【京都・文学散策3】

【京都・文学散策3】
 

〇京都・文学散策7.二条后・芥川>『伊勢物語』六段


 昔、男ありけり。女のえ得まじかりけるを、年を経てよばひわたりけるを、からうじて盗み出でて、いと暗きに来けり。芥川といふ河を率ていきければ、草の上に置きたりける露を、「かれは何ぞ」となむ男に問ひける。

 ゆくさき多く、夜もふけにければ、鬼ある所とも知らで、神さへいといみじう鳴り、雨もいたう降りければ、あばらなる蔵に、女をば奥におし入れて、男、弓・胡ぐひを負ひて戸口に居り。はや夜も明けなむと思ひつつゐたりけるに、鬼はや一口に食ひてけり。

 「あなや」といひけれど、神鳴るさわぎに、え聞かざりけり。やうやう夜も明けゆくに、見ればゐて来し女もなし。足ずりをして泣けどもかひなし。

   「白玉かなにぞと人の問ひし時 露と答へて消えなましものを」

 これは、二条の后のいとこの女御の御もとに、仕うまつるやうにてゐたまへりけるを、かたちのいとめでたくおはしければ、盗みて負ひて出でたりけるを、御兄人(せうと)堀河の大臣、太郎国経の大納言、まだ下らふにて内へまいりたまふに、いみじう泣く人あるを聞きつけて、とゞめてとりかへしたまうてけり。

 それを、かく鬼とはいふなりけり。まだいと若うて、后のたゞにおはしける時とや。

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 長年、想いをかけていた身分の高い女と、今でいえば、やっとのことで駆け落ちに成功した。摂津の国、芥川近くまで来て、荒れた蔵で一夜を凌ごうと、戸口に仁王立ちで番をしていたが、あっという間に、女は鬼に食われてしまった。世間知らずの気高い女が、途中で草においた露を「あれは真珠なの」と訊ねた時に、露だよと答えて、二人で露のように消えてしまえばよかった、などと涙を流した。


 伊勢物語の主人公は「在原業平」に擬せられているが、ここでの相手の女性は「二条の后」と示されている。これは、臣下で最初の関白となった「藤原基経」の妹で、「藤原高子」(たかいこ)のことを指す。高子は、やがて清和天皇の女御となり、陽成天皇の母として皇太后とされた。


 しかし、権勢を誇った実兄の基経とは不仲だったらしく、自腹の陽成天皇を廃位され、後年、自身も高僧との不義を疑われ、皇太后の立場からも追われた。在原業平との関係は、伊勢物語の幾つかの説話から、逆に推測されたものかとも思われる。いずれにせよ、スキャンダラスな噂から、さらにいくつもの伝説が紡ぎ出されるのであろう。


 二条の后は、伊勢物語、第三段「ひじき藻」、第四段「西の対」、第五段「関守」、第六段「芥河」と引き続いて登場する。その中で「男」は、
 「思ひあらば葎(むぐら)のやどにねもしなん ひしきものには袖をしつつも」
 「月やあらぬ 春や昔の春ならぬ 我が身一つは元の身にして」
 「ひとしれぬわが通ひ路の関守は 宵々ごとにうちも寝ななん」
などと、いかにも切なげな歌を連ねており、伊勢物語の中でも、ひときわ優れたロマンス・シリーズとなっている。


*藤原高子「二条后」の生涯(漫画で読めるw)>https://matome.naver.jp/odai/2145898250791155601

+1.芥川「白玉か」 +2.「あなや」 +3.現在の芥川上流 +4.「月やあらぬ」
 

〇京都・文学散策8.大徳寺高桐院・舟岡山>『興津弥五右衛門の遺書』森鴎外


 明日切腹候場所は、古橋殿とりはからいにて、船岡山の下に仮屋を建て、大徳寺門前より仮屋まで十八町の間、藁むしろ三千八百枚余を敷き詰め、仮屋の内には畳一枚を敷き、上に白布を覆いこれありそろ由に候。いかにも晴がましく候て、心苦しく候えども、これまた主命なれば是非なく候。

 ・・・

 正保四年十二月二日、興津弥五右衛門景吉は高桐院の墓に詣でて、船岡山の麓に建てられた仮屋に入った。畳の上に進んで、手に短刀を取った。背後うしろに立っている乃美市郎兵衛の方を振り向いて、「頼む」と声を掛けた。白無垢の上から腹を三文字に切った。

 乃美はうなじを一刀切ったが、少し切り足りなかった。弥五右衛門は「喉笛を刺されい」と云った。しかし乃美が再び手を下さぬ間に、弥五右衛門は絶息した。


 仮屋の周囲には京都の老若男女が堵のごとくに集って見物した。落首の中に「比類なき名をば雲井に揚げおきつ やごゑを掛けて追腹を切る」と云うのがあった。

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 明治天皇崩御を受けて大喪の礼が取り行われ、式典に参列したその日の夜、乃木希典夫妻は自刃して果てた。乃木大将の殉死は、各界に衝撃を与えた。夏目漱石は、その刺激を受けて、数年後『こゝろ』を著した。一文人であった漱石に対して、陸軍軍医総監まで登り詰めた森鴎外は、明治天皇や乃木大将と直接接することもあったと思われ、より直接的な衝撃を受けたはずである。

 乃木の殉死の報を受けた森鴎外は、数日で『興津弥五右衛門の遺書』で書き上げた。自死と倫理の問題を取り上げた「こゝろ」に比して、鴎外は「興津・・・」で、殉死切腹に至る過程を、あくまで坦々と描いた。


 興津弥五右衛門は、主君細川忠興三斎公に重臣として長年仕え、三斎公が亡くなると、点在する公の由縁の在所の始末を終え、京の菩提寺、紫野大徳寺高桐院に納骨の儀を無事済ませた。三斎公の弔い事をすべて一手にやり終えると、弥五右衛門は後継の主君に「殉死」を願い出た。

 興津弥五右衛門は、殉死を願い出るまでの主君との経緯を、綿々と「遺書」にしたためた上、翌朝、切腹の儀に臨む。菩提所「高桐院」を出て、「船岡山」の麓に設えられた仮屋の切腹所に向かう。その間、「十八町の間、藁むしろ三千八百枚余を敷き詰め」と書き記し、その晴れがましさに感嘆の念を感じている。

 弥五右衛門は、殉死を名誉と喜び、オスカーのレッドカーペットを歩むがごとく、晴々とした気持ちでプロムナードを歩んだ模様である。鴎外は、乃木大将の殉死の意図を、弥五右衛門に代弁させたかったのかも知れない。以後、鴎外は、多数の歴史小説を著すことになる。



 京都洛北紫野の大徳寺にある塔頭「高桐院」は、細川家の菩提寺で、墓所には細川忠興公はじめ代々の墓があり、脇には、忠興が生前こよなく愛でたとして、忠興とガラシャ夫人の墓塔とされる「春日灯籠(別名ガラシャ灯籠)」もある。この石燈籠は利休愛蔵のもので、秀吉に所望されても傷があるとの理由で手放さなかったという。後に忠興の所有となったが、「完璧すぎる」として笠の後ろ部分を、わざと欠き落としたという。また、さらに裏手には非公開の墓地もあり、そこには出雲阿国などとともに、興津弥五右衛門の墓もある。



 切腹の仮屋が設けられたという「船岡山」は、応仁の乱のとき、西軍の拠点となった「西陣」地区の北端に位置する小高い丘で、激しい合戦の地となったという。また「枕草子」で「岡は船岡」と称えられ、平安の時代から親しまれている。平安京の真北に位置し、風水でいう四神で北方を守る「玄武」に例えられることもある。現在では、山麓に公園や野外公会堂なども設けられ、市民の気軽な行楽の場となっている。
 

+1.高桐院、石畳と青竹の垣根の参道が美しい +2.主君三斎公に依頼された香木を献上する興津弥五右衛門 +3.細川家代々の墓 +4.船岡山から北方の大徳寺、紫野高校を望む +5.傘を欠き落とされたガラシャ灯籠 +6.高桐院と船岡山の位置関係
 

〇京都・文学散策9.両替町井原西鶴好色一代男』巻一、九歳「人には見せぬところ」
 

「人には見せぬところ」


 鼓もすぐれて興なれども、跡より恋の責くればと、そこばかりを明くれうつ程に、後には親の耳にもかしかましく、俄にやめさて、世をわたる男芸とて、両替町に春日屋とて。母かたのゆかりあり。

 此もとへ、かね見習ふためとてつかはし置きけるに、はや、死に一倍、三百目の借り手形、いかに欲の世の中なれば迚とて、かす人もおとなげなし。
 


 そのころ九才の、五月四日の事ぞかし。あやめ葺きかさぬる、軒のつま、見越の柳しげりて、木下闇の夕間ぐれ。

 みぎりにしのべ竹の人よけに、笹屋島の帷子、女の隠し道具をかけ捨ながら、菖蒲湯をかゝるよしして、中居ぐらいの女房、我より外には松の声もしきかば、壁に耳、見る人はあらしと、ながれはすねの跡をもはぢぬ。

 臍のあたりの、垢かき流し、なおそれよりそこらも、糠袋にみだれて、かきわたる湯玉、油ぎりてなん。

 世乃介、あづま屋の棟にさし懸り、亭の遠眼鏡を取持て、かの女をあからさまに見やりて、わけなき事どもを、見とがめゐるこそおかし。

 与風、女の目にかゝれば、いとはづかしく、声をもたてず、手を合わせて拝めども、なを顔しかめ指さして笑へば、たまりかねて、そこそこにして、塗り下駄をはきもあへず。

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 世之介、九歳の時の話。鼓を打ってばかりいるので、少しは世渡りの職を身に付けさせようと、親はツテを頼って両替町の春日屋に、銭勘定の見習いに出したが、親の財産から倍返しという借金して遊行する始末。そんな中、世之介はあずま屋の棟に上がって、遠眼鏡を取り出して覗き見する。その先の庭には、あられもなく行水をつかう中居風の女の姿。
 

 『好色一代男』は、世之介七歳から六十歳に至る間の、色事逸話を集めたものとなっている。一年毎の話で、ちょうど五十四章からなる。源氏物語り五十四帖に合わせたもので、源氏のパロディとして書かれたのは明らかだ。

 現在の京都市中京区には、「両替町通り」というのが残っている。烏丸通りの一筋西側の南北通りで、その名の通り、当時の金融街で、金座銀座などが並んでいたという。世之介に、ちょいとビジネス街で修業して来いと言うわけだが、ここでもひたすら色恋修行に励むという体たらく。

 最終章「床の責め道具」。世之介60歳ともなると、色恋にも飽き、この浮世にも未練はなくなった。遊び仲間を誘って、「好色丸」(よしいろまる、と読むらしいw)なる船を調達し、いざ漕ぎ出でむ。

 舳先にには、あの吉野太夫の形見の緋縮緬腰巻をなびかせ、船床には媚薬、強精剤、枕絵、張り形、その他もろもろの責め道具を取りそろえ、あたかも「大人の玩具店」のごとし(笑)

 門出の酒を酌み交わし、目指すは「女護の島」、つかみ取りの女どもを見せむと申せば、男ども、これぞ男の道ぞと欣喜雀躍、恋の風に任せて船出するも、その行へ知る人も無し。
 


 井原西鶴は、大坂・難波に町民として生れ、元禄時代に上方中心に活躍した。若い時から俳諧師を志し談林派を代表する俳諧師として名をなし、万句俳諧の興行をするなど、一日にして「矢数俳諧」の創始を名乗るなど、やたら俳諧連歌の数を誇るようなことで名を成した。まあ、ギネスにチャレンジするようなもんだろう(笑)
 
 そのうち「好色一代男」を書き大当たりすると、それに味をしめて読物作家の道を歩む。「仮名草子」から発展し「浮世草紙」の創始者とされ、以後、好色物以外にも、雑話物や武家物と世界を広げた。ようするに、受けるなら何でも取り込むというスタンスw 

 ウェットな近松に対し、世相を笑い飛ばすようなドライな西鶴には、あっと思うような近代的な感性を見せることもある。出典は忘れたが、遊郭を借り切って遊行を繰り返す若旦那、取り巻き連中が、女郎の着物をはぎ取ったりして酔い騒ぐ中、花魁が密かに隠していた臀部の「白なまず疥癬菌による皮膚病の一つか)」を見つけ出し、はじらう花魁を無視して騒ぎまくるまわりを見て、ふと世をはかなく思い為し、そのまま出家した、などという話があった。
 

*映画『好色一代男昭和36年大映) 世之助:市川雷蔵 夕霧太夫若尾文子 お町:中村玉緒

http://www.raizofan.net/link4/movie4/koshoku.htm
 

+1.両替町にあった銀座跡 +2(左)七歳にして、小用に付き添ってくれる女中の袖を引いて口説く世之介/(右)九歳にして、遠眼鏡で行水中の女中を覗く世之介 +3.現在の両替町通り +4.女護の島を目ざす「好色丸」の勇姿w。岩波文庫よりスキャン +5.『生玉万句』を為した生國魂神社西鶴