【「敏感っ子を育てるママの不安がなくなる本/長岡真意子著」書評】

【「敏感っ子を育てるママの不安がなくなる本/長岡真意子著」書評】

https://www.amazon.co.jp/敏感っ子を育てるママの不安がなくなる本-長岡-真意子/dp/4798057142

f:id:naniuji:20190706163603j:plain

 いわゆる「子育てハウツー本」という形での出版だが、中身はそれ以上のものがある。もはや子育てとは無縁の古稀を過ぎた自分であり、長年ハウツーものを手にすることもなかったのだが、ひょんなことから読む機会を得た。

 HSC="Highly Sensitive Child"ないしHSP="Highly Sensitive Person"という用語さえまったく知らなかったが、下記サイトなどにあるセルフテストをやってみると、なんとほぼすべての項目に該当した。

HSPのすべて|特徴・診断・適職・敏感で生きづらい理由と対処法について | Take it easy for HSP

 

 自分の子供の頃、ひたすら周りからよく思われたいと思っているにもかかわらず、なかなか友達が出来なくて、仲間外れにされている感じが強かった。これを自分では、「神経質・利己的・内向的・非社交的・陰気・引っ込み思案」な性格のせいだと考え、何ひとつ良い点が見いだせなかった(笑)

「センシティヴ」というと、音楽や絵画などの芸術分野で感受性が高いことだとのイメージが強く、それらはまったく自分には無かったので、無縁の世界だと考えていたわけだ。


 若いときにはそれなりに生きづらさを感じて、なにかと悩んだものだが、いま改めてHSP/HSCといった近年提唱される心理学に照らしてみると、なるほどと思われることが多い。つまり、子育てとは無縁な状況にある自分にも、きわめて興味深い心理学書哲学書・人生論として読めたのだった。

 

 著者の長岡真意子氏は、下記サイトのプロフィールにあるように、

アラスカ州に16年暮らした後、2015年8月米国東海岸ワシントンDC近郊へ引越し。
森と海に囲まれた小さな町で南米出身の夫&二男三女と暮らしたのち、現在東京在住(先日帰米されたもよう)。》

と、海外の文化・生活に詳しく、さらに、5人の子供を育て上げた実体験に裏打ちされた記述には、極めて説得力がある。しかも、子育てママがちょっとした空き時間にも読めるような平易な記述で、自然な形で深い内容に触れられるように語られている。

管理人:長岡真意子プロフィール | ユア子育ちスタジオ

 

 

【14th Century Chronicle 1381-1400年】

【14th Century Chronicle 1381-1400年】

 

◎第三代将軍足利義満

*1381.3.11/ 足利義満(24)が造営させた室町第(花の御所)に、後円融天皇(24)が行幸する。

*1383.1.14/ 将軍義満が源氏長者となる。

*1385.8.26/大和 将軍義満が、摂政二条義基らと春日社に参詣する。

*1386.10.21/丹後 将軍義満が丹後の天橋立に遊ぶ。

*1388.9.16/駿河 将軍義満が駿河に遊覧し、富士山を観る。

*1389.3.11/安芸 将軍義満が厳島社に参詣し、途中で細川頼之や大内義弘らと会談する。

*1389.9.16/紀伊 将軍義満が高野山に参詣する。

*1391.4.3/ 管領斯波義将が辞任した後、細川頼之の弟で養子になっていた頼元を管領とし、頼之が補佐する。

*1391..2.30/京都 京都に攻め上がってきた山名氏清・満幸が、幕府軍に打ち破られ、「六分一衆」と呼ばれた山名氏は大幅に勢力を削がれる。(明徳の乱

*1392.閏10.5/ 南朝後亀山天皇北朝後小松天皇に神器を譲る形で、「南北朝合一」が成る。

*1394.12.17/ 足利義満征夷大将軍を辞任し、子の義持に譲る。義満は太政大臣の職位で、実権は握り続けた。

*1396.9.20/近江 延暦寺大講堂供養が行われ、義満(39)は法皇行幸を擬した様式で受戒し、その権威を知らしめた。

*1397.4.16/ 京都北山の北山第(金閣)の上棟が行われ、義満は出家後の政庁としてこの地を定める。

*1398.6.-/ 義満が畠山基国管領に抜擢し、三管領四職の制が整う。

*1399.11.29/和泉 幕府軍が、大内義弘の堺城を攻撃する。(応永の乱

f:id:naniuji:20190708100236j:plain

  足利義満は、1358(正平13)年8月、2代将軍義詮の子として生まれ、正室の子が夭折したため、早くから嫡男として扱われた。義満が幼少のころ、幕府は南朝との抗争が続き、さらに足利家の内紛である観応の擾乱など、幕政をめぐる争いが深刻さを増していた。

 1366(正平21)年、後光厳天皇から義満との名を賜り従五位下に叙せられた。翌1367(正平22)年、義詮は重病となると、義満に政務を委譲し、細川頼之管領として義満の後見を託したのち死去し、義満(10)が第3代将軍として足利将軍家を継いだ。

f:id:naniuji:20190708100549j:plain

 1378(天授4)年には、邸宅を三条坊門より北小路室町に移し、幕府の政庁とした(室町第)。「室町幕府」という呼称は室町第の所在地に由来し、やがて「花の御所」と呼ばれ、義満の代による繁栄の象徴となる。

 本格的に政務を仕切るようになった義満は、京都市内の行政権や課税権なども幕府に一元化するとともに、守護大名の軍事力に対抗しうる将軍直属の常備軍である奉公衆を設け、さらに奉行衆と呼ばれる実務官僚の整備をはかった。

 f:id:naniuji:20190708100401j:plain

 1382年には相国寺の建立、1385年には東大寺興福寺などの南都寺院を参詣、1388年には駿河で富士山を遊覧し、1389年には安芸厳島神社を参詣するなど、視察を兼ねたデモンストレーションで、義満は自らの権勢を誇示した。

 一方で、1379年、幕府内の対立で、管領細川頼之の罷免を求められ、後任の管領斯波義将を任命するなど内紛があるが、細川・斯波の抗争を利用して将軍権の強化を図ったともみられる。さらに1391年には、「六分一殿」と称された有力守護大名山名氏の内紛に介入し、討伐する(明徳の乱)。

 

 鎌倉時代以来猛威を振るった寺社勢力に対しても、興福寺延暦寺の僧徒が神木や神輿を奉じての強訴に慄く公家たちを差し置いて、義満はまったく動ぜずこれらを鎮圧し、一方で仏事再興にも取り組むなどの硬軟両様の使い分けで、これらの勢力をも指揮下に置いた。

 そして義満は、1378年に右近衛大将に任ぜられ、さらに権大納言を兼務するなど、公家社会でも地位を高め、1383年には内大臣左大臣に就任し源氏長者となって、名実ともに公武両勢力の頂点に上り詰め、公武の一体化を推し進めた。

 

 1392年には南朝方の主要武将楠木正勝の河内国千早城が陥落し、南朝勢力が衰微すると、義満は南朝後亀山天皇と和平をすすめ、北朝後小松天皇に吸収する形で、南北朝の合一を実現させた(明徳の和約)。

  義満は1394(応永1)年には、将軍職を嫡男の足利義持に譲って隠居するが、政治上の実権は握り続け、同年、従一位太政大臣にまで昇進する。翌年には出家して道義と号したが、これは征夷大将軍太政大臣として公武の頂点に達した義満が、残る寺社勢力を支配する地位をも得ようとしたためとされる。

f:id:naniuji:20190708100642j:plain

 義満は早くから明との交易を望んでいた。しかし当時の明王朝は、中華思想から朝貢貿易しか認めておらず、太政大臣征夷大将軍という天皇の臣下の身分では相手にされなかった。そこで義満は、太政大臣を辞し出家した。

 1401(応永8)年、明皇帝は義満を「日本国王」に冊封し、両国の国交が正式に樹立され、1404(応永11)年から勘合貿易が始められた。なお「日本国王」とは、明の皇帝が臣下として冊封国の代表と認めた称号に過ぎず、決して義満が天皇に代わって皇位を簒奪したという意味ではない。

f:id:naniuji:20190708100715j:plain

 1397(応永4)年、義満は京都北山に舎利殿金閣)を中心とした「北山殿」(後の鹿苑寺)を造営し、本格的にこの山荘に移り住むと、ここを活動の拠点とした。この義満の治世に開花した文化は、武家様・公家様・唐様(禅宗様)が融合した「北山文化」と呼ばれる。

 1408(応永15)年4月、義満は病に倒れ、5月6日に死去する。享年51。

 

(この時期の出来事)

*1383.3.27/筑後 南朝の征西将軍として、九州で勢力を広げた懐良親王(55)が、隠棲先で失意のうちに亡くなる。

*1384.5.4/駿河 能楽を大成した観阿弥が、静岡の浅間社で能を演じる。その半月後、死去する。

*1399.5.10/山城 一条竹鼻で、世阿弥らが勧進猿楽を行う。

 

 

【14th Century Chronicle 1361-80年】

【14th Century Chronicle 1361-80年】

 

南北朝の動乱

*1361.12.8/ 楠木正儀細川清氏南朝軍が京都に迫り、将軍足利義詮後光厳天皇を奉じて近江に逃れる。

*1362.9.-/伊豆 鎌倉公方足利基氏が、畠山国清を降伏させる。

*1363.3.24/相模 鎌倉公方基氏が、上杉憲顕関東管領に任命する。

*1364.7.7/ 北朝光厳法皇(52)没。

*1367.4.29/ 南朝と幕府の講和が不調に終わる。

*1367.11.25/ 病床の将軍義詮が、政務を足利義満(10)に譲り、細川頼之(39)を執事(管領)とする。まもなく義詮(38)は死去する。

*1368.3.11/ 南朝後村上天皇(41)が没する。

*1368.12.30/ 足利義満が、第三代室町将軍となる。

*1369.1.2/ 南朝方の楠正儀が幕府に降伏する。

*1371.2.19/九州 今川了俊九州探題となる。

*1373.8.10/河内 南朝から幕府に帰順した楠正儀が、天野行宮を襲う。長慶天皇は吉野に逃れる。

*1378.3.10/ 将軍義満が、花の御所と呼ばれる室町の新邸に移る。

*1379.閏4.14/ 管領細川頼之が、義満に解任され京都を去る。代わって斯波義将が後任の管領に任命される。(康暦の政変)

 f:id:naniuji:20190702090655j:plain

 南北朝は、鎌倉時代半ば1246(寛元4)年、後嵯峨天皇後深草天皇に譲位後、皇統は大覚寺統持明院統に分裂した。そして鎌倉幕府の仲介によって、大覚寺統持明院統が交互に皇位につく事(両統迭立)が取り決められてた。

 1333(元弘3)年、大覚寺統の「後醍醐天皇」は討幕の綸旨を発し、これに応えた足利尊氏新田義貞らの働きで鎌倉幕府を滅ぼし、1333(元弘3)年6月、「建武の新政」がはじまった(元弘の乱)。しかし、すでに浸透していた武士社会の慣習を無視した後醍醐天皇の親政は、実質上、鎌倉幕府を滅ぼした武士たちの支持を得られなかった。

 f:id:naniuji:20190702090745j:plain

 北条氏残党による「中先代の乱」を討伐に鎌倉向にかった尊氏は、そのまま新政から離反して、鎌倉で独自の武家政権創始の動きを見せた。後醍醐天皇はこれを反逆とみなし、新田義貞に尊氏討伐を命じて「建武の乱(延元の乱)」がはじまる。

 後醍醐天皇に反旗をひるがえした足利尊氏は、新田義貞北畠顕家楠木正成らの奮闘に苦戦するが、湊川の戦い楠木正成に勝利して入京する。1337(延元1)年11月、足利尊氏は、持明院統光明天皇を京都に擁立(北朝)し、建武式目で施政方針を定めて正式に幕府を開いた。

 f:id:naniuji:20190702090821j:plain

 後醍醐天皇は京都を出て、奈良の吉野へ逃れて南朝吉野朝廷)を開き、ここに南北朝の対立が始まる。以後、1392(元中9年/明徳3)年、両朝が合一(明徳の和約)するまで、60年にわたる南北朝動乱が続くことになる。

  南朝方は北畠顕家新田義貞らが次々と戦死し、さらに1339(延元4)年8月、後醍醐天皇崩御して、北朝方が圧倒的に優位に立つ。1348(正平3)年には、四條畷の戦い楠木正成の子楠木正行・正時兄弟が高師直に討たれ、吉野行宮が陥落すると後村上天皇は賀名生(奈良県五條市)へ逃れ、南朝は消滅の危機に追い込まれる。

 

 しかしその後、足利政権の政務を担う足利直義と、足利家執事で軍事を担当する高師直との対立が表面化、直義が高兄弟を討つと、さらに足利尊氏と直義の兄弟が対立することになる。1351(正平6)年には、尊氏が直義派に対抗するために一時的に南朝と講和し、「正平一統」が成立した。

 尊氏は、鎌倉へ逃れた直義を追って東海道を進み、破れた直義は鎌倉で幽閉された後、急死する(観応の擾乱)。南朝方はこの機に乗じて京都へ進攻し、神器を接収し北朝上皇天皇を賀名生へ連れ去った。北朝は、後光厳天皇を神器無しで即位させ、再度尊氏が将軍に復帰するなど、混乱が続く。

 f:id:naniuji:20190702091045j:plain

 1358(正平13)年、足利尊氏が死去した際など、南朝勢は何度も反攻に出て京都に侵入したりするが、徐々に劣勢が明らかになってゆく。1368(正平23)年、南朝で強硬派の長慶天皇が即位すると、和平派の楠木正儀南朝内で孤立し、足利幕府管領細川頼之の誘導で、正儀は幕府に帰順する。

 南朝は強硬路線をとったことで、中心的武将の楠木正儀を失い、かえって勢力を落とす。南朝が衰微していく一方で、第三代将軍足利義満が実権を集中的に握ると、その勢力差は歴然となった。

 f:id:naniuji:20190702091111j:plain

 1383(弘和3)年には北畠顕能懐良親王が続けざまに死去、和平派の後亀山天皇が擁立され、南朝の指揮官は正義の嫡子楠木正勝が継ぐが、正勝は1392(元中9)年に本拠地である千早城を喪失し、南朝北朝に抵抗する術を殆ど失うようになる。

 このような情勢の中で1392(元中9)年、足利義満の差配で、南朝後亀山天皇北朝後小松天皇三種の神器を渡す形で南北朝が合体した(明徳の和約)。権力を確固たるものにした義満は、北小路室町に「花の御所」と呼ばれる将軍邸宅を築き、太政大臣にまで昇進し、その御所の場所から、後に室町幕府と呼ばれる時代の最盛期を迎える。

 

 

【14th Century Chronicle 1341-60年】

【14th Century Chronicle 1341-60年】

 

◎足利政権内紛と観応の擾乱

*1342.11.11/常陸 高師冬が、南朝方の関東の拠点 関・大宝の両城を落とし、北畠親房は逃れて吉野へ向かう。

*1348.1.5/河内 南朝軍の将帥楠木正行(正成の子)が、四条畷高師直と戦い敗死する。後村上天皇は吉野を捨てて賀名生に逃れる。

*1348.1.28/大和 高師直が、吉野の行宮を襲い焼き払う。

*1349.閏6.2/ 足利直義と将軍尊氏の執事高師直が、不和となり対立する。

*1349.8.13/ 高師直足利直義を急襲し、直義が逃げ込んだ尊氏邸を包囲する。尊氏は、政務を任せていた直義の任を解くことで、師直と調停をはかる。

*1249.10.22/ 尊氏の子 足利義詮が鎌倉から京へ戻り、直義に代わって政務を執る。その後、直義は出家する。

*1350.10.26/ 足利直義が、兄の将軍足利尊氏と不和となり京都から脱出、両者の対立が決定的となる。(観応の擾乱

*1351.1.15/ 直義方の軍勢が京に攻め入り、尊氏・義詮の軍と四条河原で戦う。

*1351.2.26/摂津 足利尊氏高師直の軍勢は、芦屋打出浜で足利直義軍に大敗し、尊氏は高師直・師奏兄弟の出家を条件に和議を結ぶ。しかし直義方の上杉能憲は、京へ護送中の師直・師奏兄弟を殺害する。

*1351.11.15/相模 再び尊氏と対立するようになった直義は、鎌倉に逃れる。翌年初め、尊氏の追討軍に降伏し幽閉される。 

*1952.2.26/相模 足利尊氏(48)は、幽閉中の直義(47)を毒殺する。

*1355.1.16/ 直義の養子直冬が南朝方と結び入京、尊氏・義詮軍と激しく戦うも、3月12日敗退し京を去る。

*1356.19/越前 足利直冬方の重鎮斯波高経が、尊氏に帰順し、幕府政治の内部に組み込まれる。

*1358.4.30/ 数年来、戦闘での古傷に侵されていた足利尊氏(54)が没する。12月には、足利義詮が2代将軍に就く。

*1359.2.7/関東 鎌倉公方足利基氏が、京都の将軍義詮の南朝攻撃計画に協力し、関東諸氏に対し動員令を出す。

*1359.12.23/近畿 将軍足利義詮南朝攻撃のため、京を発ち摂津尼崎に向かう。南朝後村上天皇は河内に移る。

f:id:naniuji:20190626095100j:plain
 足利政権の初期には、将軍足利尊氏が軍事指揮権を持ち、足利家執事の高師直がその補佐として実力を行使する一方で、尊氏の弟足利直義が専ら政務(訴訟・公権的な支配関係)を担当するという、二元的な体制をとっていた。

 「足利直義」は鎌倉時代の執権政治の制度を継承し、訴訟事を裁定することが多く、結果的に有力御家人や公家寺社など、既存領主の権益を保護する性格を帯びた。これに対し、鎌倉討幕に与した新興武士団の多くは、従来からの権威を軽んじ、自らの武力によって利権を獲ようとする性向があり、「高師直」はこのような新興勢力を統率して南朝方との戦いを遂行していた。

f:id:naniuji:20190626095238j:plain

 1339(延元4)年に後醍醐天皇が没すると南朝勢力は沈静し、高師直・師泰兄弟の活躍の場が減り、足利直義が仕切る法・裁判による平時政治が際立つことになる。しかし1347(正平2)年になると、楠木正成の子 正行が京都奪還を目指して蜂起し、京はにわかに不穏となる。

 直義は細川顕氏畠山国清を派遣するも敗北を喫し、さらに山名時氏を増援に派遣するも京都に敗走してしまう。代わって起用された高師直・師泰兄弟は、翌1348(正平3)年四條畷の戦いで正行を討ち取り、勢いに乗じて南朝の本拠地吉野を陥落させる。そのため師直の勢力が増すようになった。

f:id:naniuji:20190626095152j:plain

 この時期、政務を彼らに委ねて隠居状態だった足利尊氏に対して、1349(貞和5)年6月、直義は、師直に専横悪行ありとして執事職を免じるように尊氏に迫り、師直は執事職を解かれる。ここで足利直義高師直の対立は極まった。

 同8月、師直は師泰とともに逆クーデターを仕掛け、急襲された直義は尊氏の屋敷に逃げ込む。しかし師直方の軍勢は将軍御所を包囲し、尊氏にも圧力を掛けて直義を出家させてしまう。11月に義詮が入京し、12月直義は出家したことで、一旦、内紛は収まるかにみえた。

f:id:naniuji:20190626095343j:plain

 尊氏の実子だが認知されず、直義の養子になっていた足利直冬は、事件を知って義父 直義のために立ち、九州で地盤を固め始めた。北朝が「貞和」から「観応」に改元した1350(観応)1年11月、西で拡大する直冬の勢力をみて、尊氏は自ら追討のために出陣する。

 しかし、この直前10月26日に直義は京都を出奔ししており、河内石川城に入城すると、師直・師泰兄弟討伐を呼びかけて決起する。尊氏は備後から軍を返し、高兄弟も加わり、北朝光厳上皇による直義追討令を出させると、12月に直義は一転してそれまで敵対していた南朝方に降り、対抗姿勢を明確にする(観応の擾乱)。

f:id:naniuji:20190626095554j:plain

 足利尊氏と直義は、一歳違いの仲の良い同母兄弟で、足利政権でも役割を分掌してうまく進めていたにもかかわらず、一連の流れの中でついに対決することになる。1351(観応2)年1月、直義軍は京都に進撃し、留守を預かっていた足利義詮備前の尊氏の下に落ち延びた。

 2月、尊氏・師直軍は京都を目指すが、播磨光明寺城での光明寺合戦及び摂津打出浜の戦いで、直義軍に相次いで敗北する。直義の優勢を前に、尊氏は直義との和議を図り、師直・師奏兄弟の出家で折り合ったが、事実上は殺害を認めていたらしい。

f:id:naniuji:20190626095646j:plain

 高兄弟は京への護送中に謀殺され、長年の政敵を排した直義は義詮の補佐として政務に復帰、九州の直冬は九州探題に任じられた。しかし政権内部では直義派と反直義派との対立構造は残されたままで、武将たちは独自の行動を取り、両派の衝突が避けられない状況になっていた。

 政権内で尊氏派が勢力を増し、直義派がじり貧となっていくなか、尊氏と義詮が直義を挟撃する事態となり、状況を察した直義は自派の武将を伴い鎌倉へ逃げる。京から直義派を排除したが、直義は関東・北陸・山陰を抑え、西国では直冬が勢力を拡張しため、尊氏は直義と南朝の分断を狙い、南朝に和議を提案する。

 

 1351(観応2)年10月24日、尊氏は南朝に譲歩する形で和睦し、12月には南朝方が神器を回収するなど、実質的には北朝方の南朝側への吸収合一となった。元号北朝の観応が廃され、南朝の正平6年に統一されたので、これを「正平一統」と呼ぶ。

 義詮に具体的な交渉を任せ、尊氏は直義追討のために出陣する。尊氏は直義軍を打ち破り、1352(正平7)年1月には鎌倉に追い込んで降伏させる。直義は浄妙寺に幽閉され、2月26日に急死する。病没とされているが、尊氏による毒殺説がある。

 

 直義の死により観応の擾乱は幕が引かれるが、九州では直義の養子足利直冬が勢力を保っていた。1354(正平9)年5月、直冬は石見から上京を開始し、翌1355(正平10)年1月には南朝と結んで京都を奪還する。しかし義詮軍にに打ち破られ崩壊した直冬勢力は、東寺に拠って戦闘を継続したが、最後には尊氏が自ら率いる軍が東寺に突撃し直冬は撃破され敗走する。

 直冬は西国で以後20年以上生き延びたようだが、消息は明確でない。一方、尊氏はこの一連の戦闘の間に受けた矢傷が原因となり、1358(正平13)年に戦病死している。なお、正平一統は4ヶ月で崩壊するが、南朝は足利政権の内乱のせいで、後醍醐天皇亡き後も、何度も京都に攻め入るなど勢力を盛り返し、北朝側と一進一退の攻防を繰り返すが、やがて勢力を消耗し、北朝に吸収されてゆく。

 

(この時期の出来事)

*1341.12.23/ 足利直義夢窓疎石と協議し、天龍寺建立の費用を捻出するために、宋に天龍寺船の派遣を決める。

*1345.8.26/ 天龍寺落慶供養が行われる。

 

【14th Century Chronicle 1321-40年】

【14th Century Chronicle 1321-40年】

 

鎌倉幕府の滅亡

*1324.9.19/京都 後醍醐天皇の討幕計画が発覚、六波羅探題の軍勢により鎮圧される。(正中の変

 *1326.3.13/ 北条高時(24)が病を理由に出家する。後継を巡り内紛が起こり混乱する(嘉暦の騒動)も、高時は遊行にふけり政務をおろそかにするようになる。

*1331..8.24/ 後醍醐天皇の討幕計画が、側近の密告により露顕、後醍醐は神器を奉じて御所を脱出、山城国笠置山において挙兵する。(元弘の乱

*1331.9.11/河内 楠木正成が赤坂城で挙兵する。

*1331.9.29/山城 幕府軍が笠置を攻略、後醍醐天皇を捕らえる。天皇は翌年、隠岐へ配流される。

*1331.10.21/河内 赤坂城が陥落し、楠木正成は脱出する。

*1332.11.-/大和・河内 後醍醐の子 護良親王が吉野で兵を挙げ、呼応して楠木正成千早城で挙兵する。

*1333.4.29/丹波 山陰道を西に向かっていた足利高(尊)氏が、篠村(亀岡)で天皇方に転じ、一期に状況が一変する。

*1333.5.7/京都 足利高氏赤松則村らが六波羅を攻略する。

*1333.5.21/鎌倉 新田義貞軍が稲村ヶ崎から鎌倉に突入、北条高時(31)ら一族は東勝寺で自刃し、鎌倉幕府が滅びる。

f:id:naniuji:20190621205855j:plain

  幕府の朝廷への介入したことによって、持明院統大覚寺統両統迭立となった皇統は、さらに大覚寺統内では、嫡流後二条天皇派と本来中継ぎであった後醍醐天皇派に分かて対立していた。そして、幕府は朝廷内の争いに巻き込まれていくことになった。

 1318(文保2)年、後醍醐天皇が即位すると、天皇を中心とする政治体制の再構築を企てた。こうした後醍醐天皇の姿勢は、幕府の得宗専制と衝突することとなった。1324(正中1)年、後醍醐天皇の倒幕計画が露呈すると、天皇派の土岐頼兼・多治見国長らが討たれ、日野資朝日野俊基など側近公家が処罰された(正中の変)。

f:id:naniuji:20190621205948j:plain

 1331(元弘1)年、再び後醍醐天皇の倒幕計画が発覚し、六波羅探題が軍勢を御所に送り込むと、後醍醐は御所を脱出し、山城国笠置山にこもり挙兵する。さらに後醍醐の皇子 護良親王が吉野で、河内国の悪党 楠木正成が下赤坂城で挙兵した(元弘の変)。

 幕府は足利高氏(尊氏)・新田義貞らの討伐軍を差し向け、9月に笠置山は陥落(笠置山の戦い)、次いで吉野も陥落し、楠木軍の下赤坂城のみが残った。劣勢の楠木正成軍は、奇策を駆使して対抗するが、10月、自ら下赤坂城に火をかけて姿をくらませる(赤坂城の戦い)。

 f:id:naniuji:20190621210026j:plain

 後醍醐は幕府に捕らえられ、翌年、隠岐島に配流され、倒幕運動は鎮圧されたかに見えた。幕府は後醍醐天皇を廃し、持明院統光厳天皇を即位させ、元号を正慶と改めさせる。しかし潜伏して機をうかがっていた楠木正成は、1332(正慶1)年、河内国金剛山千早城で挙兵し、同月、護良親王も吉野で挙兵して倒幕の令旨を発した。

 幕府は大軍を差し向け、先ず正成の悪党仲間の平野将監入道らが守る上赤坂城を攻め落とす。さらに、吉野でも護良親王が敗れる。しかし、楠木正成はわずかな軍勢で千早城に篭城し、奇策奇襲を用いて90日間にわたって大軍を相手に戦い抜いた(千早城の戦い)。

f:id:naniuji:20190621210103j:plain

 播磨国で挙兵した赤松則村は、周辺の後醍醐方を糾合し京都へ進撃する勢いであった。この状況を見て、1333(元弘3)年閏2月、後醍醐天皇隠岐島を脱出し、伯耆国の船上山に入って倒幕の綸旨を天下へ発した(船上山の戦い)。

 幕府は船上山を討つため足利高氏名越高家らの援兵を送り込んだが、名越高家赤松円心に討たれると、足利高氏は所領のある丹波国篠村八幡宮で幕府へ反旗を翻す。そして5月7日、足利高氏赤松則村らと呼応して六波羅探題を攻め落とし、京都を制圧した。

f:id:naniuji:20190621210133j:plain

 六波羅陥落の翌日、新田義貞上野国で挙兵し、関東御家人を糾合しながら鎌倉を目指し、小手指原の戦い(埼玉県所沢市)を端緒に、何度もの合戦で危機に会いながら鎌倉に迫る。5月21日、新田義貞の軍勢は、海岸線の隘路稲村ヶ崎を干潮を利用して突破、鎌倉市内になだれ込んだ。

 両軍は市中において激戦を繰り広げたが、22日までに幕府軍の有力武将が相次いで戦死・自害し、北条高時はじめ北条氏一族は菩提寺東勝寺に集合し、寺に火を放って自害し果てる(東勝寺合戦)。さらに3日後、九州の鎮西探題も陥落し、鎌倉幕府は完全に消滅した。

 

建武新政から南北朝

*1333.6.5/京都 後醍醐が二条富小路の里内裏に入り、光厳天皇皇位を否定し親政を開始する。

*1333.9.-/京都 土地関係の訴訟を一元化するため雑訴決断所が設置されるが、従来の土地所有制度に混乱を招く。

*1333.10.20/ 奥州将軍府の設立に向けて北畠顕家が出発する。2か月遅れて、これに対抗するように、足利尊氏の意を受けた弟の直義が鎌倉に向かい、鎌倉将軍府を設立する。

*1334.1.12/ 大内裏造営計画が発表され、巨額の費用が課されると、諸国の武士や農民から反対運動が起きる。

*1334.1.29/ 元弘を建武改元する。

*1334.8.-/京都 京都二条河原に新政権批判の落書が掲げられる。

*1335.6.22/ 建武政権の転覆をはかる陰謀が発覚し、西園寺公宗・日野氏光らが捕縛される。

*1335.7.14/信濃 北条高時の遺児時行が、諏訪頼重らに擁立されて挙兵する。(中先代の乱

*1336.1.11/ 後醍醐天皇に反旗を翻した足利尊氏(32)が入京し北畠顕家と激戦、後醍醐天皇は神器とともに東坂本へ避難する。

*1336.5.25/摂津 九州へ敗走していた足利尊氏が、再起し東進して摂津湊川(神戸)で、楠木正成新田義貞と戦い、正成は敗死する。(湊川の戦)

*1336.11.7/京都 足利尊氏が、建武式目17ヶ条を定める。(室町幕府の成立)

*1336.12.21/大和 軟禁されていた後醍醐天皇がひそかに京を脱出、吉野へ入る。(南北朝分裂)

*1338.5.15/和泉 後醍醐天皇の呼びかけに応じて奥羽から西上し、足利軍と戦い続ける北畠顕家(21)が、陣中から後醍醐へ諌言を奏上する。この一週間後、顕家は高師直と戦い敗死する。

*1338.8.11/京都 北朝が、足利尊氏征夷大将軍に任命する。

 *1339.8.16/大和 後醍醐天皇(52)が吉野の行宮で死去する。 

f:id:naniuji:20190623093754j:plain
  1333(元弘3年)6月5日、後醍醐天皇富小路坂の里内裏に入り、光厳天皇皇位を否定し親政を開始する。6月15日には旧領回復令が発布され、従来の土地所有権などに関しては天皇の裁断が必要とすることと定め、9月には雑訴決断所が設置されるが、土地所有権の許認可などを裁ききれず大混乱を引き起こす。

  1334(元弘4)年正月に恒良親王立太子の儀が行われ、年号が「建武」と定められる(建武新政)。大内裏造営計画が発表され、新紙幣の発行も計画されるなど、矢継ぎ早に新政策が発表されるが、新令により発生した所領問題、訴訟や恩賞請求の殺到、記録所などの新設された機関における権限の衝突などの混乱が起こり始め、新政府の問題点が早くも露呈する。

f:id:naniuji:20190623094219j:plain

 足利高氏後醍醐天皇から「尊」の字を賜り「足利尊氏」と改名し、鎮守府将軍に任ぜられ軍事の中枢を担う。その後、北畠顕家が義良親王後村上天皇)を奉じて陸奥将軍府を設立すると、尊氏の弟足利直義成良親王を奉じて鎌倉将軍府を設置した。

 しかし建武の新政は、性急な改革、恩賞の不公平、朝令暮改の政策、貴族・寺社・武士の既得権の侵害、頻発する訴訟の処理不備など、多くの不満が政権批判へとつながり、「二条河原の落書」にみられるようにその無能さを冷笑され、権威を失墜した。

 

  1335(建武2)年6月、西園寺公宗北条泰家らにより政権転覆の陰謀が発覚する。7月には信濃国で、高時の遺児北条時行と叔父の北条泰家が挙兵して鎌倉を占領、鎌倉府の足利直義が追い出される「中先代の乱」が起こる。

 足利尊氏は時行討伐のために征夷大将軍への任命を求めるが、後醍醐天皇に許されず、そのまま尊氏は北条軍の討伐に向かい、時行軍を駆逐する。尊氏は帰京せずに鎌倉に居を据え、独自に恩賞を与えたり領地を収受するなど、後醍醐新政から離反する。

f:id:naniuji:20190623094548j:plain

 後醍醐天皇新田義貞に尊氏追討を命じるが、足利尊氏は新田軍を箱根竹ノ下の戦いで破り入京する。後醍醐天皇側の北畠顕家や義貞らが一旦は足利軍を駆逐するも、足利尊氏は九州で再起して東上、持明院統光厳上皇院宣を得て、1336(建武3)年5月「湊川の戦い(神戸)」において楠木正成らを撃破し、光厳上皇を奉じて京に入った。かくして新政は2年半で瓦解する。

  入京した足利尊氏は、1336(建武3)年8月、光厳上皇の弟光明天皇を即位させ北朝が成立する。11月7日、尊氏は「建武式目17ヶ条」の制定、新たな武家政権の施政方針を示して、実質的な室町幕府の成立となった。尊氏は1338(暦応1)年8月11日に、北朝光明天皇により征夷大将軍に任ぜられる。

f:id:naniuji:20190623095555j:plain
 一方、比叡山に逃れた後醍醐天皇は、足利方に包囲されると比叡山を降り、花山院に幽閉される。機を見て、1336(建武3)年12月に京都を脱出すると、吉野へ逃れて吉野朝廷南朝)を成立させる。ここに、吉野朝廷南朝)と京都の朝廷(北朝)が対立する南北朝時代が到来する。

  南北朝の抗争は、1392(明徳3)年、明徳の和約による南北朝合一まで、約60年間にわたって続くことになる。

 

(この時期の出来事)

*1322.春/奥羽 津軽の安東季長と宗季が家督をめぐって争い、双方に蝦夷勢力が加担し「蝦夷の反乱」の様相を呈する。

*1325.7.18/ 幕府は元に建長寺船を派遣、元との交易が復活する。

*1331.この頃/ 吉田兼好徒然草」が完成する。

*1339.秋/ 北畠親房(顕家の父親)が「神皇正統記」を著す。

 

 

【14th Century Chronicle 1301-20年】

【14th Century Chronicle 1301-20年】

 

◎北条氏得宗家政治の衰退

*1284.4.4/ 執権北条時宗(34)、没。北条貞時(13)が第9代執権に就任する。

*1285.11.17/ 内管領平頼綱が、御家人安達奏盛一族を滅ぼす(霜月騒動)。

*1293.4.22/ 執権北条貞時(23)が、内管領平頼綱を滅ぼし、得宗家督専制政治を確立する(平禅門の乱)。

*1297.3.6/ 幕府は、御家人所領の売買質入れを禁じ、窮乏して手放した所領は無償で取り戻させる。(永仁の徳政令

*1301.8.22/ 北条貞時は、執権職を従兄弟の北条師時に譲り出家するが、実権は握り続ける。

*1305.5.4/ 侍所代官北条宗方の陰謀が発覚、前執権北条貞時の使者により討たれる(嘉元の乱)。

*1308.8.10/ 将軍久明親王が追放され、その子守邦王が征夷大将軍とされる。

*1308.8.-/ 北条貞時が、御内人得宗家家臣)の平政連(中原政連)から素行の改善を願う趣旨の諫状を提出される。

*1311.9.22/ 応長1(1311)年9月22日に執権の北条師時が死去し、北条宗宣が執権に就任する。翌10月26日には北条貞時が死去(41)。

*1316.7.10/ 北条師時・宗宣・煕時・基時と代理的に継がれてきた執権職に、得宗北条高時(14)が就任する。

*1318.3.29/京都 花園天皇が譲位し後醍醐天皇が即位する。

f:id:naniuji:20190619121032j:plain

 第9代執権「北条貞時」は、1284(弘安7)年4月、父時宗が病死し13歳で執権に就任する。幕府内では有力御家人の「安達泰盛」と、得宗内管領の「平頼綱」が対立しており、貞時の外祖父として幕政を主導する立場となった泰盛は、幕政改革を取り仕切った。

 御家人の立て直しを図る泰盛の改革は、将軍を戴く御家人層を拡大し、頼綱ら得宗家官僚の利害を侵すことになった。そして1285(弘安8)年11月、頼綱の讒言により北条貞時は泰盛を討伐する命を下し泰盛派は一掃された(霜月騒動)。

f:id:naniuji:20190619121125j:plain

 これにより、北条得宗家の内管領平頼綱が実権を掌握して権勢を振るった。しかし北条家の家政機関の首長である内管領では、将軍家に仕える有力御家人を押さえて幕政を主導する事に無理があり、強圧的な政権運営を行なうことになった。

 そして成長した貞時は、平頼綱に見切りをつけ、1293(正応6)年4月、鎌倉大地震(永仁の大地震)の混乱に乗じて、平頼綱一族を討滅した(平禅門の乱)。貞時は、政治の実権を内管領から取り戻し、得宗家主導の専制政治を強化した。

 

 二度にわたる元寇御家人たちの奮闘で撃退したものの、外冦ゆえに幕府に得るものは無く、御家人に十分な褒賞を行えなかった。莫大な軍費を費やした中小御家人たちを救済するために、1297(永仁5)年、「永仁の徳政令」(関東御徳政)を発布する。しかし、逆に借金をしにくくなるなど、かえって御家人を苦しめて、経済全般の混乱を招いた。

 1301(正安3)年、鎌倉に彗星が飛来(ハレー彗星)し、擾乱の凶兆との噂が広まると、憂慮した貞時は出家し、執権職を従兄弟の「北条師時」に譲るが、貞時は得宗として幕府を実質的に支配し続けた。

f:id:naniuji:20190619121204j:plain

 しかし元寇で疲弊した社会は、悪党や僧兵が狼藉を働くなど荒れすさみ、貞時は内外に問題を抱え、政治への情熱は失っていった。貞時は次第に政務を怠り酒宴に耽るなどして、御内人の平政連から諫状を受けるありさまだった(平政連諫草)。

  1311年に師時と貞時が続いて死去し、以後、執権職は北条氏支流の3人に受け継がれるが、北条庶家や御内人らによる寄合衆が幕府を主導し、得宗の地位も将軍同様の形式的なものとなっていった。

f:id:naniuji:20190619121230j:plain

 貞時の死去により家督を継いだ嫡子北条高時は、1316年14歳で得宗家執権となるが、在任中には、諸国での悪党の活動や、奥州で蝦夷の反乱、安藤氏の乱などが起きる。

 1318年には後醍醐天皇が即位しており、天皇親政を目指し幕府転覆を計画、正中の変・元弘の変を経て、ついに1333(元弘3)年、「建武の新政」を実現する。関東で挙兵した御家人新田義貞軍が鎌倉へ侵攻するなか、高時(30)は北条一族や家臣らとともに自刃し、鎌倉幕府滅亡に立ち会うことになった。

 

(この時期の出来事)

*1301.11.21/薩摩 薩摩半島西に200余隻が漂着する。

*1313.この頃/ 久我雅忠の娘 二条が「とはずがたり」を著す。

 

 

【13th Century Chronicle 1281-1300年】

【13th Century Chronicle 1281-1300年】

 

元寇弘安の役

*1281.5.21/対馬 元船500余が対馬に侵攻する。(5.29 壱岐へ襲来)

*1281.6.6/北九州 元船が筑前志賀島などに来襲、ついで肥前鷹島を根拠地とする。

*1281.7.29/壱岐 元の東路軍と江南軍が合流、鎮西の武士と交戦する。

*1281.閏7.1/北九州 5月以来北九州を襲っていた元船が、前夜からの大風雨に襲われ、壊滅的な打撃を受ける。

*1281.閏7.5/北九州 日本軍の猛攻により、元は全軍の3/4を失い逃げ帰る。

 f:id:naniuji:20190615214717j:plain

 クビライは日本再侵攻をあきらめず、建治1(1275)年、モンゴル人の礼部侍郎 杜世忠を正使とした使節団を派遣した。しかし執権北条時宗使節団を鎌倉に連行すると、杜世忠らを斬首に処した。

 クビライは使節派遣と並行して、日本侵攻の準備に取り掛かっていたが、南宋の攻略を優先し、建治2(1276)年に南宋を降服させた。その3年後、弘安2(1279)年、再びクビライは再び使節を派遣するが、日本側は前回と同様、日本への服属要求であることを確認すると、博多において使節団一行を斬首に処した。

f:id:naniuji:20190615214810j:plain
 逃げ出した水夫より使節団の処刑が元に伝わると、クビライは日本侵攻軍の司令部・日本行省(征東行省)を設置する。弘安4(1281)年、元・高麗軍を主力とした東路軍と旧南宋軍を主力とした江南軍と合わせて15万人、軍船7千艘が、日本に向けて出航した。

 弘安4(1281)年5月3日、東路軍4万の軍勢が900艘の船で、朝鮮半島の合浦を出航し対馬を侵攻した。さらに東路軍は壱岐に襲来し、ここで合流する予定の江南軍を待たず、そのまま博多湾に侵攻し大宰府占領を目指した。

f:id:naniuji:20190615214901j:plain

 しかし日本側はすでに防衛体制を整え、博多湾岸に約20kmにも及ぶ石築地(元寇防塁)を築いており、東路軍は博多湾岸からの上陸を断念した。東路軍は志賀島に上陸し、ここを軍船の停泊地とした。

 6月9日、攻め寄せる日本軍に大敗した東路軍は、志賀島を放棄して壱岐島へと後退し、江南軍の到着を待つことにしたが、江南軍が合流する期限6月15日を過ぎても現れず、さらに東路軍内で疫病が蔓延、数千人の死者を出すなどして進退極まった。

f:id:naniuji:20190615214953j:plain

 一方、江南軍は東路軍が待つ壱岐島を目指さず、平戸島を目指した。6月中旬頃、総司令官の交代もあり、予定よりより遅れて出航、6月下旬に平戸島鷹島に到着したとされる。

 一方、6月29日に日本軍は壱岐島の東路軍に対して総攻撃を開始、東路軍は日本軍の攻勢による苦戦で、壱岐島を放棄して江南軍と合流するため平戸島に向けて移動した。7月中旬、元軍は新たな計画で平戸島で合流し、大宰府目指して進撃する計画とし、東路軍が鷹島に到着し、江南軍と合流する。

f:id:naniuji:20190615215047j:plain

 7月27日、鷹島沖の元軍艦船隊に対して、集結した日本軍の軍船が攻撃を仕掛けて海戦となった。戦闘は日中から夜明けに掛けて長時間続き、夜明けとともに日本軍は引き揚げていった。

 日本側は六波羅探題から派遣された大軍が北九州の戦場に向けて進撃中であったが、元軍は鷹島に留まって日本軍の鷹島攻撃に備えた。日本の援軍が到着する前の7月30日夜半、台風が襲来し、元軍の軍船の多くが沈没、損壊するなどして大損害を被った。

f:id:naniuji:20190615215436j:plain

 閏7月5日、元軍は軍議を行い撤退することになった。諸将を乗せた船は撤退したが、多くの兵卒は見捨てて残されたままだった。勢いづいた日本軍は、残地された元軍に対して総攻撃を開始、10余万の元軍を壊滅させた。

 

(この時期の出来事)

*1282.12.8/ 北条時宗が鎌倉に円覚寺を創建、宋僧無学祖元を開山とする。

*1284.4.4/ 執権北条時宗(34)、没。

*1284.夏/京都 一遍が、四条釈迦堂などで踊念仏を行う。

*1285.11.17/ 内管領平頼綱が、御家人安達奏盛一族を滅ぼす(霜月騒動)。

*1287.10.2/ 幕府が亀山院政に介入、皇位の紛争が続き、皇統は大覚寺統持明院統に分裂する。

*1293.3.-/筑前 幕府が、元の襲来に備えて鎮西探題をおき、北条兼時・名越時家を任命する。

*1293.4.22/ 執権北条貞時(23)が、内管領平頼綱を滅ぼし、得宗家督専制政治を確立する。

*1297.3.6/ 幕府は、御家人所領の売買質入れを禁じ、窮乏して手放した所領は無償で取り戻させる。(永仁の徳政令