『Get Back! 90’s / 1998年(h10)』

『Get Back! 90’s / 1998年(h10)』

 

《この年のキーワード quote NHK平成30年の歩み》

貸し渋り 自殺者3万人 今年の漢字「毒」 キレる

 

(長野冬季オリンピック

*1998.2.7/h10 長野冬季オリンピック開幕

 

 20世紀最後の冬季オリンピックとなる「1998年長野オリンピック(長野冬季オリンピック)」は、1998(h10)年2月7日から2月22日まで、長野県長野市を中心として開催された。1972年札幌オリンピックに続く日本で二度目の冬季オリンピックであり、冬季オリンピックの開催地の中では、長野は最も南に位置する地域となった。

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  長野オリンピックの開会式は、明仁天皇美智子皇后臨席の下、2月7日午前11時から長野オリンピックスタジアムで行われた。総合プロデューサーは劇団四季浅利慶太が担当し、善光寺の鐘の音を合図にスタートし、御柱祭の建御柱、大相撲幕内力士の土俵入り、横綱の曙の土俵入りが行われ、歌手の森山良子と子供達によりテーマソング「明日こそ、子供たちが…”When Children Rule the World”」が披露された。

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 選手入場はオリンピック憲章に則り、ギリシャを先頭にアルファベット順に行われ、入場の最後に日本選手団が長野県民歌「信濃の国」に合わせて入場した。大会組織委員会会長斎藤英四郎および国際オリンピック委員会IOC)会長のフアン・アントニオ・サマランチが挨拶し、明仁天皇が開会を宣言、湯浅譲二作曲「冬の光のファンファーレ」が演奏された。

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 日本人最初の冬季五輪銀メダリスト猪谷千春や札幌ジャンプ金の笠谷幸生ら、元冬季オリンピック日本代表選手8人がオリンピック旗を持って入場、オリンピック旗が掲揚された。プッチーニ作曲オペラ「蝶々夫人」の中の「ある晴れた日に」が演奏されるなか、アルベールビル五輪女子フィギュア銀メダリストの伊藤みどりが、卑弥呼を思わせる巫女風の衣装をまとって聖火に点火した。

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  本番の競技では屋外競技が悪天候に悩まされ、アルペンスキーは競技日程が変更され、スキージャンプ団体戦は競技が一時中断されるなど、大きな影響が出た。アルペンスキーでは、悪天候による日程変更などで大荒れとなり、このシーズンのワールドカップ総合1位のヘルマン・マイヤーは、滑降で多数の選手が失格となるなか、彼も同じポイントで転倒し、コース設営の問題も提起されたが、スーパー大回転および大回転で優勝して、実力を示した。

 日本期待のジャンプ・ラージヒル男子団体では、前回リレハンメル大会で失速したエース原田雅彦が、一本目の失敗ジャンプで悪夢を思い出させたが、二本目で大ジャンプを決めて、涙の団体金を獲得した。前々回、前回と二連覇のノルディックスキー団体では、5位入賞に終わり3連覇を逃すことになった。

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 スピードスケートでは、スラップスケートが登場した最初の五輪となり、特に有効とされた長距離種目では、世界新記録が連発された。短距離が得意の日本勢は、清水宏保が500メートルで金、1000メートルで銅メダルを獲得し、また、女子500メートルでも岡崎朋美が銅メダルを獲得した。

 フィギュアスケート伊藤みどり引退後の端境期で、10代若手の本田武史が15位、荒川静香が13位にとどまったが、本田は次回ソルトレーク五輪で4位入賞、荒川は次々回のトリノ五輪で金を獲得して、成長を見せることになった。

 

 

 (橋本首相退陣 小渕内閣発足)

*1998.7.12/h10 第18回参院選で自民敗北 橋本首相退陣

*1998.7.30/h10 小渕恵三内閣発足

 

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 1998(h10)年7月、第18回参議院議員通常選挙での大敗の責任をとって、橋本龍太郎首相が辞任すると、現職外相の小渕恵三自民党総裁選に出馬した。当初、橋本からの政権禅譲が期待されたが、前官房長官梶山静六と現職厚相の小泉純一郎が総裁選に出馬し、三者が激しい選挙戦を展開した。

 金融機関の不良債権処理を主張する梶山、持論の郵政民営化を柱とする行政改革を主張する小泉に対し、小渕は財政支出による景気対策を主張した。三候補について田中眞紀子からは「軍人・変人・凡人」などと評されたが、反小渕票が分散した結果、小渕が梶山と小泉を破り党総裁に就任した。

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 7月30日、第143回国会で首班指名を受け、小渕恵三が第84代内閣総理大臣に就任したが、与野党が逆転した参議院民主党代表菅直人首班指名されるなど、当初の政権基盤は不安定だった。加えて、参院選で大敗した橋本前首相と同派閥の小渕では新鮮味がないと、低支持率でのスタートとなった。

 しかし野党だった公明党自由党と協力関係を築き、1999(h11)年1月、三党で「自自公連立政権」を発足させた。これで政権基盤を安定させると、周辺事態法(日米ガイドライン)・憲法調査会設置・国旗国歌法・通信傍受法・住民票コード付加法(国民総背番号制)など、重要法案を次々に成立させた。

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 このように小渕首相の政治手法は、全体の方針を策定するだけで、個別の案件は国務大臣自らの裁量に任せるという無難なボトムアップ手法を取り、中曽根康弘元総理は、小渕内閣の手法をして「真空総理」と評した。

 積極的な財政支出による景気対策を打ち出した小渕内閣は、赤字国債発行による公共事業を推し進め、日本銀行ゼロ金利政策アメリカの好景気なども相まって、在任中の経済は比較的好調で、ITバブルが発生したが、日経平均株価は2万円台にまで回復した。

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 西暦2000年(ミレニアム)をきっかけに「二千円紙幣」の発行をしたり、公明党との妥協で、一律「地域振興券」を国民にバラまくなど、場当り・妥協的な政策も多く、自由党の要求で衆院比例代表区定数を20削減するなど、自由党小沢一郎にも振り回された。

 そして2000(h12)年4月1日、自由党との交渉が決裂し連立離脱を通告されるが、その翌日に脳梗塞で緊急入院、内閣総辞職したあと、5月14日に62歳没する。在職期間616日で、後継には森喜朗が選出された。

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 周辺事態法、通信傍受法、国旗・国歌法など、長年の懸案を一気に片付け、金融不安に終止符を打ち、男女共同参画社会基本法も成立させて女性参画の道を拓いた。また外交では、日米関係を順調に発展させ、韓国の金大中大統領との間で、未来志向の日韓関係で合意するなど、安定した外交関係を維持した。

 官房長官時の平成元号発表の写真が最も有名だと言われ、総理となっても「真空総理」とか「冷めたピザ」などと冷笑されながらも、「人柄の小渕」と評され敵を作らない穏やかな性格で、妥協も辞さず実質的な成果を収めた小渕の政権運営は、近年、再評価されており、その急逝が惜しまれる。

 

 

和歌山毒カレー事件

*1998.7.25/h10 和歌山毒カレー事件 4人死亡 66人が腹痛など訴える

 

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 1998(h10)年7月25日、和歌山市園部地区で行われた夏祭りで、カレーを食べた67人が腹痛や吐き気などを訴えて病院に搬送され、小学4年男子児童と高校1年女子生徒、園部自治会の会長と副会長の4人が死亡した。被害者は会場で食べたカレーが原因で、嘔吐するものが多発した。当初、食中毒によるものとみなされたが、警察庁科学警察研究所が調査して亜ヒ酸によるものと判定された。

 1998(h10)年10月4日、知人男性に対する殺人未遂と保険金詐欺の容疑で、元保険外交員で主婦の林眞須美が、別の詐欺及び同未遂容疑をかけられた元シロアリ駆除業者の夫とともに和歌山東警察署に逮捕された。12月9日に眞須美は、カレーへの亜ヒ酸の混入による殺人と殺人未遂の容疑で再逮捕され、殺人と殺人未遂の罪で和歌山地方裁判所に起訴された。

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 逮捕前から報道は過熱し、容疑者扱いだった林眞須美の自宅には報道関係者が押し掛けたが、あまりに執拗な報道陣にこらえかねたか、笑いながら報道陣にホースで放水する姿などがカメラに収められ、ふてぶてしい印象付けがメディアによりなされた。

 また、逮捕される前からメディアは眞須美を犯人扱いし、過熱した取材攻撃で中学生の子どもたちが登校できなくなり、和歌山市教育委員会が取材をつつしむよう報道に求めるなどの事態となった。

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 林眞須美は容疑を全面否認を続けたが、2002(h14)年12月11日の第一審判決公判で和歌山地裁は、被告人林眞須美の殺意とヒ素混入を認めた上で、4人の殺人を認め、求刑通り林被告に死刑判決を言い渡した。林眞須美は判決を不服として控訴・上告するも、2009(h21)年4月に最高裁が上告を棄却、林眞須美の死刑は確定した。

 警察は関係者の証言を集めて、夏祭りの会場でみんなが食べたカレーは、直前の40分間、林真須美が1人で鍋の見張りをしており、真須美以外にカレーにヒ素を混入することができた人物はいなかったと結論づけた。ただし、鍋の前に誰もいなかった時間があったとの証言もあり、他人が混入させた可能性がゼロとは言えない。

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 そして殺害原因となったヒ素は、シロアリ駆除のために夫の林健治がかつて所持していたドラム缶入りヒ素、林家所有のヒ素、事件現場の紙コップに付着していたヒ素などを鑑定依頼し、これらのヒ素が「同一である(弁護側からは疑義が呈されている)」という鑑定結果を得た。

 しかし鑑定は、「同一の工場で同一の時期に製造された亜ヒ酸」であることを示したにすぎず、まったく同一の亜ヒ酸であると認定したものではない。そして同工場同時期に生産出荷された亜ヒ酸は、農家の多い同地域では農薬や殺鼠剤の主成分として多く出回っているという。

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 林真須美と夫との逮捕は、知人男性に対する殺人未遂と保険金詐欺の別件容疑などでなされ、林真須美は保険外交員、夫はヒ素を扱う白アリ駆除会社を経営と、両人が関係した事件として、この件では二人の有罪が確定している。ほかに同様に疑わしい事件も何件かあり、夫自身もがヒ素中毒の後遺症らしい症状を示しており、ヒ素を使った犯行は真須美には馴染みがある行為とも推測された。

 このような経緯から、林真須美ヒ素の関係が近しいと推定されたところで、何よりも、真須美が地域の集会の不特定な参加者に毒入りカレーを食べさせる「動機」が、ほとんど無い。ヒ素を使って保険金詐欺を働いて、保険金で贅沢な生活を実現させた「したたかな」林真須美の前歴は、むしろ、このような無目的の犯行を行う「動機」が無いことを示すものであるとも言える。

 

 

(この年の出来事)

*1998.4.5/h10 「明石海峡大橋」開通

*1998.6.10/h10 サッカーW杯フランス大会開幕 日本が初出場

*1998.7.25/h10 マイクロソフト「ウインドウズ98」日本語版発売

*1998.8.29/h10 アップル「iMac」日本発売

*1998.8.31/h10 北朝鮮 弾道ミサイル テポドン発射

*1998.10.23/h10 日本長期信用銀行長銀)が破たん 一時国有化に

*1998.12.2/h10 「古都奈良の文化財世界遺産に決定

*1998.12.14/h10 日本債権信用銀行(日債銀)が破たん