『Get Back! 90’s / 1999年(h11)』

『Get Back! 90’s / 1999年(h11)』

 

《この年のキーワード quote NHK平成30年の歩み》

リストラ ハイテク犯罪 Y2K 「だんご3兄弟」 学級崩壊 リベンジ

 

(ドコモ iモード開始)

*1999.2.-/h11 NTTドコモ iモードサービス始まる

 

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 1999(h11)年2月から、NTTドコモより「iモード」のサービスが開始された。 iモードは、従来の携帯電話(フィーチャーフォンガラケーなど)でインターネットに接続できるサービスで、爆発的な勢いで加入者が増加した。

 持ち運びできる携帯電話でインターネットのサービスが受けられるのは、当時としては画期的で、他の大手携帯キャリアも同様のサービスを始めた。ただし携帯の脆弱なシステムと小さな画面で、パソコンなどと同等のサービスを受けるのは無理で、さまざまな工夫と制限がなされた。

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 まず通信プロトコルが、携帯とインターネットでは異なっており、いわば携帯の通信信号の形式をインターネットの形式と変換する仕組みが必要となる。さらに当時の通信速度の遅さと携帯の小さな画面では、利用できるコンテンツに制限がある。

 まず通信プロトコルの変換を、ドコモへのアクセスポイントの「iモードセンター」で行うとともに、インターネット上のドコモ公認「iメニューサイト」に掲載された、携帯で利用できる規格で作成されたコンテンツが利用できる仕組みを取った。

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 2007年、アップルがiPhone OS(現iOS)を搭載した「iPhone(アイフォン)」を発売し、2008年にはGoogleが主導するオープンソースAndroid OSを搭載した「スマートフォン」が、携帯各社から発売され、iモード搭載のフィチャ―フォンは淘汰されていった。

 現在、5G(第5世代移動通信システム)が実用化されようとしているが、これは通信システムの5世代目(5th Generation)という意味で、一方で携帯電話そのものは、ベーシックフォン、フィーチャーフォンスマートフォンと発展してきたと言われる。

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 携帯電話は、音声通話とSMS(ショートメッセージ)だけの「ベーシックフォン」、それにカメラやカレンダー、ゲームなど様々な機能(feature=特徴のある)を付加された「フィーチャーフォン」、そして一般化されたOSと、随意にインストールできるアプリケーションによって構成され、より汎用的な利用が可能になった「スマートフォン」と、発展してきた。

 これらの言葉は、あくまで便宜的に使われているだけで、たとえばスマートフォン普及の旗手とされるiPhoneが、仕組み上からはスマートフォンに分類されない場合もある。ごくごく大雑把に言えば、音声通話の「携帯電話」から、さまざまな機能を付加されて発展したフィーチャーフォンと、逆に、携行できる「パソコン」に、通話・通信機能を付加することでモバイル通信機器となったスマートフォンと言えば分かりやすいか。

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 高度な多数の機能とiモードを搭載した、3G時期の日本のフィーチャーフォンは、当時最先端のモバイル機器と思われた。しかし、ジョブズが高らかにうたい上げたiPhoneが登場し、一方で各社からAndroidスマホが競って発売されて、高機能低価格化が進むとともに、スマートフォンフィーチャーフォンを駆逐していった。

 そして、世界最先端と思われていた日本のフィーチャーフォンは、「ガラケーガラパゴス化した携帯)」と自嘲的に呼ばれる存在として消えていった。ウォークマンソニーが、何故iPodを生み出せなかったか。iモードのドコモが、何故iPhoneを生み出せなかったか。これらは、既存技術に工夫と改善を加えるのが得意な日本企業の、限界を示しているのかも知れない。

 

 

コソボ紛争 NATOユーゴ空爆

*1999.3.24/h11 NATO ユーゴ空爆を開始

 

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 第二次大戦で成立した「ユーゴスラビア連邦民共和国」の終身大統領となったヨシップ・ブロズ・チトーは、統一を維持するために、複雑に入り組んだ民族による民族主義者を徹底弾圧した。なかでも最も人口が大きく最大の勢力であったセルビアの力を抑制するために、比較的アルバニア人が多く住むコソボなどを分離して自治権を与えた。

 しかしチトーの死(1980)後、1989年からの東欧共産圏の自由化の流れとも相まって、分離を阻止しようとするセルビアと、スロベニアクロアチアボスニア=ヘルツェゴビナなどが激しい内戦を経て次々分離独立していった。

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 そのような状況下で、1990年にセルビア共和国大統領に就任したスロボダン・ミロシェヴィッチは、さらに1997年、モンテネグロ共和国セルビア共和国との連合によって発足した(新)ユーゴスラビア連邦共和国の大統領に選出された。

 ミロシェヴィッチは、独裁者としてセルビアの強国化をはかり、コソボ自治権を剥奪し事実上併合した。そのようなセルビアによる強権に反発して、アルバニア人たちが過激化し、コソボ解放軍を作って独立を目指すようになり、ついに1998年2月、コソボ解放軍による攻撃が激化し、ついに初の本格的な戦闘が始まった。

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  コソボ解放軍は西側諸国およびイスラム世界からの支援を受けており、セルビアによる惨殺が報じられ、数十万人のアルバニア人が家を追われ、冬に向かう中に難民化しつつあった。これを西側諸国は、ミロシェヴィッチによる「民族浄化(ジェノサイド)」と捉え、人道的な見地からも、NATOによる介入を模索していた。

  セルビアに対する国際社会の圧力が強まるなか、ミロシェヴィッチ大統領に対してNATOによる平和維持部隊の活動が要求され、1998年10月停戦合意が取り付けられた。合意では非武装の和平監視団の設置が認められたが、その監視団は当初より不十分なものと危惧されていた。

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 そして1998年12月、コソボ解放軍が戦略的に重要な地域で活動を始めると、停戦は数週間のうちに破棄され戦闘が再開された。コソボ解放軍とセルビア側との戦闘は翌1999年冬にかけての間続き、1月にラチャクの虐殺が引き起こされると、西側諸国や国際連合安全保障理事会から非難されることになり、ミロシェヴィッチ大統領と政権首脳は戦争犯罪者とみなされた。

 この虐殺が、戦争の大きな転換点となった。NATOは、NATOの支援の下で平和維持のための武力を投入が解決の唯一の手段であると考えを定めた。1999年2月にフランスのランブイエで交渉が持たれたが、セルビア側は、コソボ自治は大幅に認めるが、NATO軍の直接投入だけは認められないとして、交渉は失敗に終わった。

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 そして、1999年の3月24日からNATO軍による空爆が開始され、航空機による爆撃や巡航ミサイルによる攻撃は、6月11日まで続けられた。ミロシェヴィッチによる抵抗はNATOの予想に反して強く、NATO軍の誤爆など不始末も続発し混乱したが、最終的にはロシアの支援も期待できないと判断し、ミロシェヴィッチ大統領はフィンランド、ロシアの仲介による条件を受け入れ、NATO関与による国際連合主導でのコソボ平和維持軍(KFOR)の駐留に同意した。

  ミロシェヴィッチは、2000年秋のユーゴスラビア連邦大統領選挙の際の選挙不正に怒った国民の抗議行動(ブルドーザー革命)で退陣し、コソボ紛争でのアルバニア人住民に対するジェノサイドの責任者として人道に対する罪で起訴され、長引く裁判中の2006年3月、収監中の独房で死亡した。

 

 なお、NATOによるユーゴスラビア空爆の正当性は、大きく議論の的となった。国際連合安全保障理事会による裏づけのないまま攻撃であり、また、NATOの憲章は加盟国の防衛のための組織されているが、NATO加盟国に直接の脅威を与えないNATO非加盟国に対する攻撃だったことも批判の対象となった。

 結果的には「国際的な人道危機」を理由に正当化されたが、そのような抽象的な動機で大規模な連合軍隊が動いていものか、そしてその中立性も疑われるのである。

 

 

(日産・ルノー提携)

*1999.3.27/h11 日産とルノーが提携で合意

 

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 日産自動車は、継続的な販売不振により2兆円あまりの有利子債務を抱え、倒産寸前の経営状態となった1999年3月、フランスの自動車メーカーのルノー資本提携ルノー=日産アライアンス)を結び、同社の傘下に入り更生を図る事となった。

 両社の文化的土壌の違い・車種ラインナップの重複・日産自動車の負債の大きさ・労働組合の抵抗などの理由から、多くの専門家がその行き先を危惧した。日本人社長の塙義一は解任され、ルノー副社長のカルロス・ゴーンが新たな最高経営責任者に就任した。ゴーンは、「日産リバイバルプラン (NRP)」を発表し、徹底したリストラを進めた。

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 カルロス・ゴーンCEOは、東京都武蔵村山市日産自動車村山工場・京都府宇治市日産車体京都工場などの生産拠点の閉鎖と資産の売却、および2万人超の従業員削減を実施し、さらに子会社の統廃合・取引先の統合・原材料の仕入の見直しなどによって、大幅にコスト削減を達成した。

 一方で、車種ラインアップの整理とデザインの刷新および積極的な新車投入を行い、大きく販売台数を増加させて、国内シェア第2位の座を奪回した。これらの対策によって、2003年6月には当初の予定から前倒しで負債を完済し、コストカッター=ゴーンとしてV字回復を演出して見せた。

 

 その後、2016年4月に三菱自動車で燃費偽装問題が発覚し経営危機状態に陥ると、日産が三菱自動車の再建を支援するとし、三菱を加えて「ルノー・日産・三菱アライアンス」を形成することになった。そして2017年上半期の自動車販売台数では、トヨタ自動車グループやフォルクスワーゲングループを抑え初の世界首位に立つなど、世界のトップグループとなった。

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 日産自動車は、第二次世界大戦前は日産コンツェルンの一員であり、グループの持株会社であった日本産業が由来となって、「日産」となった。海外ではニッサンよりもダットサン(DATSUN)のブランドで浸透している地域も多い。

 これは日産の源流となる会社が最初に生産した車に、「脱兎のごとく」走るというのにかけて「脱兎号」と名付けたことに始まる。社名もダット自動車製造となり、さらに作った小型車には、「DATの息子」=(DATSON)と命名した。さらに英語で同音のSUN(太陽)に変え、DATSUN(ダットサン)となったという。

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 日産は創業時より技術力の高さには定評があり、戦前から故障が少なく高速走行を得意として医者の往診に愛用されたことから、「医者のダットサン」としても親しまれた。さらに戦後の1966(s41)年には、戦闘機製造で有名な中島飛行機などの流れをくんだプリンス自動車工業と合併、スカイライン、グロリアなどの名車をラインナップして、「技術の日産」としての名声をさらに高めた。

 しかし一方で、戦時中に自動車の配給を独占していた「日本自動車配給株式会社」に連なっていた、日本国内各地の地元の有力ディーラーの大半がトヨタ自動車に組織化されたため、販売力でトヨタの後塵を拝することになり、1980年代以降にはトヨタとの差は広がる一方となっていった。

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 1990年代、バブル崩壊で高価格で収益性の高いシーマやセドリック、グロリアなどの高級車の販売が減少、そして、吸収や合併による複雑な人員構成も影響して、労働組合の力が強く人員整理が進められなかったため、財務体質は悪化の一途を辿り、1998年には事実上ルノーの傘下に入ることとなった。

 結局、日本人経営者では、過去のしがらみや情実に引きずられて思い切ったナタを振るうことができず、ルノーからコストカッターとして実績のあるゴーンを受け入れることになった。その結果、日産は息を吹き返し、本体のルノーをしのぐほどに復活した。しかし一方で、日産の経営はゴーンの思うままに支配され、現在係争中の「ゴーンの犯罪」を許すことになったのであろう。

 

 

(凶悪事件頻発)[quote NHK平成30年の歩み]

 

*1999.4.14/h11 光市母子殺害事件

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 山口県光市のアパートで母親(23)と11か月の乳児が、水道の検針を装って侵入した男に殺害された。警察は近くに住む当時18歳の少年を殺人の疑いで逮捕した。
 裁判では刑の重さが焦点となり、1審2審は犯行当時18歳になったばかり年齢を考慮し、無期懲役とした。これに対して、裁判の傍聴を続けてきた夫の本村洋さんは「何の罪もない妻と娘を殺された。非常に不条理を感じている」と強く批判、極刑を求めた。結局、2012年、最高裁元少年の死刑が確定した。
 この事件で、本村さんは「犯罪被害者の会」を結成し、被害者への支援の充実を求めて活動を続け、「犯罪被害者基本法」や「刑事裁判への被害者参加制度」がつくられた。
 本村さんは「妻と娘は帰ってくることはないが、社会がよい方向に変われば、それが唯一、私のできる償いだと思っている」と語った。

 

*1999.7.23/h11 全日空61便ハイジャック事件 機長が殺害される

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 包丁を持った男が羽田発新千歳行きの全日空機をハイジャック。コックピットで機長を殺害し自分で旅客機を操縦しようとした。男は「羽田空港は警備上の問題がありハイジャックが簡単にできる」と指摘した手紙を事件前に空港事務所に送っていたが対策がとられなかったため、その方法で包丁を機内に持ち込んだ。事件後、全国の空港の警備態勢が強化された。

 

*1999.10.26/h11 埼玉 桶川 女子大学生殺害事件

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  被害者の女子大学生が一時交際していた男から執拗なストーカー被害を受け、通学途中に刃物で刺されて殺害された。被害者は事前に地元の警察に再三にわたって被害を訴えていたが警察は積極的な対応を取らず強い批判にさらされた。この事件がストーカー規制法のきっかけとなった。

 

 

(この年の出来事)

*1999.4.11/h11  都知事石原慎太郎氏当選

*1999.6.15/h11 「男女共同参画社会基本法」成立

*1999.8.9/h11 国旗・国歌法成立

*1999.8.14/h11 キャンプ中の13人が増水した川で流されて死亡 神奈川

*1999.9.30/h11 茨城県東海村のウラン加工施設で臨界事故

*1999.10.5/h11 自自公3党連立発足