【アンナ・カレーニナ】"Anna Karenina"(レフ・トルストイ)

アンナ・カレニナ】"Anna Karenina"(1948/英) ジュリアン・デュヴィヴィエ監督/トルストイ原作

 

「幸福な家庭はどれも似たようなものだが、不幸な家庭はそれぞれに不幸である」

 このような意味のフレーズをうろ覚えで記憶していたが、これがトルストイの『アンナ・カレーニナ』 の冒頭に出てくる言葉と知ったのは、比較的最近だ。

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 トルストイの「アンナ・カレーニナ」はずっと気にはなっていたが、実は原作を読んでいない。高校生の頃、河出書房版「世界文学全集」というのが実家にあって、『赤と黒スタンダール)』『風と共に去りぬマーガレット・ミッチェル)』『カラマーゾフの兄弟ドストエフスキー)』などは面白く読んだのだが、『戦争と平和トルストイ)』と『誰がために鐘は鳴る(ヘミングウェー)』は途中で挫折した。

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 「戦争と平和」はアウステルリッツ三帝会戦のあたりまで読んで、退屈して読むのをやめた。70年前後の当時、ソ連が国力をあげて「戦争と平和」や「アンナ・カレーニナ」の超大作映画を公開し、日本でも俳優座河内桃子主演で「アンナ・カレーニナ」を上演するなど、かなりの話題になっていたが、結局アンナ・カレーニナを読むことはなかった。

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 今回たまたま、ジュュリアン・デュヴィヴィエ監督・ヴィヴィアン・リー主演の「アンナ・カレニナ」(1948/英)を観ることになった。1948年と言えば自分の生まれた年、70年以上前の作品だ。オーソドックスなモノクロ画面で、ストーリーは分かりやすく展開されるので退屈することはなかった。

 

 デュヴィヴィエ監督は戦後日本で、「巴里の空の下セーヌは流れる」などで好評を博したフランスの監督で、この分かりやすさがその理由なのかも知れない。長編の原作を一時間半あまりの映画にまとめるために、登場人物はアンナを除いて、簡略に類型化されている。

 

 アンナの夫で高級官僚のアレクセイ・カレーニンは、政府の業務に熱心で世間体を気にする典型的俗物。若い貴族将校で社交界の花形ヴロンスキーは、アンナを魅了して駆け落ちするがその愛を貫けない。映画では少ししか登場しないが、実直真面目な農業主リョーヴィンは、アンナの義妹キティと平和な家庭を築きロシアの善意の体現者とされる。

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 「平和はどれも同じで退屈だか、戦争はそれぞれに刺激的である」という風に、冒頭のフレーズを変換して記憶していた時期があった。それが「戦争と平和」に出てきたものと思い込んでいたが、違っていたようだ。

 

 「平和と幸福」「戦争と不幸」を同じレベルで対比するわけにはいかないが、トルストイはそれらを「善と悪」の問題として提示する傾向にあると思える。映画ではほぼ略されているが、原作ではアンナとヴロンスキーの恋愛と同等に、リョーヴィンとキティの築き上げる平穏な家庭の愛が対比される。

 

 そこで冒頭の「幸福な家庭はどれも似たようなもの」というフレーズが浮かんでくる。生活における「善と悪」の問題は、トルストイが生涯格闘した主題だろうが、もちろんトルストイは結論を提示しない。しかし「平和で幸福な家庭」は、どう見ても小説のテーマには向かないし、退屈に感じてしまうのであった。

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  ヒロインを演じたヴィヴィアン・リーは、1939年『風と共に去りぬ』で華々しくデビューして10年余り、三十代半ばで最も脂ののりきった時期であり、その美貌も際立っていたが、鼻っ柱の強いスカーレット・オハラにはピッタリでも、アンナ・カレーニナの悲劇的な結末にはそぐわない気がした。

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 その後の1951年の『欲望という名の電車』では、ヴィヴィアン・リーは南部の名家に生まれながら、落ちぶれて妹のアパートに逃げ込む未亡人ブランチ・デュボワを演じ、2度目のアカデミー主演女優賞を受賞する。容色の衰えも抱え込みながら気位の強さだけは持ち続ける演技は際立っていたが、私的には双極性障害(当時は躁鬱病)に悩むぎりぎりの演技だったという。