【16th Century Chronicle 1591-1600年】

【16th Century Chronicle 1591-1600年】

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文禄・慶長の役

*1591.10.10/肥前 秀吉が、名護屋城の築城を九州の大名に命じ、工事が始まる。

*1592.4.13/朝鮮 日本軍先鋒の小西行長らが、釜山に上陸する。(「文禄の役」はじまる)

*1592.5.1/朝鮮 朝鮮王李昖が首都漢城を放棄して平城に向かい、小西行長加藤清正らが漢城に入城する。

*1592.6.15/朝鮮 小西行長黒田長政らが、平壌を占領する。

*1592.7.7/朝鮮 李舜臣が、脇坂安治らの日本水軍を撃破する。

*1593.1.7/朝鮮 小西行長らが平城から撤退する。

*1593.5.15/朝鮮 石田三成小西行長らが、明使を伴って名護屋に帰着する。

*1954.12.13/中国 小西行長の使者内藤如安が北京で明帝と会見、修好を約束する。

*1596.9.2/大坂 秀吉が明国の使節大坂城内で接待するが、講和の真相を知り、朝鮮再出兵を決める。

*1597.2.21/朝鮮 秀吉が、朝鮮へ出陣させる諸将の陣立てを定める。(「慶長の役」はじまる)

*1597.8.13/朝鮮 宇喜多秀家が、明軍を全羅道原城で攻略する。

*1597.9.16/朝鮮 朝鮮水軍を率いる李舜臣が、伊予来島領主来島通総全羅道で打ち破る。

*1597.12.22/朝鮮 明国軍が、浅野幸長らの慶尚道蔚山城を攻囲したため、加藤清正が急遽、駆け戻る。

*1598.8.25/朝鮮 徳川家康前田利家が、秀吉の喪を秘して、朝鮮在陣の諸将を召喚させる。撤兵は12月にまでかかる。

 

文禄の役

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 日本の政権が朝鮮半島に出兵するのは、663年、唐・新羅連合軍と大和朝廷百済連合軍が衝突した「白村江の戦い」で、大和・百済側が敗北した時以来、930年ぶりであった。豊臣秀吉が朝鮮に出兵した動機や意図も、諸説あるが確定的なものがなく、功なり遂げた秀吉の、老いによる誇大妄想的な要素も否めない。

 秀吉は大明帝国の平定を究極の目的として、まず朝鮮を帰服させるとともに、明との仲介をするよう強要した。その旨を伝える使者の役割を命じられた対馬守護の宗義調は、その途方もない要求に困惑し、秀吉重臣で舅にあたる小西行長と通じて、朝鮮には単なる通信使を要請し、あたかも服属使節であると偽って朝鮮使節を招いた。

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 秀吉は一向に進まない朝鮮の仲介をまたずして、 天正19(1591)年8月、征明遠征の不退転の決意を諸大名に発表した。遠征軍の宿営地として肥前名護屋城築造を指示し、翌天正20(1592)年には、征明軍の編成が整った。

 偽って朝鮮交渉を進めた小西行長宗義智は、その露顕を恐れ、自らが先鋒を務めることを願い出た。そして、文禄元(1592年)年4月12日、日本軍の一番隊の宗義智小西行長対馬・大浦を出発し釜山に上陸した(文禄の役開始)。

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 開戦まもなく釜山を落とすと、上陸からわずか20日で朝鮮の都 漢城京城)を占拠。漢城から進路を分かち、小西行長平安道北朝鮮西部)を平壌まで侵攻し、加藤清正咸鏡道北朝鮮東部)を兀良哈(北朝鮮・中国・ロシア国境付近)まで攻め上がった。

 朝鮮国王宣祖は、はやばやと首都漢城を放棄し逃避行を続け、明に援軍を要請した。朝鮮軍の瓦解をみて明軍が参戦すると、日本軍は進撃を平壌までで停止し、漢城の防備を固めることとした。

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 戦線は膠着し、両軍ともに兵糧が尽きはじめると、文禄2(1593)年3月、日本と明は講和交渉を始めた。この講和交渉の場から朝鮮は外され、交渉に口を挟む余地もなく、ただ明にすがるだけだった。

 合意に基づき、日本軍は漢城を出て、明の勅使 沈惟敬・朝鮮の二王子とともに釜山まで後退した。5月15日、明勅使は名護屋で秀吉と会見し、6月28日には答礼使として、小西行長の家臣内藤如安を北京へ派遣することとした。

 

 明へ向かった内藤如安は秀吉の「納款表」を持っていたが、明の宋応昌は秀吉の「降伏」を示す文書が必要だと主張。小西行長は「関白降表」を偽作して内藤に託し、内藤は翌1594年(文禄3年)の12月に北京に到着した。

 交渉を任された小西行長らの偽装により、秀吉は明降伏という報告を受け、明朝廷は日本降伏という報告を受けた。これは日明双方の講和担当者が戦闘は無益と考え、穏便に講和を行うためにそれぞれ偽りの報告をしたからである。この偽装が露顕したとき秀吉は激怒し、次の「慶長の役」へと繋がることになった。

 

慶長の役

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 「関白降表」という偽りの降伏文書を受けて、明は秀吉に対し日本国王(順化王)の称号と金印を授けるため日本に使節を派遣した。文禄5(1596)年9月、秀吉は来朝した明使節と謁見するも、その実情を知り激怒、朝鮮への再度出兵を決定した。

 慶長2(1597)年、九州・四国・中国勢を中心に総勢14万人を超える軍勢が、対馬海峡を渡り朝鮮半島に上陸した。同年7月、秀吉の陸上軍は、慶尚道から全羅道に向かって進撃を開始した。また全羅道沿岸に展開した日本水軍は、李舜臣が率いる朝鮮水軍に悩ませられながらも全羅道沿岸を制覇する。

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 明・朝鮮連合軍は漢江を主防衛線に設定したが、漢城京城)は日本軍の接近でパニックに陥っており、朝臣たちはわれ先に都から避難しつつあった。しかし日本軍は漢城へ進まず、計画通り慶尚道から全羅道の沿岸部へ撤収し、文禄の役の際の城郭群域の外縁部に、新たな城郭群を築いて恒久領土化を目指した。

 築城を急ぐ日本軍に対して、明軍と朝鮮軍は攻勢をかける。慶長2(1597)年12月には、完成直前の蔚山倭城(日本式城郭)を明・朝鮮連合軍が襲撃し、攻城戦が開始される。籠城戦の日本軍は、未完の蔚山城で食料備蓄も不足して苦戦を強いられるが、毛利秀元等が率いる援軍により、明・朝鮮連合軍を敗走させ勝利した(蔚山城の戦い)。

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 大軍で再攻勢を行う計画が発表されていたが、豊臣秀吉は慶長3(1598)年8月18日に死去する。五大老五奉行により撤退が決定され、密かに朝鮮からの撤収準備が開始された。ただし、朝鮮の日本軍には秀吉の死は秘匿されていた。

 明軍は本国から増援されており、9月に入ると明・朝鮮連合軍は軍を三路(東路軍、中路軍、西路軍)に分かち、蔚山、泗川、順天へ総力を挙げた攻勢に出て、これを受けて日本軍は沿岸部に築いた堅固な守りの城(倭城)で迎え撃った。

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 三路の戦い(第二次蔚山城の戦い・泗川城の戦い・順天城の戦い)では、明・朝鮮連合軍は11万を超えて、最大規模の一大攻勢であったが、日本軍の反撃の前にすべて失敗に終わった。

 慶長3(1598)年8月の秀吉が死去して以降、大名間の対立が顕在化し、対外戦争を続ける状況にはなかったため、10月15日、五大老による帰国命令が発令された。朝鮮半島に展開していた諸武将は、明・朝鮮軍の妨害を受けながらも、何とか撤退を進めたが、すべての撤退完了は、同年末に至ったという。

 

 秀吉の無謀な朝鮮出兵は、何ら得るものもなく、やがての豊臣政権の滅亡につながった。戦場となった朝鮮は、人口は減少し国土も荒廃、両班支配の政権は、効果的な対策も施せず細々と続く。また、朝鮮支援の大軍を動員した明は国力を大幅に消耗し、やがての滅亡へと突き進む。

 

関ヶ原の戦い

*1599.閏3.4/大阪・山城 石田三成が、加藤清正福島正則ら7将の襲撃計画を知り、大坂から伏見へ逃れて、家康を頼る。

*1600.3.-/陸奥 上杉景勝会津に新城を築き始め、景勝が石田三成と通じて挙兵の準備中との密告が家康に届く。

*1600.7.11/近江 石田三成が、大谷吉継佐和山城で会見して家康追討策を練り、挙兵の盟主に毛利輝元を選ぶ。

*1600.7.17/大坂 豊臣氏五奉行が、家康の罪科13ヶ条を挙げて諸大名の挙兵を促す。

*1600.7.17/大坂 石田三成が、諸大名の妻子を人質として大坂城に移す指示をし、大坂天王寺の細川邸を取り囲まれた細川忠興の妻ガラシャ夫人は、これを拒否して覚悟の死を遂げる。

*1600.7.25/下野 三成挙兵の報をうけ、上杉征討中の家康は軍議をひらき、軍団を西へと反転する。

*1600.9.15/美濃 関が原で東西両軍が激突、一日で東軍勝利で決着が付く。

*1600.10.1/京都 石田三成小西行長らが六条河原で斬首される。

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 慶長3(1598)年8月5日、死期の近づいた秀吉は、幼少秀頼の後見を家康ら五大老に託して、8月18日に息を引き取る。秀吉の死後、豊臣政権の政治体制は五奉行五大老による集団運営体制へと移行する。しかし五大老筆頭格の徳川家康の力が群を抜いており、結果的にこの不均衡がこの体制を崩壊させてゆく。

 分裂政争の原因は複雑に込み入っており、「中央集権派と地方分権派の対立」や「朝鮮出兵をめぐる文治派と武断派の対立」や「秀次切腹事件への対応での内部対立」さらには「秀吉の遺言遵守をめぐる豊臣奉行衆と家康支持一派との対立」などが挙げられるが、いずれも確定的ではない。

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 徳川家康はその力にもの言わせ、私的な婚姻計画をはじめ、正室北政所に代わっての大坂城西の丸入城、大老奉行の合意を無視した大名への処遇変更など、「太閤様御置目」(秀吉の遺言など事後定め置)に反する独断行為を乱発した。これに対して、太閤置目の遵守を旨とする大老前田利家や豊臣奉行衆が、家康を制御する動きを見せる。

 大老前田利家や豊臣奉行衆による家康追及の動きが起こると、 一時は徳川側と前田側が武力衝突する寸前まで至ったが、誓書を交換するなどして騒動は一応の決着を見るが、翌年の閏3月には前田利家が死去する。

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 豊臣政権内においては、七将をはじめとする武断派と、石田三成など行政を担当する文治派の対立があり、大老前田利家が調停に努めていたが、その利家の死去によって、両派の対立が表面化する。

 慶長4(1599)年閏3月3日、前田利家の死をきっかけに、加藤清正福島正則黒田長政藤堂高虎細川忠興蜂須賀家政浅野幸長の豊臣家子飼いの七将が、五奉行の一人石田三成を襲撃する事件が起こる。襲撃の動機は、慶長の役での蔚山の戦いの事後処理で、七将らに不満があったためとされる(石田三成邸襲撃事件)。

 

 これは豊臣家臣団内部の反目であり、五大老は直接関与していないとされるが、背景には反徳川派と親徳川派の対立があったともいわれる。襲撃を察知した三成は、かろうじて伏見城西丸の自身の屋敷に逃げ込んだ。結局、家康ら大老と秀吉正室北政所による仲裁の結果、三成は奉行職を解かれ居城の佐和山城に蟄居となる。

 

  慶長4(1599)年9月7日、家康が秀頼に節句の挨拶で伏見城から大坂城に入城する機を狙っての、家康に対する暗殺計画が密告により発覚した。首謀者は前田利家の嫡男前田利長(加賀金沢城主)であるとされ、家康は「加賀征伐」の号令を発した。金沢の利長はこの加賀征伐の報に接し、重臣を家康の下へ派遣して弁明に努め、父利家正室で利長自身の母芳春院を人質に出す約束を交わす(加賀征伐騒動)。

  この間、家康は秀吉に伏見在城を命じられたにもかかわらず、北政所の居所であった大坂城西の丸に入り、城中から大名への加増や転封を実施するなど、事実上、政権を主導するごとく振る舞った。これに表立って抗うものはなく、大老や奉行もほぼ恭順するが如くであった。

 

 こうした政治的状況下、慶長5(1600)年春頃より大老上杉景勝と家康との関係が悪化、景勝が勝手に築城や架橋をしているのは豊臣政権への反逆であるとして、家康は会津征伐を決定する。6月18日に伏見を発った家康は7月1日に江戸に到着し、7月21日に出陣すること決める。

 一方、上方に残った前田玄以増田長盛長束正家の豊臣三奉行は、広島の毛利輝元宛に大坂入りを要請する。輝元は7月15日に広島を出発し、同日、島津義弘上杉景勝毛利輝元宇喜多秀家・三奉行・小西行長大谷吉継石田三成が秀頼のため決起したことを伝える。

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 7月17日豊臣三奉行は、家康が犯した違背を書き連ねた「内府ちがひの条々」を諸大名に送付、また家康に従った大名の妻子を人質に取ろうとした。人質要求を拒否した細川忠興の妻ガラシャらは自刃する。7月19日には輝元が大坂城に入城し、7月29日に三成が伏見に到着する。

 一方、石田三成大谷吉継が「別心」したとの知らせが家康に届き、7月29日には家康から黒田長政藤堂高虎に西進の命令が出されている。8月5日家康は小山から江戸に戻り、8月22日には、東軍諸大名は清須周辺に集結する。

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 こうして対決姿勢が明確になり、石田三成が主導し毛利輝元を総大将に迎えた西軍と、徳川家康率いる東軍は、続々と関ヶ原終結した。9月14日中に東西に布陣した両軍は、慶長5(1600)年9月15日午前、戦闘を開始、昼過ぎには東軍勝利でほぼ決着がついた。

 9月27日、家康が大坂城に入城し、豊臣秀頼と和睦をかわす。10月1日には、西軍を主導した石田三成らが京六条河原で斬首される。こうして、徳川家康が事実上の政権を掌握するが、秀頼以下豊臣方の勢力も西日本中心に残存し、豊臣氏は、慶長20(1615)年の大坂夏の陣大坂城落城によって滅亡する。

 

(この時期の出来事)

*1591.閏1.8/京都 イエスズ会バリニャーニとともに、天正遣欧使節の4人の少年が帰国し、聚楽第で秀吉に謁見する。

*1591.閏1.-/京都 秀吉が、京都の周囲に堤(御土居)を築く。

*1591.2.28/京都 千利休(70)が、秀吉の命をうけて葭屋町の屋敷で自害する。

*1591.12.27/京都 秀吉が、羽柴秀次に関白の位を譲り、以後、太閤と称する。

*1593.8.3/大坂 秀吉の側室淀君が、秀頼を出産する。

*1595.7.8/山城 秀吉が関白秀次を伏見に呼びよせ、関白・左大臣の位を剥奪し高野山へ追放する。その後、秀次は切腹、子女・妻妾は処刑される。

*1596.1.16/山城 秀吉が宇治川に太閤堤を築かせる。

*1596.12.19/肥前 秀吉が、京・大阪で捕えた宣教師・キリスト教徒を長崎で処刑させる。(26聖人の殉教)

*1598.3.15/山城 秀吉が醍醐三宝院で、盛大に観桜の宴を催す。

*1598.8.5/山城 死期を悟った秀吉が、長男秀頼を家康ら五大老に託し、8.18に没する(62)。

*1599.1.10/大坂 豊臣秀頼が、伏見城から大坂城に移る。