『Get Back! 60’s / 1965年(s40)』

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『Get Back! 60's / 1965年(s40)』
#そのころの自分# 4月高校二年生になったが、新しいクラスに馴染めず、従来の友人たちと授業をサボって校外をうろつくことが多かった。写真は、二年生になる前の春先、植物園にて。このとき日本でもヒットしだした、ビートルズのシンルグレコードを眺めている。
 
○1月「葉巻姿が印象的だった チャーチル死去」
 Fルーズベルト(米)、スターリン(ソ)、チャーチル(英)と、第二次大戦のリーダーが消えていった。チャーチル90歳、大戦後20年だった。

 名門パブリック・スクールのハーロー校での劣等生ぶりは有名であり、軍人・政治家としても、ワンマン、貴族趣味的などという評価もあり、戦時中の戦略ミス、敗退など失敗・失政も多かった。にもかかわらず、衰退をはじめた大英帝国を率いて、第一次、第二次の大戦を戦勝国へと導いた手腕は、やはり非凡だったという外ない。

 「決して屈するな。決して、決して、決して!」
 豊富な人生経験に裏うちされたチャーチルには、人を前向きにかき立てる名言も多い。

*「チャーチル名言集」>http://iyashitour.com/archives/20861#page1

 
○2月「マルコムX、暗殺される」
 日本では、アメリカの黒人解放運動と聞いてキング牧師を思い浮かべる人は多いが、マルコムXという奇異な名前の人物はあまり知られていない。ガンジーゆずりの平和無抵抗主義を維持したキング牧師に対して、マルコムXは非合法的な運動も認めるような過激な演説で黒人たちの支持を集めた。

 キング牧師らの解放活動が「公民権法」の成立に大きな寄与をしたのは間違いないが、ケネディ、ジョンソンと続く政権が公民権法の制定を急いだ背景には、マルコムXらの過激な主張から切り離したいという思惑も働いたであろう。

 公民権法成立後も事実上の差別は無くならず、目標を達成して存在感が弱まったキングらの無抵抗主義に対して、マルコムXらの過激派の勢力がました。やがてマルコムXの暗殺、さらに数年後キングの暗殺と、むしろ黒人たちをさらに過激に走らせる事件が相つぐことになる。

 ちなみに、ボクシング史上最大のチャンプともされるモハメド・アリは、マルコムXを信奉し、彼から授けられたムスリム名に改称した名前である。

 
○4月「はじめはピンとこなかった ベ平連
 「ベトナムに平和を! 市民(文化団体)連合」という長たらしいのが正式名称。米の北爆が開始され長期化深刻化するベトナム戦争を受けて、小田実鶴見俊輔開高健ら、いわゆる「文化人」を中心に結成された。無党派のゆるやかな市民の集まりで、街頭デモ・反戦広告・支援カンパ・脱走米兵支援などユニークな反戦活動をした。

 公的には '74に解散するが、初期の自由な雰囲気を引き継いで、岩国の反戦スナック「ほびっと」や、京都のフォーク喫茶「ほんやら洞」などが開店。同様のコンセプトの店も全国に開かれ、フォークを通じて反戦・コミューン運動に関わる学生・若者らで賑わい、70年代のサブカルチャーの拠点としての役割をはたした。

 
○6月「日韓基本条約調印 国交正常化へ」
 概略でいえば、戦前・戦中の関係を清算し、日本の韓国に対する莫大な経済協力、韓国の日本に対する請求権の完全な放棄、それらに基づく国交正常化などを規定した。

 現在における日韓問題は、この条約を抜きにしては語れない。当時の朴正煕大統領は、この時の経済支援などをもとに「漢江の奇跡」と呼ばれる経済大躍進をなし遂げた。一方、クーデターで奪取した軍事独裁政権であり、様々な強権的弾圧も行われており、韓国におけるその評価は両極端に分かれる。

 
○7月「文豪の名にふさわしい 谷崎潤一郎没」
 戦前から文豪と呼ばれた中では、比較的長寿の79歳没。日本文学の一つの時代が終ったとも言える。悪魔主義、耽美主義、変態文学、マゾヒズム、女性跪拝などと様々な呼び名が付けられたが、一貫して崇拝的な女性美像を追求した。谷崎の妻をめぐって友人佐藤春夫との三角関係に陥ったが、佐藤に妻を譲るという三者連名の声明文を発表、「細君譲渡事件」と騒がれたり、奔放な行動が話題を呼ぶことも多かった。

 日本最初のノーベル文学賞候補と仮想されることもあり、彼の死後は三島由紀夫が浮上し、さらに三島自刃後には結果的に川端康成受賞となった。これらの名を観ると、いずれも日本的な美の追求者という側面がうかがわれ、西欧側からのオリエンタリズムの色が濃く反映していることは否めない。

 現在の著作権法では保護期間が著作者の没後50年と定められており、谷崎の作品は昨年から一般に公開できることになった。たとえば青空文庫などでは順次公開されつつあり、いつでも無料で読める。
*『春琴抄』>http://www.aozora.gr.jp/cards/001383/files/56866_58169.html

 ところが「環太平洋パートナーシップ(TPP)協定」が発効すると、アメリカなどにあわせた「没後70年」に延長される(音楽なども同じ)。すでに期限切れには適用されないが、たとえば、2020年に切れる予定の三島由紀夫の作品は、2040年にまで延長されることになる。

 
○7月「テケテケテケ ベンチャーズブーム」
 日本のエレキギター・ブームを爆発させたのは、間違いなくザ・ベンチャーズであった。ビートルズもすでに日本でブームを起こしていたが、その来日はこの翌年になる。一部メンバーは以前にも来日したが、フルメンバーで来日して人気炸裂したのはこの時である。若者たちはこぞってエレキギターに飛びつき、買えないものは座敷ホウキを抱えて、口でテケテケテケと呪文のように唱えた(笑)

 翌年のビートルズ来日公演とも相まって、グループ・サウンズ(GS)なるものが、日本の全国に雨後の竹の子のように生れた。自分たちで作詞作曲、演奏しかつ歌うというスタイルはまたたく間に広がり、地方の片田舎の若者が、一躍テレビ・レコードにデビューするという現象が出現した。

 ベンチャーズは、日本に愛され、またこよなく日本を愛し、その後何度も来日し、日本人歌手には楽曲を提供して、それらは「ベンチャーズ歌謡」とも呼ばれた。
ベンチャーズ」>https://www.youtube.com/watch?v=S4f5f5z3CDM

 
○10月「ただの月見草ではない 野村、三冠王に」
 野村克也は名監督としても名を馳せているが、現役時代の生涯記録はざっと挙げても、2901安打(歴代3位)・657本塁打(歴代2位)・1988打点(歴代2位)・ 3017試合(歴代1位)・11970打席(歴代1位)とすごいものが並ぶ。さらにこの年、戦後二リーグ制になって初の三冠王に輝いた。

 1962年、当時シーズン最多本塁打52本を記録するも、翌年、王貞治が55本を打ってあっさり抜かれる。三冠王も、王が73・74年と連続獲得してその栄光は後退、ずっと更新し続けてきた通算最多本塁打・最多打点なども、ことごとく王に抜かれて歴代二位にあまんじることとなる。

 記録面では王に立ちはだかられたが、それ以上にライバル心を焚き付けられた相手は、「記録より記憶に残る男」長嶋茂雄であった。京都府北部の寒村に生まれ育ち、甲子園に無縁な無名高校を出て、テスト生として辛うじてプロ野球選手に潜り込んだ野村にとって、東京六大学のスター選手として華々しく巨人に入団、いきなり本塁打王打点王の二冠を獲得して新人王、そんな長島はまばゆいばかりの存在であった。

 野村が節目の600号本塁打を達成したときの観客は七千人程度、その時のインタビューで、長嶋ら(王も含めて)をヒマワリにたとえ、そして自らをひと目につかずひっそりと咲く月見草に擬したのであった。

 
○12月「イヤミ氏の『シェー』大流行」
 赤塚不二雄の『おそ松くん』に登場する名わき役「イヤミ氏」の得意ギャグで、誰しも一度はやってみたことのあるシェーのポーズ。そう、ゴジラビートルズも、そしてあのアイルトン・セナもやったのである(笑) 

 キザな西洋かぶれの軽佻浮薄男で、ミーだのザンスという言葉を乱発、おそらく当時人気のコメディアン「トニー・タニー」から思いつかれたキャラクターだと考えられる。ネコも杓子もまねたリアル・ギャグには、あのタケシのコマネチさえ対抗できない。

 
○1965年(s40) TV人気番組
「FBI」(TBS)
「ザ・ガードマン」(TBS)
「0011ナポレオンソロ」(NTV)
青春とはなんだ」(NTV)
バークレー牧場」(NET)
11PM」(NTV)
オバケのQ太郎」(TBS)