『Get Back! 90’s / 1996年(h8)』

『Get Back! 90’s / 1996年(h8)』

 

《この年のキーワード quote NHK平成30年の歩み》

閉塞感 援助交際 ルーズソックス メークドラマ

 

橋本龍太郎内閣)

*1996.1.11/h8 村山首相辞任 橋本龍太郎内閣発足

*1996.10.20/h8 第41回衆院選 自民議席増 単独内閣に

 

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 1994(h6)年6月、羽田内閣が少数与党内閣となって総辞職した後、政権復帰を目指した自民党は、かつての宿敵社会党村山富市委員長を総理に立てることで、連立与党に返り咲いた。しかし村山内閣は、阪神・淡路大震災オウム真理教事件という想定外の大事件に遭遇、脆弱な政権基盤のもとでの対応で疲弊し、1996年1月5日、突然首相退陣を表明した。

 村山富市首相の辞任に伴い、自社さ連立の枠組みはそのままで、自民党総裁橋本龍太郎首班指名され第1次橋本内閣が発足した。橋本内閣は、実力者梶山静六内閣官房長官に据え、施政方針演説では改革の必要性を強調、「強靭な日本経済の再建」「長寿社会の建設」「自立的外交」「行財政改革」の4つを最重要課題として挙げた。

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 1996(h8)年10月の衆議院議員総選挙で、自民党議席を伸ばし、社会民主党新党さきがけ議席を減らしたため2党は閣外協力に回り、自民党単独政権として、第2次橋本内閣が発足する。バブル崩壊から政権の混乱も続き、もはや社会体制の抜本的改革は必至となっており、橋本は「行財政改革」を最優先として、首相直属の「行政改革会議」を設置した。

   同年12月17日、ペルーのリマで「日本大使公邸人質事件」が起こると、当時のペルーのフジモリ大統領と協調し、日本人犠牲者を出すことなく解決にこぎつけ、沖縄のアメリカ軍軍用地収用に関して「駐留軍用地特措法」を成立させるなど、直面する問題に対処した。

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 一方で、米国での講演で、大量保有する米国債の売却に言及して、米国証券市場を混乱させたり、1997(h8)年9月の内閣改造で、ロッキード事件で有罪の佐藤孝行議員を総務庁長官として入閣させ、批判を浴びて支持率を急落させるなど失点も多くあった。

 1997(h9)年4月、村山内閣で内定していた消費税等の税率引き上げ(5%)を橋本内閣で実施、景気の低迷を招いていたが、同年11月に「財政構造改革法」を成立させ、赤字国債発行を毎年度削減する等の財政再建路線をとった。

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 しかし同月、北海道拓殖銀行山一證券などの破綻が起こり、橋本内閣の金融システム改革に批判が巻き起こると、2兆円の特別減税を実施、1998年4月には、4兆円減税と財政構造改革法の改正を表明し、財政再建路線を転換した。そして同年5月、自民党衆議院で半数を超えたことを受け、社民党・さきがけとの連立政権を完全に解消した。

 そして1998(h10)年7月の参院選では、景気低迷や失業率の悪化や、閣僚の発言の迷走などで、自民党は惨敗する。経済・政治の時局の読み誤りが致命的で、橋本首相は「すべてひっくるめて責任は私にある」と述べて、1998(h10)年7月30日総辞職する。

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 結局のところ、消費税等の税率引き上げが、日本経済を長期デフレーション(平成不況・失われた20年)に突入させたとされ、後日、橋本龍太郎自身、財政再建を急ぐあまり経済の実態を十分に把握しないまま消費税増税に踏み切り、結果として不況に陥らせたことを悔やんでいる。

  首相退任後、小渕恵三森喜朗内閣と続くなかで、橋本の存在感は薄かったが、森に請われて沖縄開発庁長官および行政改革担当大臣を兼務し、省庁再編を担当して評価を高め、森の後継に浮上した。そして2001(h13)年4月の総裁選に優勢を予想され出馬するも、「自民党をぶっ壊す」とのワンフレーズで「小泉フィーバー」を巻き起こした小泉純一郎に敗れた。

 

 

アトランタオリンピック

*1996.7.19/h8 アトランタオリンピック開幕

 

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 1996年アトランタオリンピックは、7月19日から8月4日までの17日間、アメリカ合衆国ジョージア州アトランタで開催された。近代オリンピック開催100周年記念大会で、197の国と地域から約10,000人が参加し、26競技271種目が行われた。それまで同じ年に行われてきた夏・冬オリンピックは、1994年冬季大会以降、偶数年に交互に開催することになっており、アトランタ五輪は単独で開催される初めての夏季オリンピックとなった。

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 開催都市アトランタは、アメリカ合衆国南部のジョージア州北西部にある中堅都市で、小説や映画の「風と共に去りぬ」の舞台となったように、南北戦争の激戦地だった。人口はアトランタ市域で42万人だが、周辺都市圏を含めると600万を超える広域都市圏を形成し、アメリカ合衆国南部の商業・経済の中心地としての役割を担っている。

 近代オリンピック百周年の記念大会ということで、第一回大会開催地のアテネでの開催が有力視されていたが、結局決選投票でアトランタに決定したことで、五輪最大のスポンサーであるコカ・コーラ社の本社がアトランタにあることがその理由だと、まことしやかな噂が流れた。

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 五輪のハイライト、開会式の聖火点灯では、最終点火者として伝説のヘビー級ボクサー、モハメド・アリが登場し、開会式会場のみならず、テレビで見つめていた世界中の人が固唾をのんだ。現役時代の激闘のダメージで負ったパーキンソン病で、震える体に鞭打って聖火台に点灯する姿は感動を呼んだ。

  競技では、アメリカのマイケル・ジョンソンが、男子陸上200mを19秒32の世界記録で制し、五輪新の400mとともに2冠を達成した。1984ロサンゼルス大会で4冠を達成し伝説的人気のカール・ルイスは、すでに35歳となっていたが、走幅跳で金メダルを獲得し、オリンピック個人種目4連覇の偉業を達成した。

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 日本選手団は相対的に低調で、金メダルは、このあと五輪三連覇を達成することになる野村忠宏ほか、中村兼三、恵本裕子の柔道三選手のみで、金メダル3・銀メダル6・銅メダル5という結果に終わった。誰もが金を確信していたYAWARAちゃんこと田村亮子は、決勝で北朝鮮のケー・スンヒの柔道着を左前に着用するという奇策の前に敗れ、バルセロナ大会に続き銀となった。

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 陸上女子マラソンでは、有森裕子が前回のバルセロナオリンピックの銀に続いて銅メダルを獲得し、「自分で自分をほめたい」という言葉が話題となった。アマチュア選手のみで戦われた野球競技では、圧倒的な強さを誇ったキューバに敗れ2位で銀を獲得した。また、男子サッカーは1次リーグでブラジルを破る「マイアミの奇跡」を演じたが、結局はリーグ敗退となった。

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MLB野茂英雄 ノーヒットノーラン

*1996.9.17/h8 野茂英雄 日本人初の大リーグでノーヒットノーラン

 

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 前年にロサンジェルスドジャーズに入団し大活躍した野茂英雄は、1996年9月17日のロッキーズ戦で、力のあるストレートと得意のフォークボールロッキーズ打線をノーヒット・ノーランに抑えた。高地で空気が薄いため、球場が広くない上にボールも飛びやすい「打者天国」として知られるロッキーズクアーズ・フィールドでの達成で、この時点でMLBでも野茂のみであった。

 1964年、当時の南海ホークス所属の村上雅則投手が、野球留学という形でサンフランシスコ・ジャイアンツ傘下の1Aチームに参加中、見出されていきなり大リーガーとして活躍した例はあった。しかし日本のプロ野球で大きな実績を上げた選手が、直接大リーグチームと契約して、シーズン最初から参加するのは野茂が初めてと言える。

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 野茂は1990年、近鉄バファローズに入団すると、新人ながら最多勝利・最優秀防御率最多奪三振・最高勝率と投手四冠を独占し、ベストナイン・新人王・沢村栄治賞・MVPを獲得して、重要な賞を総なめした。翌年以降も最多勝最多奪三振のタイトルを取り続け、新人から4年連続で最多勝最多奪三振のタイトルに輝いた。

 しかし入団5年目の1994年のシーズンは、肩痛のためシーズン途中で離脱するなどで、8勝7敗に終わる。その年の契約更改では、「複数年契約」と、団野村代理人とした「代理人交渉制度」を希望したが、肩の故障やシーズンの不調を理由に拒否され、契約の更改は紛糾した。

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 当初、球団は年俸吊り上げのための口実であるとして、契約の更新を楽観視していた。しかし野茂は入団以降、活躍するにつれて、球団の姿勢に疑問を持つようになっていた。それとともに、入団時に野茂を快く受け入れてくれた仰木彬監督に代わって、チーム生え抜きの大エースで300勝投手鈴木啓示が監督に就任すると、指導法などをめぐって確執が始まった。

 そんな背景の上に、球団側は野茂の意向を甘く見て契約交渉に臨んでいたため、野茂が近鉄と契約しない限り、他球団でプレーできない「任意引退」に追い込むと強気に出た。野茂は当初からメジャー移籍の希望を抱いており、この球団の態度が決定的となった。

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 メジャーリーグに詳しい代理人団野村は、当時の日本のプロ野球協約に、海外の球団でのプレーを規定する条項がないことを野茂にアドバイスし、近鉄球団から任意引退を引き出す方針で臨んだという。

 1995年、ロサンゼルス・ドジャースマイナー契約を結ぶと、5月2日のサンフランシスコ・ジャイアンツ戦でメジャーデビューを果たし、6月2日のニューヨーク・メッツ戦ではメジャー初勝利を挙げ、そのシーズンの新人王を獲得する。その後の大リーガー野茂英雄の活躍は言うまでもない。

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 野茂がドジャースへ移籍を果たした1995年は、前年から続くストライキの影響で開幕が遅れ、MLBが危機にさらされた年であった。そこへ遥か太平洋の彼方からやってきた野茂投手が、豪速球とフォークボールMLBスラッガーから次々と三振を取る姿は、新たな大リーグファンを球場に動員することになった。

 そして日本の野球界にとって、野茂英雄が大リーグ挑戦のパイオニアとして門戸を開いたことは、多大な影響を残した。その後、海外フリーエージェント(FA)権やポスティング制度などが制定され、今では大リーグで活躍する日本人選手は、もはや珍しくなくなっている。

 

 

(ペルー 日本大使公邸人質事件)

*1996.12.17/h8 ペルー 日本大使公邸人質事件。翌1997(h9).4.22に解決するまで、4か月以上かかった。

 

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 1996(h8)年12月17日夜、ペルーの首都リマの日本大使公邸で、青木盛久駐ペルー日本大使をホストとし、恒例の天皇誕生日祝賀レセプションが行われているところに、突然覆面をした一団が会場に乱入し、公使館を制圧・占拠した。

 一団は、ネストル・セルパをリーダーとするトゥパク・アマル革命運動(MRTA)の構成員14人で、青木大使をはじめとする大使館員やペルー政府の要人など、レセプションに参加していた約600人を人質にし、逮捕されているMRTA構成員の釈放を要求した。

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 当初MRTAは、ペルー政府要人や日本大使館員など少数の人質確保が目的としていたが、予想以上の多数の人質を確保してしまったため、女性や子供など順次多くの人質を解放した。しかし、要人たちが人質として残されたまま、事件は膠着状態に陥る。

 当初からペルー当局は武力突入を検討していたが、日本側が「平和的解決」を優先するよう申し入れたために、突入はいったん中止された。事件発生から1か月ほど経ったころから、フジモリ大統領は国内外からの批判の高まりや、内政の不安定を嫌い、ペルー警察当局に武力突入計画の立案させた。

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 それまでペルーといっても、地球の裏側の小国程度にしか思っていなかった日本人は、日本大使公邸が襲撃され、日系二世のフジモリ大統領が指揮の先頭に立っていると聞いて、俄然わきたった。 その間、日本のテレビ局のニュース取材班が、MRTA側の声明を取材するとして、抜け駆けでペルー大使館に突入を試みて、世界各国からの批判をあびるという不祥事もあった。

 2月1日には、橋本龍太郎首相とアルベルト・フジモリ大統領がカナダのトロントで会談し、橋本首相は事件の平和的解決を訴え、フジモリ大統領もこれに一定の理解を示したが、実際には1月初めから武力突入用のトンネル掘削を開始していたという。このあたりに、準戦時状態に近いペルーと平和ボケと言われた日本との落差が表れている。

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 2月11日にはペルー政府とMRTAの間で直接交渉が開始され、ペルー政府側代表の教育相や、中立的な立場から交渉をサポートする保証人委員会の委員が、犯行グループと交渉をはじめ、犯人グループと服役中メンバー全員のキューバ亡命案などが提案されたが、結局は決裂した。

 そして事件発生から127日後の4月22日、公邸地下に掘削されたトンネルを利用して、軍・警察の合同特殊部隊が公邸に突入し、MRTA犯行グループ14人全員を射殺、人質の71人を救出したが、人質の最高裁判事と、特殊部隊の2隊員の計3名が殉職した。

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 フジモリ大統領がこの事件の解決時に果たした決断に対し、日本をはじめとする世界各国は大きな賞賛を贈った。しかし後になって、投降したMRTA構成員を射殺した疑惑などが発覚し、フジモリ大統領も訴追されることになった。

 日系二世のアルベルト・フジモリは、1990年の大統領選挙でダークホース的存在から大統領に当選し、破産状態のペルー経済を立て直し、革命間近といわれた反政府勢力を抑え込むのに成功し、多くの国民の支持を得た。しかし少数派の議会勢力の下で、強引な政策を推進するために、憲法や議会を無視するような独裁的な手法を用いたため、その裏で違法行為や汚職や人権侵害が蔓延し、それらは退任後次々とあばかれ、現在は禁錮25年の判決を受け服役中で、その業績は評価が分かれる。

 

 

(この年の出来事)

*1996.1.19/h8 社会党が「社会民主党」に党名変更

*1996.2.16/h8 菅直人厚相「薬害エイズ問題」で国の法的責任認め謝罪

*1996.5.19/h8 水俣病未認定患者の救済問題 全国連とチッソが和解協定調印

*1996.5.31/h8 2002年サッカーW杯 日韓共催決まる

*1996.7.21/h8 サッカー五輪代表「マイアミの奇跡

*1996.9.28/h8 「民主党」結成(菅直人鳩山由紀夫代表)

*1996.12.5/h8 「原爆ドーム」と「厳島神社世界文化遺産登録決定