【16th Century Chronicle 1581-1590年】

【16th Century Chronicle 1581-1590年】

 

豊臣秀吉の政権樹立

*1581.6.25/因幡 羽柴秀吉が毛利方鳥取城を包囲し、兵糧攻めにする。

*1582.5.7/備中 秀吉が、毛利氏の武将清水宗治が守る高松城(岡山)を攻囲し、水攻めにする。

*1582.6.2/京都 明智光秀が謀反をおこし、本能寺宿泊中の織田信長(49)を急襲し自刃させる(本能寺の変)。

*1582.6.13/山城 秀吉が毛利攻めから急遽とって返し、山崎で明智光秀を破る。

*1582.6.27/尾張 織田家宿老の羽柴秀吉柴田勝家らが清州城に集まり、織田家後継を長男信忠の遺子三法師(秀信)に決める。

*1582.10.15/京都 秀吉が、京都大徳寺で信長の葬儀を行う。

*1583.4.21/近江 秀吉の軍勢が柴田勝家の軍勢を破り、勝家は越前北庄城を包囲され自刃する(賤ケ岳の戦い)。

*1584.4.9/尾張 徳川家康が、三河侵攻をはかる秀吉勢の三好秀次らを打ち破る(長久手の戦い)。

*1585.3.8/京都 秀吉が京都大徳寺で、千利休を茶頭として大茶会を催す。

*1585.7.11/京都 秀吉が関白となり、姓を羽柴から藤原に改める。

*1585.8.6/阿波 秀吉が長宗我部元親を降伏させ、四国を統一する。

*1585.-.-/大坂 大坂城天守が完成する。

*1586.10.27/大阪 家康(45)が大坂城で秀吉(50)と会見、臣従を誓う。

*1586.12.19/京都 秀吉が太政大臣に任じられ、豊臣の姓を授けられる。

*1587.6.19/筑前 秀吉がキリシタン禁教令を出し、宣教師に帰国を命じる。

*1587.9.13/京都 聚楽第が完成し、秀吉が大坂城から移る。10月には京都北野で空前の大茶会を催す。

*1588.7.8/ 秀吉が諸国の農民に武器の所持を禁じる(刀狩り令)

*1590.7.11/相模 3ヶ月にわたる籠城戦のすえ、北条氏の小田原城が落城し、北条氏政・氏照兄弟は切腹を命じられる。

*1590.7.13/相模 秀吉が小田原城に入り、徳川家康に関東8国を与える。まもなく家康は江戸城に移る。 

 

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 豊臣秀吉は、天文6(1537)年ごろ、尾張国愛知郡中村郷の下層民の家に生まれたとされる。木下藤吉郎と名乗り、当初、今川氏配下の松下家に仕え、天文23(1554)年頃からは織田信長に小者として仕え、次第に頭角を現した。

 信長の草履取りをした際の機知から、清洲城の普請奉行、台所奉行などでのそつのない手配、墨俣一夜城建設の逸話などとともに、永禄11(1568)年の近江箕作城攻略戦や、元亀元(1570)年、越前国朝倉義景討伐で浅井と朝倉の挟撃での危機に見事な退却戦(金ヶ崎の退き口)を務めた手際など、戦略面での功績が語られ、「木下藤吉郎」として信長の有力部将となってゆく出世物語が語られる。

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 そして元亀元(1570)年、織田・徳川連合軍が浅井・朝倉連合軍を打ち破った「姉川の戦い」では、奪取した横山城の城代に任じられ、その浅井氏との攻防戦(志賀の陣)や小谷城の戦いで、浅井・朝倉を打ち破る大功をあげた。

 浅井氏滅亡の後、北近江の長浜城主となる。天正3(1575)年、長篠の戦いに従軍し、翌年、北畠具教の旧臣が篭る霧山城を落城させた。天正5(1577)年には、越後国上杉謙信と対峙している柴田勝家の救援を命じられるが、作戦をめぐって勝家と意見が食い違い、勝家らが謙信に敗れて(手取川の戦い)、信長から叱責される。

 

 しかしすぐに、明智光秀らと共に松永久秀討伐に従軍して、功績を挙げ(信貴山城の戦い)失点を回復するとともに、重要武将の一人としての地位を確保した。天正5(1577)年10月からは、天下統一を目指す信長の命を受けて、毛利輝元らの中国地方攻略を進め、播磨・但馬・備前・美作などを次々に平定し、鳥取城の兵糧攻め高松城の水攻めなど歴史に残る攻城戦を実行した。

 しかし、天正10(1582)年6月2日、主君織田信長明智光秀の謀反により、京都本能寺で自害させられる「本能寺の変」が起こった。このとき、秀吉は事件を知ると、すぐさま毛利輝元と講和し、京都に軍を返す(中国大返し)。

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  天正10(1582)年6月13日、秀吉は「山崎の戦い(天王山の戦い)」において明智光秀を打ち破り、光秀は落ち武者狩りにより討たれた。秀吉はその後、京都における支配権を掌握する。

 天正11(1583)年、対立するようになった柴田勝家軍を近江「賤ヶ岳の戦い」で打ち破り、越前に撤退し勝家は正室お市の方と共に自害する。さらに織田家の実力者たちを次々に葬りさった秀吉は、家臣第一の地位を確立、実質的に信長を継承することになった。

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 天正12(1584)年、信長の次男織田信雄は、秀吉に反発し徳川家康と結び、半年にわたる「小牧・長久手の役」が始まる。4月9日の長久手の戦いでは、織田信雄・家康連合軍が、秀吉側軍勢を圧倒したが、秀吉が直接に反攻態勢に出ると、織田信雄は単独で講和を結び、家康も兵を引いて戦役は終わる

 天正14(1586)年、秀吉は正親町天皇から豊臣の姓を賜り太政大臣に就任する。徳川家康に対しては融和策に転じ、婚姻や人質を交わすことで、家康は上洛して秀吉への臣従を誓うが、東国に関しては家康を介しての間接支配を認めた。

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 天正15(1587)年、西国も平定した秀吉は、平安京大内裏跡(内野)に「聚楽第」を建設し、翌天正16(1588)年4月、聚楽第後陽成天皇を迎え、徳川家康織田信雄ら有力大名に忠誠を誓わせ、ここに豊臣政権を確立を天下に示した。

 天正19年(1591年)、甥の秀次を家督相続の養子として関白職を譲るが、やがて側室の淀殿が秀頼を産んだため、秀次を謀反の疑いで切腹させ、幼い秀次を後継に据える。これが秀吉の死とともに、豊臣氏滅亡の禍根を残すことになった。

 

(この時期の出来事)

*1581.2.28/京都 信長が、御所門外に正親町天皇の隣席のもと、盛大に「御馬揃」を行う。

*1582.1.28/肥前 大友・大村・有馬の九州3大名が、少年使節ローマ教皇のもとへ派遣する(天正遣欧使節)。

*1582.3.11/甲斐 武田勝頼(37)が織田軍に攻められ、嫡男信勝とともに自害する。

*1582.6.4/三河 堺滞在中だった徳川家康(47)は、本能寺の変の報せに接し、必死の脱出行で居城岡崎にたどり着く。

*1584.6.28/肥前 ポルトガル商船が平戸に来航する。

*1586.-.-/京都 彫金師後藤徳乗により、天正大判が鋳造される。