【12th Century Chronicle 1101-20年】

【12th Century Chronicle 1101-20年】

 

平氏・源氏の興隆

*1101.7.7/京都 源義家の子源義親が九州を荒らしたため、追討官符が下る。(1102.12.28隠岐に配流)

 *1104.10.26/京都 延暦寺僧徒と座主慶朝との争いで、源義家・義綱に延暦寺悪僧を逮捕させる。

*1108.1.29/京都 源義親が配流先で出雲の目代を襲ったため、因幡平正盛が追討を命じられ、討ち取った正盛は義親の首を下げて帰京する。

 *1109.2.17/近江 検非違使源義忠(義家の子)を殺害した罪で、叔父義綱を捕らえる。

 *1110.3.27/出羽 出羽守源光国、摂政藤原忠実寒河江荘を侵す。

 *1113.4.29/山城・近江 清水寺別当の任命をめぐって強訴合戦(永久の強訴)を繰り返す延暦寺興福寺の闘争を制止するため、平忠盛源重時を宇治(対興福寺)に、源光国・平盛重を西坂本(対延暦寺)に派遣して、僧徒の入京を阻止する。

 *1119.12.27/京都 平正盛が、九州地方の賊平真澄を討ち、その首を携え入京する。

 

清和源氏

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 源氏には天皇を祖とする源氏二十一流があり、なかで清和天皇からの流れを汲む氏族が「清和源氏」と呼ばれ、のちに歴史の舞台に登場する源氏の主流となった。清和天皇の曽孫にあたる「源満仲」が摂津国多田の地に源氏武士団を形成し、その子「頼光」・「頼親」・「頼信」がそれぞれ引き継いだ地名を冠して、「摂津源氏」・「大和源氏」・「河内源氏」と分派された。

 

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 「河内源氏」の祖とされる「源頼信」は、嫡男「頼義」とともに、長元4(1031)年、東国で「平忠常の乱」を平定し、その後の河内源氏の東国での地盤を形成する。この乱の以後、坂東武士が河内源氏と主従関係を結ぶようになり、河内源氏が東国を支配下におき、武家源氏の主流となっていった。

  永承6(1051)年、陸奥での安倍氏の反乱(前三年の役)で、前任に代わって陸奥守となった「源頼義」は、嫡男「義家」とともに、途中苦戦するも、最終的には清原氏の支援を得て、陸奥を平定する。その功績により、頼義は正四位下伊予守、嫡男義家も従五位下出羽守に任じられ、中央での評価も高めた。

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  永保3(1083)年、陸奥守として赴任した「源義家」は、清原氏の内紛に積極的に介入する(後三年の役)。義家は、清原家の養子である「清衡」を支援し、後三年の役終結させるが、朝廷はこれを私戦とし、恩賞はなく、かつ陸奥守を罷免される。これは義家が陸奥守として貢納すべきものを、私戦に費やして、陸奥守としての職務を怠ったと見なされたためであった。

 動員した坂東武士への恩賞も義家の私財で賄ったが、これは結果的には義家が強い主従関係で関東に地盤を築くことになった。しかし以後10年間、義家は中央で地位を得る機会はなかった。やっと白河法皇から許され、院昇殿を許される官位となった。

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 その後も、弟義綱の方が中央で台頭して競合したり、次男の対馬源義親が、鎮西において問題を起こしたりと、河内源氏棟梁として頭を悩ますことが頻発する。嘉承元(1106)年には、別の息子の源義国(足利氏の祖)が、叔父で義家の弟源義光と争いを起こすなか、源氏棟梁の義家は68歳で没する。

 その翌年には、隠岐に配流されていた源義親出雲国で再び騒乱を起こす。義親追討に源氏に適任が見当たらず、白河法皇因幡国の国守で院近臣でもあった「平正盛」に義親の追討を命じる。正盛は義親を討ち、源氏より平氏が院の信任を得るようになっていった。

 

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 さらに天仁2(1109)年、河内源氏の棟梁を継いだ義家の息子義忠が暗殺される事件が発生、犯人は義綱と子の源義明とされ、義親の子「源為義」が義綱一族を追討し、家督は為義が継いだ。義光・義国や義忠の遺児河内経国、為義の子源義朝などは関東へ下り勢力を蓄える。

 以後、「保元・平治の乱」を通じて、源氏・平氏一族が、それぞれ敵味方に分かれ入り乱れて争った結果、「源義朝」が「平清盛」に敗れ、平氏の天下が訪れる。そして義朝の遺子「源頼朝」が、関東に根を張った源氏の一族郎党に支えられ、平氏を追討して鎌倉幕府を開くという流れになる。

 

桓武平氏

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  天皇から臣籍降下した平氏には四流があり、そのなかで武家平氏として歴史の舞台に登場するのは、桓武天皇から発する桓武平氏で、高望王坂東平氏の流れをくむ常陸平氏伊勢平氏がある。なかでも、 承平天慶の乱に功のあった「平貞盛」の四男「平維衡」から始まる「伊勢平氏」が本流となり、その五代あとの平清盛のとき最盛期を迎える。

  賜姓を受けた平氏一族は、関東一円に展開して勢力基盤を作った。 承平5(935)年、坂東平氏の一族「平将門」が反乱を起こし、伯父の国香まで殺してしまう(「承平天慶の乱」)。将門追討の命を受けた国香の嫡男「平貞盛」は、藤原秀郷らの協力を得てやっとのことで将門を討ち取る。

 

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 貞盛の子「平維衡」は伊勢に地歩を築き、その後子孫が住みついて、「伊勢平氏」の祖となった。そして維衡の三代後から正盛・忠盛・清盛と続いて、伊勢平氏が政権に上り詰めることになる。平氏政権を打ち立てた「平清盛」とその一族が、特に「平家」と呼ばれるが、これは血流としての平氏ではなく、特定の家・一族郎党を含めて呼んだものである。

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 一方で、維衡の異母兄にあたる「平維将」の系統からは「北条氏」が出ており、後の源頼朝の郎党として、鎌倉幕府の執権となる。清盛亡き後の平氏を討ち鎌倉幕府を樹立する源頼朝の下には、坂東に展開した平氏も多く参加しており、平氏の流れを汲む北条氏が源氏の有力郎党であったことにも不思議はない。

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 その後の展開から、東国の源氏・西国の平氏と言われることが多いが、高望王が降籍して上総介「平高望」として赴任して以来、東国は武家平氏の基盤の地であった。すなわち坂東平氏の一族が、伊勢平氏として移り住み、中央(朝廷)にも勢力を伸ばし、やがて西国にも勢力を広げたというのが事実である。

  一方、北条氏や坂東八平氏などの東国の武家平氏は、源氏一門や藤原氏一門に恭順し家臣となるか、あるいは抵抗して追討されるなどして、大きな勢力を維持できなかった。そして傍流と見られた伊勢平氏平清盛が、西国を制して中央政権を牛耳ることになった。

 

(この時期の出来事) 

*1101.4.7/奈良 興福寺僧徒が金峯山寺僧徒と争い、堀河天皇と右大臣藤原忠実が制止する。

*1102.8.5/山城 興福寺僧徒が蜂起したのに対し、白河法皇宇治橋を破壊して入京を阻ませる。

*1102.9.3/奈良 東大寺で、東大寺興福寺の僧徒が争う。

*1103.3.3/京都 鬼神横行の妖言により、京中の人々が門戸を閉ざして閉じこもる。

*1104.3.-/近江 延暦寺園城寺三井寺)の僧徒の争いが激化する。

*1105.2.15/陸奥 藤原清衡が、平泉に最初院(中尊寺)を建立する。

*1106.6.-/京都 田楽が流行し、人々が路上で踊りに熱中する。

*1111.この頃 「今昔物語集」が成立する。

*1119.3.25/京都 白河法皇が、藤原忠実が寄進を受けた上野の荘園を停止させる。

*1120.11.12/ 関白藤原忠実が娘を鳥羽天皇の妃にすることを拒み、白河法皇から内覧の職を停止される。