『Get Back! 80’s / 1989年(s64/h1)』

juku

『Get Back! 80’s / 1989年(s64/h1)』

#そのころの自分#
 近くに時間貸しの部屋を見つけて、教室形式での塾も始めた。これが、やがてバブルの崩壊もあって破綻につながるのだが、それはともかく、少しづつ塾業界の内情も知るに至った。塾や家庭教師の講師募集もしたが、駆け出しのところにロクな人材は集まってこない。来るものは拒まず式でとりあえず使うことにしたが、穴のあいた靴下で出てくる講師、あとで分ったが幾つもサラ金を踏み倒していた元進学校の退職教師、授業中にダイヤルQ2の出会い系に電話する講師、とにかくひどいもんだった。何よりもの誤算は、自分自身が子供が嫌いなのだと気づいたことだった。自分の扱う商品への愛なくして、うまく行くはずもなかった(笑)。
 
◎1989.1.7/h1 昭和天皇が没し、新元号が平成と決定する。[昭和終る]

 天皇陛下は1月7日午前6時33分、皇居・吹上御所崩御された。87歳、去年9月19日に出血されて以来、111日目だった。昭和天皇崩御により憲法皇室典範に基づき、皇太子明仁親王皇位を継承し、即位された。昭和天皇大喪の礼は2月24日、東京・新宿御苑の葬場で行われた。天皇陛下は御るい(弔辞)の中で「激動の時代を歩まれた御姿は永く人びとの胸に生き続けると存じます」と述べられた。(NHKアーカイブス昭和天皇 崩御」より引用)
http://cgi2.nhk.or.jp/archives/tv60bin/detail/index.cgi?das_id=D0009030226_00000

 昭和天皇[追号:死後の通称]は、1901年大正天皇(当時皇太子)の第一皇子として誕生し、称号を迪宮(みちのみや)、諱[いみな:本名にあたる]は裕仁(ひろひと)と命名された。まさに20世紀の大半を生きたことになるが、1921年(大正10年)20歳のとき、大正天皇の病状悪化に伴い、皇太子の身分のまま「摂政」となり摂政宮と称された。1926年25歳のとき、(大正15年)父・大正天皇崩御を受け第124代天皇となり、昭和と改元される。

 1937年(昭和12年)宮中に、天皇直属の最高統帥機関として大本営が設置された。大本営には、統帥権の独立により内閣総理大臣外務大臣ら政府文官は含まれないため、事実上、軍の最高統帥権を保持した立場となった。1941年(昭和16年)御前会議で対米英開戦を決定し「米英に対する宣戦布告」を出し、太平洋戦争に突入した。

 1945年(昭和20年)、東京大空襲沖縄戦の敗退、広島長崎への原爆投下などを受け、8月10日の御前会議にて「終戦の聖断」を為し、14日御前会議でポツダム宣言の無条件受諾を決定し、終戦詔書を出した。これは8月15日にラジオ放送により「玉音放送」として国民に伝えられた。

 戦後「象徴天皇」として庶民に親しまれたのは知られている通りであり、詳しくは書かない。後に戦前戦後の天皇の言葉とされるものが断片的に公表されている。どこまでが事実かは定かでないが、「自分の意を貫いたのは、2.26事件と太平洋戦争終戦の時だけだった」との告白は印象に残る。まさにこの二件は「御聖断」無くしては成らなかったものであろう。
 
◎1989.6.4/h1 [北京] 学生・市民が集まる天安門広場を戒厳部隊が武力制圧し、多数の死者を出す。[天安門事件]

 政治改革に積極的だった胡耀邦元総書記の死がきっかけとなり、政治改革を求める学生を中心に10万人の人々が天安門広場に集まった。抗議運動自体は、胡耀邦が死去した1989年4月15日から自然発生的に始まった。デモは最初は天安門広場だったが、のちに上海市を含めた国中の都市に波及していった。鄧小平(とう・しょうへい)の決定により5月19日に北京市に厳戒令が布告され、趙紫陽総書記は学生たちに対しデモの平和的解散を促したが、学生たちの中では強硬派が優勢を占めデモ継続を強行した。

 学生を中心とする群衆のため首都機能は麻痺に陥った。これを鎮圧するため、1989年6月4日未明、中国人民解放軍の戦車隊は北京の通りで無差別に実弾を発射し武力弾圧を決行した。武力鎮圧の後、中国共産党当局は多数の関係者を逮捕を実行し、外国の報道機関を国から締め出し、自国の報道機関に対しての報道を厳格に統制した。厳戒令布告に反対した趙紫陽は総書記ほか全役職を解任され、死去するまで自宅軟禁下に置かれた。

 戒厳令から天安門武力弾圧を指示したのは、党副主席兼中央軍事委員会主席で、党と軍の実権を掌握していた鄧小平であり、李鵬首相や江沢民党委員会書記らがそれを遂行した。鄧小平は共産党一党独裁を堅持するとともに、一方では、1978年日中平和友好条約のための訪日以来、いち早く経済の改革開放政策を強力に推進していた。

 「白猫であれ黒猫であれ、鼠を捕るのが良い猫である」という鄧小平の「白猫黒猫論」は、彼の現実主義を代表するものであろう。鄧小平が唱えた社会主義市場経済中国共産党の正当化などの理論は、その原理的矛盾を抱え込みながらも、現実には実効性を証明し、昨今の中国への軌道を敷いたと言えよう。しかしその起点には、今なお中国政府が隠蔽を余儀なくされている「天安門事件という公然の秘密」が横たわっているのである。
 
◎1989.7.23/h1 [東京] 八王子署が強制わいせつ容疑で26歳の男性を逮捕する。(8.10 宮崎勤、連続幼女殺人を自供)

 1989年7月23日、宮崎勤が八王子市で幼児にわいせつ行為に及んでいるところ、被害者の父親に取り押さえられ現行犯逮捕された。取り調べの過程で、連続幼女誘拐殺人事件の一部の事件への関与を認める供述を始め、供述どおりに遺体が発見され、誘拐と殺人の容疑で再逮捕された。以後4つの事件への関与を次々と供述する。逮捕される前から宮崎は過去の性犯罪者リストによって捜査線上に浮かんでいたとされる。

 この事件は4歳から7歳という低年齢の女児が被害者となり、犯行声明を新聞社に送り付けたり焼かれた被害者の遺骨を遺族に送りつけるなど、極めて異常な行為によってその犯人像が注目を浴びた。宮崎の自室からは数千本もの録画したビデオテープが押収され、2週間に及ぶテープの捜査によって、被害者幼女殺害後に撮影したと見られる映像が発見された。一連の事件犯人として宮崎は起訴されたが、公判においては、「夢の中でやった」「ネズミ人間が現れた」などと不可解な発言を繰り返してた。

 検察庁での簡易精神鑑定の結果「精神分裂病(現 統合失調症)の可能性はあるが人格障害の範囲」と診断され、検察は起訴に踏み切った。公判開始後にも鑑定医による再鑑定が為され、一部統合失調症解離性同一性障害という鑑定書が提出されたが責任能力ありと判定され、1997年4月東京地方裁判所で死刑判決が下り、控訴上告とも棄却され2006年死刑が確定、2008年6月宮崎の死刑が執行された。宮崎の口から謝罪、反省の念が語られることは最期までなかったとされる。

 メディアは大々的に報道し、宮崎を「オタク・ロリコンペドフィリア・ホラーマニア」などとして取り上げた。宮崎の部屋から押収された膨大な数のビデオテープからは、これらの性向を示すものが多数発見されるとともに、殺害後の幼女をビデオカメラで撮影したものまでコレクションされていた。これらから、現実と空想、妄想と犯罪行為の境界が曖昧で、明確な犯罪意識の薄いまま犯行に及んだとみなされた。

 とはいえ、これらのセンセーショナルな一方的な報道には問題がある。宮崎という「殺人犯がオタクであった」ことと、「オタクが殺人を犯す」ということは、まったくの別問題である。「殺人犯が女性であった」ことから、「女性は殺人を犯す」ということを導き出す誤りを考えれば自明なことであろう。

 また、「ペドフィリア」(小児性愛)というような用語を、精神医学的疾患(性嗜好障害)として厳密に規定された専門用語としてではなく、単なる性的嗜好の一傾向として乱用するのも問題である。誰にでもありえる一つの性向をペドフィロアと呼んでしまうなら、たんなる子供好きでさえペドフィリアとみなされてしまう。宮崎に関しても、専門家の判断は、ペドフィリアとするものと、本来的な小児性愛者(ペドフィリア)ではなく、成人をあきらめて幼女を代替物としただけとみなす意見に分かれる。
 
◎1989.11.9/h1 [東ドイツ] 「ベルリンの壁」が事実上撤廃される。10日、壁の一部が取り壊される。


 1945年5月第二次世界大戦のドイツの降伏により、ドイツは米英仏占領地域に当たる西ドイツと、ソ連占領地域の東ドイツに分断された。首都ベルリンは、東ドイツの地域内にあったがその重要性から、米英仏主導の西ベルリンとソ連が支配する東ベルリンとに分割統治されることになった。西ベルリンは、東ドイツに囲まれた「赤い海に浮かぶ自由の島」となったことで、東西冷戦の象徴的な存在とされた。


 自由経済圏の経済発展をとげた西ドイツのもと、西ベルリンは政治的経済的自由を謳歌し、停滞を続ける東ドイツへの「西側のショーウィンドウ」と言われた。そのような格差から西ベルリンへの東側住民の逃亡が相ついだため、危機感を抱いたソ連東ドイツ政府は、1961年8月13日突如として東西を隔てる壁を建設し始めた。

 1980年代後半、ミハイル・ゴルバチョフソ連共産党書記長が「ペレストロイカ」(再建・再生)を提唱して登場すると、解放の波は東欧諸国を襲い、次々と革命が引き起こされ共産党独裁政権は倒れてゆく。その過程で、東ドイツハンガリーチェコスロバキアの国境が一部破られ、それらの国境に東ドイツ市民が殺到する状況が起きた。


 このような混乱の中で、ソ連の後ろ盾での下で東独の独裁者であったエーリッヒ・ホーネッカー書記長は、ゴルバチョフの支持も失い失脚する。1989年11月9日、その後を受けた政府側のスポークスマンが、手違いから「ベルリンの壁を含むすべての国境からの出国が、ただちに認められる」と発言、それが東独国営テレビなどで放送された。同日夜には東ベルリン市民がベルリンの壁の検問所に殺到し、対応に困った国境警備隊の現場指揮官は独断で検問所を開放、分断時代のドイツの象徴であったベルリンの壁は事実上消滅した。

 東西の往来が自由であった1961年までには、350万人が東ドイツから西ドイツへ流出したとされ、これは当時の東ドイツの人口の約20%に相当した。その後、壁が構築されて以来、それが破壊されるまでの間、東ベルリンから壁を越えて西ベルリンに行こうとした住民は一万人に及び、そのうち射殺などでの死亡者は192人、逮捕者は3,000人を超えた。そして、何らかの方法で無事西ベルリンに到達した東ドイツ国民は5,000人に至った。

 かくして「東西冷戦の象徴」であったベルリンの壁の開放は、「冷戦終結の象徴」となった。
  
*この年
東欧に自由化の波/大型景気で人手不足/深夜バスが人気/国際的に地球環境保護の動き/政界へ女性の進出顕著/吉野ヶ里遺跡ブーム
【事物】無煙タバコ/逆両替機
【流行語】おたく/セクシュアル・ハラスメント/イカ天/フリーター
【歌】淋しい熱帯魚Wink)/黄砂に吹かれて(工藤靜香
【映画】黒い雨(今村昌平)/利休(勅使河原宏)/魔女の宅急便宮崎駿)/レインマン(米)
【本】吉本ばななTUGUMI」/藤村由加「人麻呂の暗号」/津本陽「天下は夢か」