていたとは言いがたい。つまり「日本らしさ」を第一義的に評価するわけで、そこで登場した名前が、谷崎潤一郎川端康成三島由紀夫などであった(たとえば横光利一などは西洋の亜流以上には評価されない)。

 ドナルド・キーンNHKの番組で語ったところによると、ノーベル賞委員会に意見を求められ、最も評価していたのは三島だが、まだ彼は若くて先に可能性がある(実はまもなく自刃するわけだが)、谷崎は最も実績があり相応しいと推薦したが、その後、受賞する前に彼は亡くなってしまう。そんなわけで消去法的に川端の受賞にいたったようなニュアンスで証言していた。

 川端康成は批評眼にもすぐれていた。対談か何かで「目玉がごろんと転がっているだけのような批評」というようなことを語っていたかと思う。鬼太郎の目玉オヤジが文学批評するのも怖いと思うが、川端のぎろりと剥いた眼もなかなかするどいものがあった。

 ある時川端が寝ていると、枕元に泥棒が来て覗き込んでいる。気配を感じた川端が眼を開くと、眼が合った泥棒はギョッとして「駄目ですか」と言ってすごすごと逃げて行った、などという逸話もあるという。

(追補)
 この時期、米の日本文学研究者エドワード・サイデンステッカーとドナルド・キーンノーベル文学賞の日本文学担当の選考委員で、ほかに日本文学など分かるもの好きは居なかった。両者とも源氏物語の研究など、オリエンタリズムの視点からしか日本文学を見ていない。で、細雪を書いた谷崎潤一郎が一番の候補で、三島由紀夫は優れているがまだ若いとされた。

 そろそろ日本から文学賞をという時期に、谷崎が死去、三島は若いから次の機会があるだろうとなって、川端康成に決まった。新たな国から文学賞を出す初回は、その国の情緒を表現する作家という暗黙の基準もあって、サイデンステッカーとキーンの推薦が最も重視される状況だった。

 谷崎のマゾ、川端のサド、三島のゲイと、三者立派な性向をもっていて、文学とは本来、そういう本質的主題から評価されるべきだが、推薦委員の米学者は、ひたすら日本趣味だけで評価した。サドは自殺、ゲイは情死、マゾのみが天寿を全うするという恋愛方程式を、三者は見事に証明してくれたが、その文学的解明は、未だ為されないままである(笑)


(追補2)
 この時期には、日本文学はまだまだ西欧世界には知られておらず、ノーベル文学賞の日本人候補選考はエドワード・サイデンステッカーとドナルド・キーンという二人の米国の日本文学研究者に委託されていた。

 最終選考では谷崎潤一郎三島由紀夫川端康成と詩人の西脇順三郎の4名に絞られていたが、詩人である西脇を除く3名は「日本文化を代表する作家」という暗黙の基準を満たしていた。

 最有力の三島は、若すぎるという理由から除かれ、谷崎は受賞を待たずに死去、消去法で川端に決められた。

 「その国の文化の体現者」として川端が受賞した後、次回以降は「世界的な水準での内容と認知度」という本来の基準にもどるので、三島は除外される(三島ファンからは異議がでるだろうがw)ことになる。

 その時点で三島と同年代ながら、まったく伝統を拒否した前衛的作品を連発させている安部公房トップランナーに浮上する。ところが安部公房は次の日本人受賞時期が熟する前に死んでしまう。

 ここでもキーマンになったのがドナルド・キーンで、もっとも推していた三島亡きあと、安部公房の作品の翻訳者となって英語圏に紹介、安部公房の推進者となっていた。

 キーンは若手の大江健三郎とも親しく、安部に大江を紹介したりしている。安部も大江を数少ない評価する作家とし、三島も、川端の次は自分でなく大江だ、という発言をしている。

 三島・安部・大江ともに、当時の日本文壇とは距離を置いた作家で、文壇からはノーベル賞推奨の声が出にくいなか、微妙な三者のネットワークが働いていたと思われる。

 そして川端受賞以来20数年後、やっと日本の順番が回ってきたころには、大江健三郎しか残っていなかったようだ。

 川端も大江も、その受賞が発表されたとき、文学を冷静に見守っていた人間には、それが意外に思われたことだろう。まあ文学賞なんて、みなそんなもんだが(笑)


○12月「”ギャング映画”そのまま 三億円強奪事件」
 もはや本気で考える気力も失せてるのでググってみたら、「3億円事件の真相!?犯人は少年S?複数犯?元警察官?公安?国家?ゲイ?宇宙人?真実を徹底解明!」なんて文字がおどってた。もはやどうでも良いと思うが、事件が迷宮入りした原因は、あの「モンタージュ写真」にあると思っている。

 あの無時間的なコラージュされたような手配写真だけが、事件の印象に入り込んでしまっている。あの写真は、実は通常のモンタージュ写真ではなく、犯行現場でだまされた銀行員たちの証言で、当時容疑者とされた少年に似た人物の顔をヘルメットにはめ込んだという。

 この時点で先入見が入り込んでしまっている。もしその少年が真犯人でなければ、真犯人は永遠に手配や捜査の対象から抜け落ちてしまうのである。このような捜査初期での、基本的なミスリードがすべてはないだろうか。

 
○1968年(s43) TV人気番組
サイボーグ009」(NET)
ゲゲゲの鬼太郎」(フジ)
「チャコとケンちゃん」(TBS)
巨人の星」(NTV)
肝っ玉かあさん」(TBS)
お笑い頭の体操」(TBS)
夜のヒットスタジオ」(フジ)
「探偵マニックス」(NTV)