【15th Century Chronicle 1481-1500年】

【15th Century Chronicle 1481-1500年】

 

土一揆国一揆一向一揆

*1484.11.3/京都 山城の土一揆が徳政を求めて蜂起、東寺にたてこもるも、細川政元らに鎮圧される。

*1485.8.4/近畿 山城・大和・河内で土一揆が蜂起、幕府は所司代多賀高忠に鎮圧を命じる。

*1485.12.11/山城 南山城で戦う畠山政長と義就の軍勢に対し、国人らが国外撤退を要求する。(山城国一揆

*1486.8.24/京都 徳政一揆が蜂起し、東寺金堂などを焼く。

*1488.6.9/加賀 一向宗徒による一向一揆により、加賀守護富樫政親が攻め滅ぼされる。(加賀一向一揆

*1490.3.21/京都 土一揆が徳政を求めて蜂起し、北野社にたてこもる。

*1493.8.18/山城 国人らが伊勢貞陸の守護就任を認める。(山城国一揆終結

 

山城国一揆

 南山城国(京都南部)は、京と奈良、また大坂とを結ぶ要衝の地で、戦乱が起こると否応なく兵が往来するところであった。応仁の乱が起こると、南山城に割拠した国人衆は東西両陣に分かれて互いに争った。乱が終わったのちも、南山城では守護畠山氏内部の争いが続いていた。 

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 1485(文明17)年、山城国京都府南部)南半の上三郡(久世郡・綴喜郡相楽郡)で、国人や農民が協力し、畠山氏の支配を排除する一揆が起り、一揆勢は、以後8年間自治を行なった。

 南山城では、守護畠山氏の跡目争いが解決せず、応仁の乱終結した後も畠山義就畠山政長が戦いを続けていた。応仁の乱の原因にもなった義就と政長の争いが、乱後にまで長年続くことで、当地の国人衆や農民は疲弊し限界状況にあった。

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 1485(文明17)年、南山城の国人衆(土着武士)や土民(農民)たちは、宇治の平等院に集まり評定を持った。評定では「国中掟法」を取り決め、両畠山氏の影響を排除し、南山城の自治を行うことを決めた。

 実力行使も辞さないという評定を突き付けられた両軍は、あっさりとこれを機会に引き上げることになった。南山城地域は、「三十六人衆」と呼ばれる指導的な国人衆により、自治政治がおこなわれるようになった。

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 室町幕府を仕切る管領細川政元らは、お膝元である山城国で起こった一揆を静観し、国人たちの自治を認めた。山城国守護としての畠山氏の勢力が排除されるのは、応仁の乱後の基盤再建に努める幕府にとって、お膝元である山城国を御料国化として、ある程度の自治を認める方が好都合であった。

 1486(文明18)年5月、政所執事伊勢貞陸が半ば名目上の守護に補任され、幕府及び伊勢氏は一揆側に一定の政治権限を認める一方、畠山氏が持っていた守護請の権限を継承した。一揆側もまた、必要に応じて守護の権限を受容れた。

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 その後、国人と農民の対立や国人同士の対立を生むことになり、一揆で成立した惣国は崩壊の兆しを見せ始めた。一方、幕府内でも内紛があり、管領細川政元が将軍足利義稙(義材)に背き、足利義澄(義高)を擁立して挙兵する(明応の政変)。

 これまでは半ば名目上の守護だった伊勢貞陸は、政変でゆらぐ京都治安維持の名目から、山城全域の一円知行化を目指した。そこで、伊勢の支配を認めて地位を維持しようとする国人たちと、守護の支配権を認めない国人に分裂することになった。

 

 1493(明応2)年、伊勢氏に近い国人達は自ら自治を放棄して惣国は解体される。一部の国人衆は抵抗するも、翌年11月には守護代古市澄胤によって一揆側は敗れ、ここに山城国一揆は完全に終結した。

 山城国一揆は、守護の畠山氏が内紛で争い、戦場となるのを拒否して決起したもので、室町幕府に反抗しようという性質のものではなく、それ故、一揆勢の自治を認めた。しかし、自力で守護の支配を廃した動きは、幕府の権威をも凋落せしめ、以後、下克上の風潮が強まってゆくことになった。

 

加賀一向一揆

 本願寺中興の祖と呼ばれる真宗大谷派第8代門首蓮如は、1471(文明3)年、比叡山延暦寺などの迫害を受けて京から逃れて、越前吉崎に吉崎御坊を設け、ここを北陸における布教拠点とした。

 1474(文明)6年から1475(文明7)年の間、吉崎御坊福井県あわら市)に滞在した。蓮如親鸞以来の血脈相承を根拠として、北陸の浄土系諸門を次々と統合していった。

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 1473(文明5)年(1473年)には、富樫政親の要請を受けて守護家の内紛に介入し、翌年には弟の富樫幸千代を倒した。しかし、政親は本願寺門徒の団結の強さに不安を感じ、逆に弾圧を始めた。蓮如吉崎御坊を退去し、加賀の門徒は追われて越中に逃れた。

 ところが今度は越中門徒宗が、政親と結んだ石黒光義を打ち破る越中一向一揆が起こり、元気づいた一向宗は加賀に集って国人層とも合流、1488(長享2)年、政親を高尾城に攻めて討ち取った(長享の一揆)。

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 蓮如は消息を送って一揆を諌めるが、加賀の門徒宗は、宗主代理の一門衆(松岡寺住持蓮綱・光教寺住持蓮誓・本泉寺住持蓮悟)のもとで自治を始め、次第に国人層から本願寺門徒宗による支配に移行していった。

  その後、周辺諸国への進撃に失敗し、内部の動揺が広がったり、本願寺中央による抑圧があったり、勢力の弱まる時期もあったが、1546(天文15)年に尾山御坊(金沢御堂)が建設されると、それを拠点として北陸全体に一向一揆を拡大させたりした。

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 さらに、朝倉氏、上杉謙信織田信長など、本格的な戦国大名とも対立し、一時は一揆勢が上杉軍を各地で破るなど猛威を振るった。しかし謙信率いる上杉本隊により大敗を喫すると、さしもの一揆の勢いにも陰りが見え始める。

 1580(天正8)年、織田信長軍により石山本願寺が陥落、1582(天正10)年、加賀鳥越城の陥落により、100年近く続いた加賀一向一揆も終焉を迎える。

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(この時期の出来事)

*1482.11.27/京都・関東 足利義政が古川公方足利成氏と和睦する。(都鄙の合体)

*1483.6.27/ 足利義政が創設した東山山荘の常御所(のちの慈照寺)が完成する。

*1485.6.15/ 足利義政が出家する。

*1487.9.12/近江 将軍義尚が、六角高頼討伐のため近江坂本に出陣するも、戦果が上がらず2年後に陣中で死去する。

*1489.2.23/ 東山山荘の観音堂銀閣)の上棟が行われる。

*1489.3.26/近江 将軍義尚(義照/25)が、近江の陣中で病死する。

*1490.1.7/ 足利義政(56)没。

*1490.7.5/ 足利義稙(義材)が10代将軍となる。

*1491.1.7/足利義視(53)没。

*1493.4.22/京都・河内 細川政元が将軍足利義稙(義材)に背き、足利義澄(義高/14)を擁立して挙兵する。(明応の政変

*1493.閏4.25/ 細川政元の軍勢が正覚寺を攻め、畠山政長は自刃、将軍義稙は龍安寺に幽閉される。

*1494.12.27/ 足利義澄(義高)が、11代将軍に任命される。

*1496.5.20/ 日野富子(57)没。

*1500.6.7/京都 応仁の乱により中断していた祇園会(祇園祭)が、30年ぶりに復興する。