『Get Back! 40’s / 1940年(s15)』

『Get Back! 40's / 1940年(s15)』
 
○2.10 津田左右吉の著書「古事記及び日本書紀の研究」が発禁となる。(津田左右吉事件)


 1939年(昭和14年)に津田が、『日本書紀』に於ける聖徳太子関連記述について、その実在性を含めて批判的に考察したことについて、蓑田胸喜・三井甲之らは「日本精神東洋文化抹殺論に帰着する悪魔的虚無主義の無比凶悪思想家」として不敬罪にあたるとして攻撃した。政府は、翌1940年2月10日に『古事記及び日本書紀の研究』『神代史の研究』『日本上代史研究』『上代日本の社会及思想』の4冊を発売禁止の処分にした。

 蓑田胸喜は、皇国主義的な反共・右翼思想家で、右翼団体の原理日本社を主宰、美濃部達吉、滝川幸辰、大内兵衛津田左右吉らの追放にすべて関わったが、狂信的な右翼思想家とされ、終戦後、病気隠遁して自殺。一方の、津田左右吉は、東京専門学校(現早稲田大学)を卒業、中学校教員を務めるなど決してエリートではなく、1908年より満鉄東京支社嘱託・満鮮地理歴史調査室研究員になり、東洋史研究調査に関わる。中国朝鮮古代史との関りから、古代の日本の独自思想形成に関心を深め、『神代史の新しい研究』を刊行した。


 問題とされた「古事記及び日本書紀の研究」以下の著作は、日本の上代史として、神武天皇以前の神代史を研究の対象にしたものだが、政府批判などの政治的言及は皆無で、純粋に史学的な「史料批判」を行ったものである。学術的には当時も戦後の現在も当然の態度であるが、それが「異常な時代」には批判にさらされた。神話を根拠にする当時の「皇国史観」にとっては、手品のタネをさらしてはならんと言うわけだったのだろう。そのような皇国史観そのものが、明治維新以降に作り上げられたものに過ぎなかった。

 「文献批判」というのは歴史研究にとって必須であるが、もちろん津田の創始ではなく、津田はそのような近代史学の実証主義を日本古代史に当てはめ、記紀の成立過程について合理的な説明を行おうとしたに過ぎない。しかし、津田の個々具体的な主張には、かなり主観的印象論的なものも多いとの批判もある。また、文献の歴史史料に偏重しすぎており、それ以外の考古学的・民俗学的な知見を無視したという批判もある。

 狭義の歴史学は「文献」を基本に研究することになっている。しかし古代以前ともなると、残されている日本での文献は、「記紀」ほかごく一部と、中国大陸での日本関連文献に頼るしかないし、それ以前の縄文・弥生時代ともなると、ほぼ「考古学」の領域である。津田左右吉が印象論的とされるのは、その欠落を「主観的合理主義」で補おうとしたせいかもしれない。しかし現在では、広義での「歴史研究」は、文献だけでなく考古学・民俗学などの関連研究と連携するのが当然とされている。
 

○9.27 [ベルリン] 日独伊三国同盟が調印される。


 1940年(昭和15年)9月27日、日本・ドイツ・イタリアの間で「日独伊三国間条約」が締結された。いわゆる「日独伊三国同盟」の成立であり、第二次世界大戦における枢軸国の中心軸が姿を現した。すでに1937年に「日独伊防共協定」が結ばれていたが、これは「防共」すなわちソ連共産主義の拡張を防ぐという建前であった。三国同盟では曖昧だった協力関係を明確にし、第三国からの攻撃に対しては相互に援助するという取り決めがなされた。


 しかし三国間には、同盟に関する微妙な利害の食い違いが存在した。「防共協定」では、日本は満州国北方で対峙するソ連の脅威を抑止するのが狙いだったが、ドイツはソ連軍を東西に分散させ、ドイツ東部方面の脅威を削ぐ意図を持っていた。しかしその後、ドイツが一方的に「独ソ不可侵条約」を結ぶと防共協定は意味を失う。

 直後にドイツがポーランド侵攻を開始し第二次大戦が勃発すると、独ソでポーランドを分割したあと、ドイツは取って返してベネルックス三国からフランス侵略を進めた。ヒットラーはさらに独ソ不可侵条約を破棄してソ連侵攻、さらには英国にまで視野を向けていた。そのためには、日本をソ連と東部で戦端を開かせ、英米とも対立して牽制させる意図があった。

 日本では海軍を中心に、三国同盟に反対する意見も多かったが、ナチスドイツがフランスを陥落させると、同盟の締結論が再び盛り上がってきた。陸軍では「バスに乗り遅れるな」と南方進出の「南進論」が勢力を増していたが、それは英米との対立を深めることになり、その英米を牽制するためにも三国同盟が必要とされるようになった。


 日独伊三国は、英仏など先発国に比して植民地獲得競争に出遅れており、植民地拡大に乗り出すと必然的に英仏の利益とぶつかるという共通の利害状況をもっていた。しかし枢軸3国が統一した戦略で連合国側と対抗するということなどは無く、ドイツはヨーロッパ戦線、日本は中国及び南方戦線、イタリアは地中海から北アフリカと、それぞれの利益をめざして侵攻しただけであった。

 軍事・経済に劣るイタリアは早々と降伏し、ドイツはソ連と東部戦線で膠着状態となり、西部戦線に物量を誇る米が参戦すると、防御一方に追い込まれた。日本は南方戦線で英仏蘭などの一部植民地軍を一気に攻略するも、米との太平洋戦争での物量の戦いで敗色濃厚となる。日独伊が統一の戦略をもって世界戦を戦うなど、物理的に不可能な三国同盟であった。

 三国同盟条約の条文そのものも、決してそのような統一戦を想定したものではなく、条約加盟国が戦闘相手国以外の第三国から攻撃を受けた場合にのみ相互援助義務が生じるというものであった。独ソ戦が始まった時にも、日本にはそれに参戦する義務はなく、ドイツに呼応することなく中立を保った。また、日本が真珠湾攻撃によって米と開戦した時にも、ヒトラームッソリーニは参戦義務がなかったが、独自の判断で米への宣戦布告をした。

 その後、日独伊新軍事協定などによって同盟関係は強化されたが、合同幕僚長会議など緊密に連動戦略をとった連合国側に対し、枢軸国では戦略に対する協議はほとんど行われなかった。対ソ宣戦、対米宣戦の事前通知も行われず、とても一枚岩の同盟とは言えなかった。ヒットラー黄色人種の日本を蔑んでおり、日本を自己の戦略に利用しようとしただけだと思われる。もとより同盟などというものは、そういう性質のものでではあるが。
 

紀元2600年
○2.11 皇紀2600年の紀元節。全国11万の神社で大祭が行われ、難局克服の大詔が発布される。
○11.10 [東京] 宮城前広場で紀元600年記念式典が挙行される。


 西暦1940年(昭和15年)は神武天皇の即位から2600年目に当たるとされたことから、日本政府は「紀元二千六百年祝典準備委員会」を発足させ、記念行事を計画・推進してきた。軍国主義が抬頭するなか、国威を発揚させ「神国日本」の国体観念を徹底させようという意図で、橿原神宮中心に極めて神道色の強い行事が遂行された。この年2月11日の「紀元節」には、全国11万もの神社において大祭が行われ、各地で展覧会、体育大会など様々な記念行事が催された。


 そして、11月10日、宮城前広場において内閣主催の「紀元二千六百年式典」が盛大に開催された。11月14日まで関連行事が繰り広げられて国民の祝賀ムードは最高潮に達した。また、式典に合わせて「紀元二千六百年頌歌」が作曲された。式典の模様は日本放送協会によりラジオで実況中継されたが、天皇勅語の箇所は放送が中断された。初めて天皇の肉声がラジオで流されたのは、1945年終戦玉音放送であった。

#「紀元二千六百年頌歌」 https://www.youtube.com/watch?v=8cN4GJRInro
#国民歌「紀元二千六百年」 https://www.youtube.com/watch?v=zYgKAzOoNsQ


 「皇紀」とは「神武天皇即位紀元」または「神武紀元」のことを指し、初代天皇とされる神武天皇の即位の年を紀元元年とした。「日本書紀」の既述では「辛酉の年」とあり、この年が紀元前660年1月1日と比定された。しかし古事記日本書紀のその神話的な内容には考古学上の確証がなく、神武天皇古事記では137歳、日本書紀では127歳まで生存とある)が実在した人物とは認められていない。

 とはいえ「西暦紀元」も、イエス・キリストが生誕した日を紀元とするが、そもそも「処女懐胎で生れた神の子」の生誕なども神話といえば神話、どこまで確かであるは似たようなものである。ちなみに、大日本帝国海軍の「零式艦上戦闘機ゼロ戦)」のゼロは、皇紀2600年の末尾一桁から付けられたことに由来する。明治から戦事中まで、日本の陸海軍が用いた兵器の名称には、皇紀の末尾数字を用いたことからそうなった。
 

○10.12 [東京] 首相官邸大政翼賛会の発会式が行われる。(翼賛体制の成立)


 この日、国民動員体制の中核組織となる「大政翼賛会」が発足した。大政翼賛会は、1940年(昭和15年)10月12日から1945年(昭和20年)6月13日まで存在していた日本の「公事結社」であり、左右政党合同の組織である。既存の政党がすべて解党し翼賛会に統合されて、当時の軍国主義体制を文字通り「翼賛=(脇から支えて協力する)」したとされるが、当初の意図は少し違っていた。

 明治以来の藩閥政治・元老政治・政党政治が、党利党略・派閥政略に流れて意思決定ができない非効率な体制となっていた。世界では、ドイツ・ヒットラーナチス党、イタリア・ムッソリーニファシスト党などファシズム国家や、スターリンソ連共産党独裁国家など、強力な一党独裁が成果を上げている状況で、日本でも強力な指導体制を形成する必要があるとする流れが出来上がりつつあった。


 この年7月、第二次近衛内閣が成立すると、「基本国策要綱」を閣議決定し、「大東亜共栄圏構想」を発表して「新体制運動」を展開した。圧倒的な近衛人気のもとで、既存政党は次々に解党し「大政翼賛会」が発足すると、そこにすべて合流することになった。しかし「勝ち馬に乗り遅れるな」という合言葉で、率先して翼賛会に合流した既存政党は、翼賛会内部で主導権争いを繰り広げ、また大政翼賛会自体も「公事結社」とされ政治活動はおこなえず、実態はとても一党独裁と言えるものではなかった。


 しかも、立憲君主制のもとで天皇を戴く日本において、一党独裁違憲であるとする勢力や、外国の政治体制を基にした政治体制は天皇制の日本に反するとか、天皇以外の勢力が政治の実権を有するのは幕藩政治の復活であるとする勢力などの批判から、大政翼賛会の理念は骨抜きにされ、結局のところ国家総動員法のもとで軍国政治を文字通り「翼賛」するだけの組織となった。

 大政翼賛会発足の当日になっても綱領はまとめられず、当の近衛は「綱領も宣言も不要」と新体制運動を投げ出した。よく言われるように大政翼賛会体制が戦争を招いたのではなく、「近衛新体制」が崩壊し、大政翼賛会は軍の方針を認知するだけの団体となったのである。翌年、近衛は第三次近衛内閣を組閣するが、なんら情勢をコントロールできず、対米開戦が必至となると、「戦争に自信がある人にやってもらう」と政権を投げ出し、東条英機がそのあとをついで真珠湾攻撃となる。
 

*この年
工業労働力不足が深刻化する。農・商業からの転職急造/スポーツ用語の日本語化進む
【事物】アルミ貨10銭/国産カラーフィルム/愛国子供カルタ
【流行語】新体制/臣道実践/八紘一宇/一億一心/バスに乗りおくれるな
【歌】湖畔の宿(高峰三枝子)/蘇州夜曲(霧島昇渡辺はま子)/月月火水木金金(内田栄一)
【映画】支那の夜(伏水修)/小島の春(豊田四郎)/民族の祭典(独)/駅馬車(米)
【本】織田作之助夫婦善哉」(海風)/会津八一「鹿鳴集」/田中秀光「オリムポスの果実」