【6th Century Chronicle 581-600年】

【6th Century Chronicle 581-600年】


◎飛鳥の王権と聖徳太子

*585/ 敏達天皇が没し、用明天皇が即位する。

*587/ 用明天皇が没し、崇峻天皇が即位する。

*587/ 蘇我馬子穴穂部皇子を殺害し、さらに物部守屋を滅ぼす。

*592.12.8/ 蘇我馬子に暗殺された崇峻天皇に代わって、推古天皇が即位する。

*593.4.10/ 聖徳太子厩戸皇子)が国政に参画する。

 

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 585年、「敏達天皇崩御を受け「用明天皇」が即位する。蘇我稲目の孫でもある用明天皇は崇仏派であり仏法を重んじたが、在位2年足らず(587年)で用明天皇崩御した。後継問題で、大連の物部守屋は「穴穂部皇子」を即位させようとはかるが、蘇我馬子穴穂部皇子を殺害し、さらに物部守屋をも射ころさせ、物部氏を滅亡に追い込む(丁未の乱)。

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 蘇我馬子によって「崇峻天皇」が即位するが、実権を馬子が握られている不満から反発しだすと、馬子は計略で暗殺してしまった。その馬子に請われて、先々代敏達天皇の皇后であった額田部皇女が、592年、史上初の女帝として即位、「推古天皇」(39歳)となる。

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 593年、用明天皇の子で甥の厩戸皇子聖徳太子)を、皇太子として国政を補佐させる。推古天皇は、皇太子厩戸皇子と大臣蘇我馬子の勢力の均衡を保ち、馬子が葛城県の支配権を望んだ時も、毅然とこの要求を拒絶したという。

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 推古女帝のもと、聖徳太子蘇我馬子と協調して、冠位十二階(603年)・十七条憲法(604年)を次々に制定し、法令や組織の整備を進めた。また607年には、小野妹子を隋に派遣(遣隋使)し、中国皇帝に日本の独立性を示した。

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 594年推古天皇は、三宝(仏・法・僧)を敬うべしという詔勅三宝興隆の詔)を示し、太子や馬子と共に仏法興隆に努め、斑鳩法隆寺を建立させるなど仏教を奨励した。620年、聖徳太子と馬子は「天皇記」「国記」を編纂して、国の歴史を記した。

 622年に太子が49歳で薨去し、更に4年後の626年、蘇我馬子も亡くなる。そして628年、推古天皇は75歳で崩御した。推古天皇は継嗣を定めていなかったため、馬子の後を受けた蘇我蝦夷は、後継候補の田村皇子と山背大兄王から、田村皇子を擁立して「舒明天皇」とした。

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 こうして政治の実権は、蘇我蝦夷・入鹿父子に握られ、入鹿は聖徳太子の子「山背大兄王」を攻めほろぼしてしまう。これを皇統政治の危機と見た中大兄皇子中臣鎌足は、入鹿を殺し「大化の改新」を開始する。ここに飛鳥のヤマト政権は、大きな転換期をむかえることになる。

 

(この時期の出来事)

*598/ 蘇我馬子飛鳥寺法興寺)を発願して建立をはじめ、593年塔の心礎に仏舎利を納める。

*593/ 難波に四天王寺が建立される。

*594/ 三宝興隆の詔が出され、諸氏が競って寺を建立する。