『Get Back! 60’s / 1966年(s41)』

folkdance

『Get Back! 60's / 1966年(s41)』
#そのころの自分# 4月高校三年生になる。その前の春休みあたりから軽い鬱状態になり、5月一杯ぐらいまで不登校で引きこもる。その後恢復するも、根をつめた勉強などはできず、ぶらぶらと受験学年をすごした。秋口の体育祭前夜のファイヤーストーム、写真の如くやたらお気楽な生活をつづけた。
 
○2月「2/4 ボーイング727 全日空機羽田沖墜落事故 羽田沖に墜落」
○3月「3/4 ダグラスDC-8 カナダ太平洋航空機着陸失敗 羽田空港へ着陸直前事故」
○3月「3/5 ボーイング707 BOAC機機空中分解事故 富士山へ墜落」
 なんとひと月の間(あとの2つは連日)に3件の航空機大事故がひき続いて起きた。原因はそれぞれだが、DC8機事故の8名を除き、乗員乗客の全員が死亡するという惨事であった。
*当時のニュース https://www.youtube.com/watch?v=rp2hqiPbXYg


 
○4月「ボストン・マラソン 日本上位独占」
 世界の代表的なマラソンの一つボストンマラソンで、一位から四位までを日本人が占めた。1位君原、2位佐々木、3位寺沢、4位岡部、この時期日本マラソン陣は、世界を牽引する勢いであった。このときの優勝タイムは 2時間17分11秒。その後も日本人ランナーは世界のマラソンをリードしたが、近年のスピードマラソン化に付いてゆけず低迷することになる。

 
○5月「マガジン『巨人の星』 連載はじまる」
 いわゆる「スポ根もの」を代表するスポーツ漫画。消える魔球だのちゃぶ台返しだのが話題になったが、私自身は根性ものを嫌って一切関心がなかった。数年前に寺田ヒロオがサンデーに連載していた『背番号0』など、ほのぼのスポーツものが好みであった。寺田は、手塚を慕う漫画家志望者たちが集って有名な「トキワ荘」の兄貴分的な存在で慕われた。しかし当時からはじまった劇画ブームに嫌悪を示し、この時期にはすでに筆を折っていた。
 
 
○6月「アメリハノイ、ハイフォン爆撃」
 ベトナム戦争では、地上戦に手を焼いた米軍が、とうとう北ベトナムの中心都市にまで「北爆」を開始した。巨大なB52による無差別爆撃は過激を極めたが、北ベトナムホーチミン主席はラジオ演説で徹底抗戦を宣言し、この後さらにベトナム戦争は泥沼化に突き進んでいく。

 
○7月「ビートルズ 武道館録画中継」
 東京オリンピックの格闘技会場として造られた武道館は、このとき初めてコンサート会場として利用された。そのため音楽演奏はまったく前提とされていなくて、音響・録音システムなどは臨時構築された。ステージも急造でぶかぶか、スタンドマイクが演奏の震動で揺れて、向きを変えて逃げてゆく。ポールがギターの合間に、マイクをつかんで引き戻す様子なども見られた。

 前座は尾藤イサオ内田裕也ブルーコメッツザ・ドリフターズなどが務めたが、前座の演奏など誰も聞く雰囲気などなく、「ウェルカム・ビートルズ」のコーラスでは、歌詞を忘れたのか、内田裕也など口パクで済ませていた。
「武道館講演 ドリフほかの前座」> https://www.youtube.com/watch?v=Xrt8Ego2kvQ

 
○8月「紅衛兵 文化大革命を動かす その意味は何だった?」
 毛沢東主席の主導で行われた「大躍進政策」は、経済の大混乱と飢饉をひき起こし数千万の餓死者を出すような大失敗に終った。毛沢東はその失敗により主席の地位を降りたが、そのあと自身の復権を画策し、「紅衛兵」と呼ばれる学生や若者労働者を扇動・動員して「文化大革命」と称する改革運動をひき起こした。

 その実体は、政敵を攻撃させ失脚に追い込むための、中国共産党の権力闘争であった。毛のあと実権を握った劉少奇国家主席訒小平総書記などは、「走資派」(資本主義に走る反革命分子)と呼ばれ、次々に失脚させられた。さらに文化大革命を指揮して、毛の後継とされた腹心の林彪副主席でさえ、その後失脚する。

 中央の権力争いだけではなく、各地方の幹部、知識人、旧地主の子孫など「反革命分子」と名指された層は、ことごとく紅衛兵たちに「自己批判」と称する吊るし上げにさらされ、暴力的な迫害が加えられた。文化革命の大混乱に関する死亡者は、正確な統計は取りようもなく、1000万以上という説もある。

 
○9月「サルトルボーヴォワール 来日」
 この時期、戦後の実存主義ブームも下火になり、構造主義からの批判にもさらされていたサルトルは、「アンガージュマン」(政治・社会 積極参加)を唱えて左傾化していた。しかし来日時には、そういう事情にうとい日本のインテリ層には大歓迎された。

 同伴者として来日したボーヴォワールは、代表作『第二の性』で「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」と宣言し、昨今のジェンダー論の先駆ともされる。サルトルとは「契約結婚」という前衛的な関係を結んだが、その後もサルトルの死までの50年間「同伴者」として歩むことになる。

 若きサルトルはサン=ジェルマン=デ=プレのカフェで、ボーヴォワールに「このコップ一杯の水からも哲学ができるんだよ」といって、彼女のナンパに成功したという話が、私の頭の中にでき上っている。実質、サルトルボーヴォワールを「都合のよい愛人」として扱っていたのではないかという疑念がある。そしてボーヴォワールも、思想的にはフェミニズムの旗手であるにも関わらず、サルトルには「女」として従っていたのではないかと思われる。

 
○10月「週刊『プレイボーイ』創刊」
 「平凡パンチ」に遅れて二年後「週刊プレイボーイ」が発刊された。「月刊平凡」の平凡出版、「月刊明星」の集英社と、芸能雑誌でしのぎを削った関係、こちらでもライバル意識は濃厚であった。「平凡パンチ」は文化的・保守的、「週刊プレイボーイ」大衆的・反体制的というのは、そういえばそのように思える。

 しかし私のイメージでは少し違って、パンチは軽妙洒脱、都会派ボーイ的な狙いで、プレイボーイにはディープで攻撃的なにおいを感じた。大槁歩のアイヴィー若者の軽やかなイラストに対して、この初期の表紙写真をよく見れば、女性ヌードをコラージュしたもので、過剰な主張を感じさせる。

 
○1966年(s41) TV人気番組
おはなはん」(NHK
「ママとあそぼうピンポンパン」(フジ)
ウルトラマン」(TBS)
奥様は魔女」(TBS)
ウルトラQ」(TBS)
「若者たち」(フジ)
「ビート・ポップス」(フジ)